年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

原爆まぐろ ①

2006年11月15日 | 築地市場にて
1999年9月30日、茨城県那珂郡東海村の核燃料加工施設が起こした原子力事故がありました。直ぐに茨城産の野菜等の風評被害が出て対応に追われたことがありました。同じく茨城産の漬物も影響受けました。漬物になるのは一夜漬でも何日かかかるのに問い合わせるとは悲しい。築地市場の戦後史の中で「原爆まぐろ」事件のことはかなり大きまことだったようです。
当時汚染されたマグロを処理できず、築地市場の敷地に埋めていて、最近埋めたと思われるところを発掘したが放射能は無く、いまとなってはどこに埋まっているのかもわからないようでした。豊洲市場へ移転の基礎調査のとき「原爆まぐろ」の話がありました。その当時から築地で働いている現役の人の話です。イロイロあるよ築地の昔話。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

防災訓練

2006年11月14日 | 築地市場にて
11月21日(火)の昼頃、築地市場内のフタカケ付近で18年度防災訓練を行なうので参加してくださいとの回覧が回ってきました。毎年交代で参加してますが普段使ったことのない消火器を実際に使って火を消すなど訓練をします。築地市場は何回か火災を出しているので時々市場休のとき消防署が消火訓練をしています。
 フタカケとは波除神社のそばにある海幸橋門の下にあった川にフタを掛けて駐車場としたので名付けられたと思います。築地市場の住所はすべて中央区築地5丁目2番地1号です。従ってその中に施設が増えるため通称がまかりとおっています。門の名前も正門・勝どき門・海幸橋門・市場橋門・合物門・波除神社脇合物門・青果門(昔は裏門と呼ばれていた)の名前が付いていますが全部で10門と桟橋があります。東京都の巡視詰め所が在る所のみが門の名前が付いているといってよい。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

少し前の築地市場のルール

2006年11月13日 | 築地市場にて
バブルの時、築地市場は込んでいて駐車するのも大変であった。現在の中古車販売所のように通路まで駐車していて、いざ車を出そうとしても何台かの車両を動かさなければ出られなかった。通路の駐車している車は鍵が付けて駐車しているのである。外国の人が見たら盗難の恐れが無いのかと思うでしょう。更に買出しの車に荷物の監視も無く仕事をしています。今は不景気と築地の混雑を回避した人が多いため駐車が簡単で鍵の付いてあるのは無くなりましたが今でも付いたまま駐車しているのを見ると古くから築地で働いている人が運転していたのでしょう。
 そういえば駐車スペースが年々少なくなってきています。前は新大橋通りには市場買出し人(寿司屋さんのように乗用車で来た人=場内には11時まで入れない)の駐車場として歩道に車を乗り上げて縦列駐車して歩道側から荷物を積んでいました。しかし歩道に徐々にガードレールが設置され今では見かけなくなりました。更に大江戸線が開通し築地市場が観光地化すると共に築地市場に来る人が増え、歩道を走行していたターレット(市場内で荷物を運ぶ車)が通行できないように杭が設置されました。また最近では二重駐車させないためか中央分離帯のフェンスがつくられました。
 午前中の築地の状態と午後8時過ぎから深夜にかけての状況は全く違います。大型トラックの荷おろしが始まると車は動かすことは出来ません。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

xジャパンのヒデの葬儀

2006年11月12日 | 築地市場にて
平成10年5月7日築地本願寺にてxジャパンのヒデの葬儀がありました。今まで築地本願寺にて色々な葬儀がありましたが参列者の数の多さはヒデの葬儀が一番で驚かされました。築地本願寺から行列は晴海通りの勝鬨橋まで届き、更に佃大橋に向かって列が伸びていたそうでした。仕事中で外から来た人の話しで築地市場外の状況がわかります。髪を赤く・茶色く染めた男女の若者が不釣合いの喪服で新大橋通りに並んでヒデの霊柩車が汐留方面に向かうのを待っていました。葬儀の後、彼らの立ち尽くした所を近所の住民に掃除道具を借りて綺麗に清掃していました。二度びっくり。築地市場は自然に彼らに掃除させる雰囲気があります。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都バス 市01

2006年11月11日 | 築地市場にて
都バス 市01
新橋駅(銀座口)-浜離宮前―築地5丁目―朝日新聞前(大江戸線築地市場駅前)-築地市場正門
※ 朝日新聞社前―-築地市場正門間の運行は、市場休市日は運休です。
大江戸線が開通してから乗客が減ったと思いますが市場行きの都バスは魚の臭いで満ちていました。築地市場がまだ活気のあったとき都バスは連休前、混雑している市場内に入ることが出来ず乗客は朝日新聞の手前や三井造船前の停留所で下車していた。
 都バスは地下鉄日比谷線を利用する人以外の足であり一番早くから動いているバスである。午前5時2分JR新橋駅発。築地市場へ入る時右折の仕方が変な右折の仕方になる。まるで原動機付自動二輪車のように交差点を曲がる。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シオサイトの昔

2006年11月10日 | 築地市場にて
汐留貨物駅
大江戸線が開通する前国鉄新橋駅から築地市場まで晴れている日は歩いてかよっていた。第一京浜を横切って汐留貨物駅の正門の前を過ぎると、海岸通りの方に向かって曲がると10台以上のリヤカーが在った。歩行者のほとんどいない広い歩道は磯辺焼き屋台用の駐車場となっていた。万年塀の切れ目から広い貨物駅の空虚な風景が見えた。時たま九州から「おくもじ」という高菜の油いための漬物が広いプラットフオームに放置され取りに向かった事があった。道路一つ隔てた銀座の町と余りにも差があった。九州から築地まで一週間もかかって荷物が着く,有蓋車に積んだ荷物はとにかく遅かった。国鉄の労働者のスト件ストの時からトラック便に切り替えてもらった。荷主さんは地元の国鉄を利用したかったが余りにも遅くて我慢できなかった。
シオサイトのあった場所の昔の話です。基礎工事の前、遺跡調査があり江戸時代の遺構があって船付き場のようなものが見えました。
おくもじは福岡県大牟田市で作られていてとても丁寧な商品であったが廃業となってしまった。残念。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人力車と天秤棒

2006年11月09日 | 築地市場にて
東京都中央区銀座7-16付近にある人力車は駐車しても良い標識です。築地市場の付近には料亭がたくさんあります。いわゆる新橋芸者さんの送迎に使われています。浅草や京都には観光客用の人力車がありますが昔ながらの用途で使われています。なお、この付近の料亭に行くのでしょうか天秤棒の両端にハッポースチロールの箱をぶら下げて築地市場から商品を運搬している人を見かけました。浮世絵に出てくる江戸時代と同じ風景でした
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

築地市場がバブルのころ

2006年11月08日 | 築地市場にて
今週の金曜日、つまり11月10日に東京都と築地市場協会は築地市場3F東京都講堂にて市場内の業者のための外国人労働者の雇用に関する講習会が開かれます。何回か参加しましたが切実な状況でいつも参加者があふれんばかりです。東京入国管理局の講師の説明は驚くことばかりです。若い日本人は早起きが苦手で人集めに苦労しているようです。
 今から20年程前バブルのころ築地市場は若い人はほとんど外国人で安い市場内の食堂はどこの国かと思うくらい日本人はいませんでした。彼らの話していることを解説してもらったら仕事と給料の情報交換ということでした。特に中国人の出来る人(蛇頭)は日本で稼いでアメリカに向かうそうです。密航してきた人も女性は二~三ヶ月でファッションセンスが日本人並になります。対応力には驚きます。日本語も出来なくても何とか成るのは世界中に中華街を造る国民性でしょうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

築地で見かけてよそに無いもの。②

2006年11月07日 | 築地市場にて
魚の箱
昔、魚はトロ箱にいれて運搬していた。今はあまり使わないけれど当時は魚を入れる運搬用の木箱は手カギで引っ掛けて積み下ろししていた。今は発泡スチロールのトロ箱でゴミ集積所に溜まった箱の高さは小山のようである。そういえばリンゴを入れる箱も木箱であった。これも発泡スチロールに変わり、温度管理のできてダンボール入りと変化した
トロ箱とは、海産物を入れる箱のこと。魚を入れる輸送するための魚箱。築地市場には隅田川沿いの隅に発泡スチロール の容器の販売所があり、市場内の容器の回収所から集めた発泡スチロールを溶解するところが浜離宮よりの場所にある。溶解した発泡スチロールは再度利用される。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

築地で見かけてよそに無いもの。 ①

2006年11月06日 | 築地市場にて
築地市場に来たタクシーを悩ました寿司屋の買い物篭。
竹篭(たけかご)
昔は多かったのですが築地に仕入れにやって来るプロの必需品です。通気性に優れ、水も逃げるため重宝されています。築地市場に来るJR新橋駅よりの都バスでよく見かけました。主に水産関係の仕入れする 魚屋さんや料理屋さんが、市場でこのかごを持ち歩いている。竹を繊細に編み上げてあるから、軽くて丈夫。口が広くて出し入れしやすいものです。
:■竹篭の寸法:約40×21×25、持ち手高14.5cm、720g
■素材:孟宗竹、籐、ビニール

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝日新聞が築地に来る前

2006年11月05日 | 築地市場にて
1980年(昭和55年)11月 東京本社が千代田区有楽町から中央区築地(築地市場正門前)に移転してきた。
築地市場の食堂は“安い・早い・美味い”だったと言われる・吉野家のキャッチフレーズみたいだった。築地市場の労働者の食堂の定食の値段は昭和45年頃130円だった。オイルショック前の値段。朝日新聞が来ると世間並みの値段となり、今では観光地の一見相手の客を相手にする食堂と同じレベルになりつつある。市場で働く人の給料でより“安い・早い・美味い”食事を求めていて口がうるさい人が揃っていて進化していたのに高給に任せて市場を侵食した。市場の食堂は堕落した。
築地4丁目の晴海通りの交差点から新大橋通りの浜離宮の交差点までタクシーは乗客を降ろすためにしか来なかった。特に買出し人が帰る時間はひどかった。タクシーの運転手さんに聞くと魚河岸の乗客の品物を積むと魚の臭いが何時までも残り始末に困るので築地市場の手前で曲がるという。
しかし、朝日新聞が来るとタクシー乗降所ができ乗車拒否出来なくなった。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治時代の栄養至上主義

2006年11月04日 | 宅老のグチ
明治30年代に食品の法規が整備された時、日本における牛乳の歴史が関係している。明治維新に伴う武士の失業の救済策として酪農が奨励され、いわゆる勧農畜産政策・文明開化の欧風化政策・牛乳の栄養価を推進し・肉を食べる。国民の体力向上のため政府が飲食を薦めた。
 北辰社は明治6年に神田猿楽町に設立し、牛乳を搾取する牧場を飯田橋につくった。北辰社は函館で最後に戦った旧幕府軍の会社であった。明治の牛乳販売は搾乳した牛乳を販売人が牛乳缶に入れ,各家庭に売り歩く方法であった。そこには衛生・ごまかしの問題が生じていた。この問題が大きくなったのは明治30年頃である。
 大久保利通が東大駒場の前身を作った岩山敬義にいった言葉と知られる。
「日本は漬物と味噌とイワシの汁を通常の食物として,鳥のサツマ煮などは容易に入らないような生活しているが、欧米各国では幼少の頃から常に牛乳を飲み、牛肉を食べて生活している。欧米人が賢いのも当然である。実に、健康なる頭脳は健康な身体に宿る。わが国民の食物を改良し、心身とも健康なる国民たらしむるは、君の任務である。」
 同じような趣旨の言葉は敗戦後、語られた気がする。とにかく戦前は欧米人との体格差から食品に於いての問題は栄養があるか無いかが重要視され安心安全はそれほどでもなかった。戦前、サッカリンの問題は栄養が全然無いということが問題であった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京市場駅

2006年11月03日 | 築地市場にて
東京市場駅(とうきょうしじょうえき)
築地市場に貨物駅がありました。市場の地図を見ると魚類部の建物がカーブしているのがその証拠で今でもプラットフォームの跡である段差があります。
 朝9時過ぎに貨物列車の移動があり、国鉄の人が旗を振りながら築地市場内の踏切では荷物を運搬する軽子の子車からマグロなど品物が踏切に落ちないように監視していました。特に旧時計台通りの踏切は長く、横断する線路の本数も多くがたがたと子車が揺れて荷物が落ちました。
 九州から高菜漬が貨物列車で入庫していました。日通の爪の長いフオークリフトでパレットに載せられて来ました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

築地市場引き込み線路跡

2006年11月02日 | 築地市場にて
東京都中央区銀座8丁目21の所に汐留貨物駅から築地市場内の東京市場駅に向かう踏切があった。銀座郵便局から築地市場方面に向かう通路はほんの少し前まで貨物の引き込み線があった。築地市場建て替え案のとき、線路跡は青果部の駐車場として利用されていた。
現在、この築地市場へ向かう貨物の線路跡はよくコンサートのある浜離宮朝日ホールに向かう専用通路のようである。
写真は銀座に残された唯一の鉄道踏切信号機と書いてあり、保存理由が解説されている。  
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京橋大根河岸の最後の頃

2006年11月01日 | 趣味としての漬物
11月になれば大根の旬となる。
三浦大根の嫁入り
昭和9年12月19日東京日日新聞
お正月の食膳へ二万本の積み出し
 京浜市民のお台所でおなじみの三浦大根がお正月の食膳を賑わすべき大量二万本。18日朝三浦市の日の出海岸より船で東京へ送り出された。同町宮川のお百姓さん達が丹精込めたくっきりと真っ白い豊潤な処女のごとき肌を惜しげもなく寒風に吹きさらして海岸に山と積まれた大根のオンパレードはチョッと壮観だ。京浜地区を消費地として年産100万円に上る名物三浦大根も今年は虫害のため4割方の不作で値段も昨年よりずっと高く東京の問屋渡しが一本3銭から8銭位という。

この当時は三浦大根を船で東京に送っていた。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする