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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

皐月晴上野朝風16

2008年11月30日 | 福神漬
皐月晴上野朝風16
五代目菊五郎と上野池之端の『酒悦』主人との交友があったというが資料がなく、単なる有名人との付き合いがあったということが言い伝えでの残っていたのだろうと思っていた。しかし皐月晴上野朝風の上演報道から上野寛永寺関係者の一人として観劇の一団に加わっていたと思われる。なぜなら酒悦は寛永寺管主から店名をもらっていたのだからである。幕末に池之端周辺で参拝客のための香煎茶屋が3軒あったが全て『酒』 の一時をもらって店名としていた。明治初期の混乱で上野池之端のあたりで残った茶屋の一つが酒悦で主人の経営努力の差ということになる。

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皐月晴上野朝風15-2

2008年11月29日 | 福神漬
皐月晴上野朝風15-2

明治23年6月15日読売新聞
彰義隊の23回忌
昨日は戊辰の年戦死した彰義隊の23回忌あたるので榎本武揚・沢太郎左衛門・田邊太一・榊原健吉の諸氏は円通寺に参詣して大施餓鬼を執行した。(この行事に)尾上菊五郎を初めとして小団次ら歌舞伎俳優および作者竹柴其水並びに守田勘弥の代理も同寺に参詣し、菊五郎は銅製花瓶一対を、小団次は牡丹の造り花一対を奉納し、かつ新富座楽屋・茶屋・出方等より供物米百三十袋と団十郎・菊五郎・左団次を初め俳優一同より金二十五円を奉納したという。
上野彰義隊の墓賑う
苦情のため折角の銅碑を取り除き、一度は無縁の有様になった上野彰義隊の墓はその有志者の尽力によって再建となったが近頃は参詣するものが極めて少なく、たまたま昔を偲んで香花を献花するものがあるに過ぎなかった。今回新富座において当時の戦争を芝居にした以後大いに人々の懐旧の感情を起こしたので参詣人が日々増加し、駒込大乗寺の現住職は墓の周囲に鉄柵を造り、追善供養を営み、ことに彰義隊の人々および旧幕府の人々等は続々同所に参詣して香花を手向けかつ寄付金等をするものが多いという。

 明治の当時もイベントがあると関係するところが繁盛するようである。また芝居も国が企画した第三回内国博覧会が上野で開催されている時期に合わせて上演した。
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皐月晴上野朝風15

2008年11月28日 | 福神漬
皐月晴上野朝風15
明治23年5月に上演された歌舞伎は時代の変わり目だった。森鴎外も観劇していたようで『芝居小屋と寄席の近代』倉田喜弘著によると『団十郎の濁っただみ声は聞くに堪えないので耳栓をしたほうがよい。(東京新報23年6月3日)』と鴎外は評論していた、とにかく新富座の『皐月晴上野朝風』を観ていたということになる。

明治23年6月15日読売新聞
昨日の新富座
昨日の同座は日曜と言い、ことに雨天だったため近来になく大繁盛で早速売り切れとなった。また当日成福の演じる上野輪王寺宮(北白川宮)殿下の御兄上である陸軍大将小松宮殿下もご見物あらせられ、また東本願寺の門跡もご見物された。

小松宮殿下の像はどのよう理由か上野公園にある。また輪王寺宮(北白川)もお忍びで芝居を見物したと言う。(彰義隊遺聞より)

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彰義隊遺聞 森まゆみ著 2

2008年11月27日 | 福神漬
彰義隊遺聞 森まゆみ著 2
『皐月晴上野朝風』を明治23年5月に上演した菊五郎が彼の扮する回向院にある天野八郎の墓を訪ねて、墓を修復した。この行動に対して明治4年に墓を建立した元彰義隊の同志は施主に無断で修復したとのことで怒り(芸人風情に修理された)円通寺に改葬し、天野八郎の碑をたて榎本武揚の額がある。また問題の菊五郎の修復した台石もあるという。つまり今の墓は菊五郎の芝居がなければ円通寺になかったこととなる。芸人に対して『』という差別感がまだ残っている時代だった。今の歌舞伎役者はこの人達の苦労の上に成り立っている。
 福神漬の生まれた上野周辺の状況がこの明治23年の第三回内国博覧会のあたりから変ってきた気がする。それは戦後の復興期から『もはや戦後ではない』と言われた時代になった時に似ている。
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彰義隊遺聞 森まゆみ著 1

2008年11月26日 | 福神漬
彰義隊遺聞 森まゆみ著 1
ようやく京橋図書館でこの本を借りた。読売新聞の記事でわからないことがこの本に書き記されていた。天野八郎の娘の名前は『すず子』だった。また湯島天神内に住んでいた田口喜太郎氏は獄中で亡くなった天野八郎の遺体を回向院に埋葬したことがわかった。この本によると小川屋喜太郎となっている。小川屋は屋号だろう。五代目菊五郎が音羽屋で本名が寺島と言う関係となる。明治4年に彰義隊の生き残りの同志が回向院に天野八郎を弔い石碑を立て法名をつけた。
 また天野八郎の隠れ場を漏らした彰義隊七番隊隊長石川善一郎は後に天野の遺族の面倒を見たという。
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食べ物だから

2008年11月25日 | 築地市場にて
食べ物だから
築地市場は食べ物を扱うところだから、不景気だからといってもある程度動いていて、そこそこ忙しい。今年の年末は予想以上に悪そうで誰も無駄な消費をしないで節約しそう。既に年末年始にはガソリン価格が1リットル100円以下になりそうで明らかに反動価格である。
 ある築地のすし屋のチラシ広告では『マグロ』の寿司が半額と言うセールをやっている。来年から( クロマグロ)の規制が始まって品不足になるのは時間の問題で景気の問題ではない。アフリカのタコも日本人のたこ焼きで種の絶滅を招きそうになって規制している。不景気もまた良いこともある。食べ物情報は仕事をしている人しか伝わらずかなり状況が変化して一般の人に伝わる。平和な時代でいつでも食べることが出来るから安心している。いいのかな。
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皐月晴上野朝風14-2

2008年11月24日 | 福神漬
皐月晴上野朝風14-2
明治23年5月29日読売新聞
菊五郎へ天野氏よりの書状
寺島 清様(五代目尾上菊五郎のこと)貴下
亡父(天野八郎のこと)の性格を二三書き添え、参考まで申し上げます。
一 生来大酒のみで一升(1.8L)くらいは飲みます。
一 常紋は三つ柏にて、才蔵(漫才)の風呂敷のようにみえ、まことに好ましくないと申して浪に七曜の星をつけたのを用いておりました。
一 浴衣は鼠地に香車を染めたものを用い、全て何の印にも香車を用いていました。
一 居間の額には隷書にて『無二諾』秋氏の書いたのを掛け、これに対して『集義』と楷書にて書いているのを掛け、これは自己を責める道具だと言っていました。
なお詳しきことは神田区小川町二番地田口喜太郎氏なり芝区四国町二番地四号須賀いく方天野そぞ子と訪ねて下されば委細お話あげます。また写真も一枚ありますので御用があれば御覧に入れることが出来ます。
くれぐれもご厚志の段お礼申し上げます。

この感謝状を一覧して菊五郎は大いに喜び早速衣装の紋を改めんと紋帳を取り寄せ調べたが浪に七曜星の付いている紋はなく、その雛形および天野氏の写真とも一覧いたしたいと天野そぞ子氏方へ弟子を以って問い合わせたが別に紋の雛形はなく、また写真は知人のもとに貸し与えたので近日中に取り寄せるとのことにて同優(菊五郎)は来月中旬には天野そぞ子氏を招待して新富座を見物させるという話が出ていた。

この時代は記事の信憑性を高めるため実名実住所で女性は特に年齢付だった。そして二十歳前の一般女性は美女か孝女となって記事に現れることが多い。芸者さん報道はは二十歳前は年齢つきでそれ以後は名前だけのような気がする。
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皐月晴上野朝風14-1

2008年11月23日 | 福神漬
皐月晴上野朝風14-1、
明治23年5月29日読売新聞
菊五郎へ天野氏よりの書状
去る23日の読売新聞紙上に掲載した『音羽屋の参詣』と題し、彰義隊の隊長だった天野八郎氏の息女そぞ子(今年27歳)氏より去る24日菊五郎のもとへ書状を贈られたというのでその全文を次に掲載する。
『読売新聞明治23年5月23日を拝見し今回新富座において亡父八郎の役を御勤めについて一昨日亡父の墓に参詣くださり、かつ大破している墓を大修繕くださることを読んでそのことは事実でございます。ご厚志の段はありがたく御礼申し上げます。その件につき少々申し上げたいことは墳墓の件はご存知のごとく如何にも破損いたしており、私ども遺族に於いて今年は23回忌にあいあたり、方々をもって修繕を加えんと思っております。
 また新聞紙上に記事となっていたように糺問所において死去いたした後、湯島天神地内に住居している田口喜太郎氏と申すものは亡父の別懇のものであります。同氏のご厚意により遺体を収め、私どもはその節は厳しい法律のゆえ姓名を名乗ることも出来ずただ一通りの回向し埋葬しただけのことでありました。それゆえその寺の住職でさえまったく遺族なき者と思っていとようです。そのような時秋元寅之助氏等(新聞には寅雄氏とあり芝居では寅之介)の御厚意に今の墳墓をたててくださったことは感謝しておりました。
このような次第につき此の度修繕を加えてくださることは私どもは感謝していると秋元氏等に一応話しております。このような結果を招き私どもは秋元氏菊五郎氏らにまことに相済まぬ儀にて失礼ながら書面をもってお礼申し上げます。
明治23年5月23日夜
 天野そぞ子

明治の頃の新聞は今のひらがなの活字と違って崩しているのでどうしても文脈と関係ない名前などは判読できない。天野そぞ子と書いたが〔そぞ〕としか判読できなかった。
音羽屋とか菊五郎とか寺島との使い分けはどうなっているのでしょうか。歌舞伎音痴にはさっぱりわかりません。
湯島天神に居住していた田口喜太郎氏は三河屋幸三郎のことだろうか。彼は前年の明治22年に亡くなっているので息子のことだろうか。



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皐月晴上野朝風13

2008年11月22日 | 福神漬
皐月晴上野朝風13
明治23年5月28日読売新聞
新富座の出揃い
新富座は大抵出揃ったと手一昨日は大入り客止めとなったようである。しかし一番目の狂言の大詰めの(皐月晴上野朝風)博覧会の場はまだ出揃っていないので本当の出揃いは次の土曜日になるだろう。

どうやら最後の公演まで(第三回内国)博覧会の場は公演されることはなかったようである。今ではあまり考えられないが当時は新作の歌舞伎を未完成で上演していたらしい。観客の反応を見て変えていったようである。京橋図書館で借りた本『竹柴其水集』の脚本には第七幕の博覧会の場には広告小僧なるものが出てきて宣伝をしていた。もし上演していたらどの様な商品を宣伝していたのだろうか。

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皐月晴上野朝風12

2008年11月21日 | 福神漬
皐月晴上野朝風12
明治23年5月24日読売新聞
梅幸への贈り物
(五代目尾上)菊五郎が今度新富座にて彰義隊の組頭天野八郎を演じるについてはこのほど越前屋佐兵衛氏より輪王寺(今日の北白川宮)下山の際、御使用なった泥付の草鞋と同殿下直筆の『知足』の二字のある掛け軸を菊五郎に与えたところ、菊五郎は熱心にもその草鞋と掛け軸を床の間に掲げ出勤のたびに朝夕三拝しているという。然るに越前屋にてはさらに菊五郎はかくのごとくと聞くやさらに東叡山中堂大伽藍の棟上にあった十六菊の御紋付瓦一個を贈った。菊五郎のこの上なく喜び、重宝がっていると言う。
読売新聞CDロム版の明治時代の新聞記事を検索してもなかなか酒悦は出てこない。漬物と言う食品の性格かもしれない。越前屋佐兵衛氏湯屋で竹町湯屋の場で出てくる。

北白川宮殿下は日清戦争後台湾に向かい現地で亡くなった。戦前台湾にあった台湾神社は北白川殿下が祀られていた。知足とは《「老子」33章の「足るを知る者は富む」から》みずからの分(ぶん)をわきまえて、それ以上のものを求めないこと。分相応のところで満足するこという。北白川宮は五代目菊五郎にどの様な意味で『知足』の掛け軸を贈ったのだろうか。
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皐月晴上野朝風11

2008年11月20日 | 福神漬
皐月晴上野朝風11
明治23年5月24日読売新聞
下谷連の総見物
今回新富座において上野の戦争劇を上演するにつき下谷区(今の台東区の西の部分)にてはそれぞれ組を分けて総見物をしようと相談中だという。今その主なる所をあげれば第一数奇屋町・同朋町の校書(ゲイシャ)連中、第二守田治兵衛氏の連即ち仲町連中、第三湯屋佐兵衛氏連即ち竹町連中、第四は松源連中、第五は大茂連中、第六は松坂屋連中、第七は雁鍋連中等であるという。
松源楼の場で数奇屋町の芸者の話が出てくる。
下谷花柳界があった同朋町である(今の上野松坂屋南館あたり)。同朋町はすぐ近くの数寄屋町とともに下谷花柳界として当時東京でも柳橋、新橋につぐ格式と規模を誇った。さて福神漬の酒悦は池之端仲町なので第二の仲町連中に入って見物したのであろうか。酒悦主人と五代目菊五郎との接点がなかなか見えない。
上野松坂屋は江戸時代寛永寺の御用達として発展した。さて最後の雁鍋連中だが池之端仲町裏の場で『雁鍋で食べて吉原に行こうか』というセリフがあった。料亭か料理の種類なのだろうか。とにかく池之端の裏のあたりの話で酒悦はこちらだったかもしれない。
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皐月晴上野朝風10

2008年11月19日 | 福神漬
皐月晴上野朝風10
明治23年5月23日読売新聞
音羽屋の参詣
新富座の役者一同が彰義隊の墓へ参詣するよしは既に本誌に記事にしたが同座も急に昨日(22日)より開場することとなったが一同打ち揃って参詣できなかったので、(五代目尾上)菊五郎は一昨日に竹柴其水氏(原作者)を誘い自分が演じる天野八郎(彰義隊の隊長)の墓に参詣したという。天野氏の墓は千住小塚原にある回向院の下屋敷にあり、建立以来18年の星霜を経たものでこれを修繕する者がなく既に大破しているのでこの際菊五郎はその大修繕をするという。また菊五郎はその帰途三ノ輪町にある円通寺へ赴き彰義隊戦死者540名の墓へも参詣したと言う。天野八郎氏は上野戦争後即ち慶應4年7月大川端多田の薬師際にある炭屋文次郎方に潜伏しているところを召し取られ、西の丸下旧会津邸の糾問所へ引かれ直ちに揚屋入りを命ぜられ、同年9月大名小路元御役宅本多邸なる糾問所の揚屋へ移されたが、たまたま病を発し同年11月8日の夜に亡くなった。よってその翌日、前に書いた回向院下屋敷へ葬ることなり、この際湯島天神下の町人小川暮太郎なるもが乞うて遺体を納めて墓標を立ておいた。明治6年に至り元彰義隊組頭秋元寅雄氏等が発起となって今の場所に埋葬したと言う。

莚升(えんしょう)連の総見物
同連は熱心に左団次を崇拝するものであるが、今回同人が新富座の座頭となったので来月2日一同晴れ晴れしく同座を見物すると言う。この日は同連において高平土間40間を買いきり左団次万歳、新富座万歳とおのおの3回づつ声をかける趣向である。

新富座の大安売り
演劇通とて自任している都新聞社の諸氏は昨日新富座を買いきってその総見物をしたという。名に負う新富座のことならば定めし莫大な散財となると思ったらその貸しきり料はわずか百五十円という。

同日下段の新富座の広告。
初日 新聞買いきり
二日目 半値
三日目 惣幕出揃い
上等桟敷  一間につき金5円 上等平土間 一間につき金3円 正面桟敷 同金3円
上等高土間同金2円 中等平土間同金2円 大入場御一名金20銭

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皐月晴上野朝風9

2008年11月18日 | 福神漬
皐月晴上野朝風9
明治23年5月20日読売新聞
新富座 番付
 同座はいよいよ21日正午12時より開場することとなったが、今改めてその狂言の場割り並びに役割を記すと一番目は皐月晴上野朝風は上野山下袴越の場、広小路松源楼の場、池之端仲町の裏の場、下谷竹町湯屋の場、凌雲院応接所の場、御徒町天野宅の場、東叡山黒門口の場、同山門前戦争の場、根岸御陰出裏の場、三河島不動前の場、北割下金魚屋の場、第三回博覧会の場とある。

上野山下、たんに山下ともいうが、東叡山寛永寺のふもと一帯をさす俗称である。明治になって、正式に上野山下町という名称になった。現在の、東京都台東区の上野駅構内不忍口あたりである。
 狂言の場割の地名を見ていると人の多く住んでいる所の地名多い。これは観客の郷愁の情を誘う仕掛けかもしれない。敗残兵が江戸市中に逃れたという記憶が残っていたとおもわれる。
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皐月晴上野朝風8

2008年11月17日 | 福神漬
皐月晴上野朝風8
明治23年5月16日読売新聞
彰義隊23年追弔会
 かねて記事にしていたように昨15日上野桜ヶ岡において彰義隊戦死者23年追弔法会を行われたが同法会は当時関係の戦友が発起したもので朝より老若男女の参詣多く、本郷白山前町日蓮宗大乗寺よって音楽大法要をおこない、浄僧18名にて殊勝な追弔の式を行い、また禅宗長安寺よりは9人の浄僧を出だしおごそかに心経を唱えたよし。また同日午後4時半頃榎本文部大臣には右の参詣をかねて博覧会に向かったと言う。

榎本文部大臣とは旧幕臣榎本武揚のことでこの日は山縣有朋内閣の文部大臣であった。本当は追弔会に堂々と参加したかったと思われるが同じ上野公園で開催している第三回内国博覧会を見るついでに出席したと言う形で報道されている。文部大臣の肩書きで追弔会に出席したということか。様々な形で旧幕臣の復権が図られていた。
 旧幕臣の明治維新 樋口雄彦著より
東京で旧交会という旧幕臣の親睦会が出来たのは明治17年で会長は山岡鉄舟・榎本武揚が歴任した。明治22年8月江戸時代の懐旧の情から結成された文化団体江戸会などが首唱した東京開市300年祭が開催された。委員長は榎本武揚で委員は前島密・渋沢栄一・益田孝ら旧幕臣の名士が顔をそろえた。明治東京の発展は江戸の遺産の上にあることを堂々と訴える機会となった。
 島田三郎『開国始末』で井伊直弼を開国の功労者として評価したのは明治21年、福地桜痴『幕府衰亡論』明治25年など佐幕派史観というものが出てきた時代でもあった。こんな時代だからこそ歌舞伎で上野戦争が上演された意義があるのである。
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皐月晴上野朝風7

2008年11月16日 | 福神漬
皐月晴上野朝風7
今でも昔でも芝居興行は観客が入らねば成り立たない。桟敷の中が一人の観客でも演じなければならない。そのために色々な手段をとって芝居小屋に来るよう誘導していた。これらの業務をおこなっていたのが芝居茶屋と言う組織で次の芝居小屋にかかる演目の宣伝を番付というもので宣伝し勧誘していた。明治の中頃から番付の役目が新聞に変っていくことになる。都新聞(明治22年創刊)がその代表となって歌舞伎等の文化・芸能に強い報道を強化して新聞販売部数を増やしていった。歌舞伎はどちらかと言えば江戸文化というものでして洋風明治文化とはなかなか会わないものだが福地源一郎・渋沢栄一等の尽力でグランド将軍の接待とか明治20年4月麻布鳥居坂の井上馨邸で本邦初となる天覧歌舞伎と歌舞伎の地位の向上に努めた。鹿鳴館から日本文化の見直しの時代に入った時新富座で興行した竹柴其水のめ組喧嘩(神明恵和合取組)3月興行・上野戦争を題材とした皐月晴上野朝風5月興行で大当たりした。
 新富座の明治23年5月興行の歌舞伎で上野戦争が過去の話になったのではないだろうか。福神漬はこれから日本各地に広まっていく。
 
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