年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

梅雨明けで梅干の注文が急増

2018年06月30日 | 築地市場にて

異常な速さの梅雨明けで梅干の注文が急増した。このまま高温が続けばここ数年不作だった梅で旧盆過ぎには欠品になるかもしれない。6月も終わる。7月初めには豊洲まで100日以下となる。梅干等が品薄なら、移転時の在庫が少なく、杞憂していた引越しが簡単かもしれない。景気が良ければ在庫も少ない。バブル期極端な品薄があった。いま人手不足という経済の大波で経験の少ない所に行きつつあるのだろうか。

 ラスト築地ということで外国人観光客や東京都が連日禁止放送している有料ガイドによる築地市場場内観光があるようだ。いまは英語放送だけだが中国語による放送が始まれば仕事だけでは済まない状況になるかもしれない。最後の築地市場の100日ももうマジか。

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活版印刷発達史  -東京築地活版製造所の果たした役割

2018年06月29日 | 築地市場にて

築地の活版印刷の歴史の本でタイトルだけで借り出した本だった。本木昌造と平野富二が元治元年にビクトリア号操船中大阪から江戸へ向かう途中で八丈島付近にて遭難した。この時八丈島で流罪となっていた近藤富蔵に世話となった。明治12年まだ近藤富蔵が赦免になっていないことを平野富二が知り、救済のための行動を起こした。翌年近藤富蔵は赦免されたようだ。

 この文献と石井研堂の缶詰の始まりに出てくる近藤重蔵との関係はあるのだろうか。明治期に下谷根岸に集まった懐旧趣味の文化人の中でどの様なことを語られていたのだろうか。

なお近藤富蔵の事件の処分が江戸時代の慣例となっていた判例から逸脱している処分であったという。江戸時代の北方領土の利権というものが近藤重蔵から見えてくる。今でも残る昆布によるダシの食文化は関西から始まる。

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DNA鑑定があったら

2018年06月28日 | 築地市場にて

日本に於ける缶詰の始まりとされている長崎の松田雅典と日本に於ける活版印刷の祖といわれる本木昌造の出自の腹違いの兄弟という本がある。一般には松田と本木は兄弟として文献には出てこないが公に出来ない事情があるという。(逃げる男・活版印刷の祖・本木昌造)江越弘人著

本木家と馬田家・北嶋家は血縁関係だったという。文献には最近まで考慮されなかったので缶詰と活版印刷とか通詞の関係はあまり記述がない。福神漬の文献に出てくる人が長崎関係が多く何か奥深いところに共通点があるように思っていたが具体的な文献はなかった。

 福神漬の出来たまでの経緯を書くには19世紀初頭に長崎に突然進入したイギリス船フェ-トン号事件から書いたほうが一般的には説明しやすいかもしれない。石井研堂が缶詰を島原の乱から書いてあるが缶詰がない時代で早すぎる。

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小笠原諸島返還50年

2018年06月27日 | 築地市場にて

晴海ふ頭から小笠原諸島まで今でも一日以上の船旅がある。ここに日本史が出てくるのが(蛮者の獄)関連である。福神漬の関連調査で明治6から7年頃後に自由民権運動福島事件被告人花香恭次郎が横浜から今の茨城県に転居した。親族に伝わることでは横浜での行動将来では将来がないとみなされたようだ。記録がまだ見つからないが当時工部省鉄道寮7等に任官していた親族の長井昌言の支援があったと思われる。谷中墓地にある恭次郎の墓碑には親族の長井という名前が出てくる。香取民衆史という地元の歴史研究者の書籍で花香恭次郎は息栖だろうと書かれていたが鳥栖もありえた。少なくとも恭二郎が茨城の地に行かされた理由は花香家か長井家の指図があったと思われる。茨城県鉾田市に無量寿寺というのが今でもある。この住職が蛮者の獄に関連していたようだ。住職が小笠原開拓計画を幕府に申請中だったのに理解されなかったようだ。ここから幕府による洋学者の弾圧が始まる。この洋学者の弾圧事件で南町奉行所が混乱した。長井家は

 小笠原諸島は1000KM以上離れているが海流の関係で遭難者がたどり着いたところと思われる。

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築地・石川島・戸田・長崎そして函館

2018年06月26日 | 福神漬

関連性の低い地名が並んでいるが築地・石川島・戸田・長崎そして函館は漬物の福神漬の歴史から意外な関連がありそうだ。築地にコンワ会館というビルがある。ここは昭和10年頃消えた東京築地活版製造所の跡地に立っている。今は貸しビルとなっているが印刷業界の記念的な跡地であった。中央区に印刷業界の拠点が集中するのは築地の活版印刷から製紙に始まり、需要家である新聞まであった。初期は新聞創刊も簡単で記事をつくり、活字で記事を出来るところへ運び、印刷していたようだ。従って中央区周辺に印刷業界の企業が集中したようだ。(都新聞史より)。この外部委託による新聞発行は今でもあって漬物業界紙は各新聞社の印刷の合間に発行しているようだ。

 築地の活字は長崎の本木昌造から始まる。長崎の通詞からの転進だった。本木の異母弟で松田雅典という人がいる。日本缶詰の始まりとして記述されている人の一人である。他に北海道開拓使の工場と山田箕之助がいる。それぞれ地域と時期が異なっていて関連性が低いと思っていたが福神漬の歴史から関連があったように思われる。このことが日本缶詰史に三者とも日本における缶詰の始まりとして記述されている理由かもしれない。ただこの関連性の研空はなされていないように思われる。特に長崎の人は缶詰発祥の地として長崎しかないと考えているようだ。

 山田箕之助を缶詰の始まりとする石井研堂は食の文明開化の象徴として福神漬を缶詰化したことで明治という時代を表現したと思われる。不必要な文章(島原の戦・北方領土・工部大学・津の守)などがあって文献的には根拠が無さそうで缶詰の始まりとしては誰も調べなかったようだ。文献と見ないで石井研堂の明治史観と見るとまた違った文章と思われる。

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今日は暑そうで

2018年06月25日 | 築地市場にて

サッカ-のロシア大会も築地には何もないように見えるが消費が衰えているようだ。今日は予報では今年一番の暑さで漬物関しては梅干需要だけとなる。多分月末なので暇だろう。

 いま石川島造船所を作った平野富二の本を読んでいるがこの様な人たちは子孫が熱心に伝えなければ消えてしまう歴史となる。記録を残すことが必要となる。それにしても江戸時代の養子縁組の制度は難解で同一人物が歴史学者でも不明ね人物扱いされている。明治の初めに銀座で大火があってその復興計画で工部省の建築部門で村田文男という人物が出てくる。この時期は村田は養子先の名前であるがまもなく野村文男となる。長井昌言でも船橋市史にはどの様な縁組があったか不明のような記述がある。

 暑い夏はク-ラ-の部屋で読書となる。

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謎解きは大詰めへ

2018年06月23日 | 築地市場にて

明治事物起源という本に(日本における・缶詰の始まり)という項目がある。その内容を吟味していて(福神漬)10年の歳月が経ってしまった。多くの資料調査のところで面白いと言われたが食の資料は少なく、言い伝えの世界となっていて、調査が始まったころ横浜の日本郵船歴史博物館の図書室にあった(カレ-ライスの関係本)がいつの間にか撤去されていた。多分史料としての根拠がないから自発的に撤去したのだろう。今10年経って見ると日本郵船社員の心に残る漬物で史料がなくても十分主張する根拠があると言える。

 また史料調査を公開したところ、子孫が銀座の企業のHPの訂正を申し出た事例もあった。福神漬は政治や宗教とかのしがらみがないので自由に記述できると思っていたが今までのことから社会状況に巻き込まれた漬物であったといえる。

 豊洲への築地市場の移転問題が全国の問題になったこともある。問題の切り口は多数あって、議論しやすいテ-マかもしれない。

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石川島と佃

2018年06月22日 | 築地市場にて

今は隣同士だが報道によると盆踊りの主催で混乱があるようだ。こちらの混乱はようやく石川島造船所と築地の活字と函館で戊辰戦争の最後の戦いで戦死した漬物商人との関係が見えてきた。浦賀奉行と行徳の塩との関係、水戸藩による利根川水運の状況、静岡県の戸田でのロシア船造船事業に関係者が集まっていた。維新後長崎は貿易の独占の特権がなくなり、京都以上に衰退したと思われる。この件で長崎県史を読まないといけないと感じる。福神漬に出てくる人たちは明治になって続々と東京に集結した歴史となっている。

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逃げる男 活版印刷の祖・本木昌造

2018年06月20日 | 福神漬

築地活字というものがある。長崎の本木昌造の会社で作った活版印刷用の活字である。この本木の伝記で松田雅典という人が弟であることを知った。

石川島の造船所を作った平野富ニは本木の下で働いていた人だった。やっと石川島と缶詰の関係が薄っすらと見えてきた。日本缶詰史という本には日本における缶詰の発祥について、長崎の松田雅典、北海道開拓使の缶詰工場、それに石井研堂の缶詰の始まりに出てくる山田箕之助がある。それぞれ関連性がない様な記述だがもしかすると関連性があるかも知れない。ただ一般には長崎の人たちの方が缶詰の始まりを意識しているようだ。

 長崎の通詞という職業から異国の新技術の情報に早く知っていたため長崎とか横浜が発祥の地が多い。

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豊洲市場のトイレ

2018年06月19日 | 築地市場にて

18日打ち合わせのため豊洲市場行き。時間が余ったので警備の人に稼動しているトイレを教えてもらう。びっくり。新品の設備はまるでオフィスビルのトイレ並みとなっている。築地市場が観光客の使用に耐えないトイレと比較すると大差がある。さらに洗浄設備もある。使用しなかったので暖房便座か未確認。多分ついているだろう。

 とにかく太い柱は地震に対して食料分配基地となるに安心感がある。豊洲市場内に防災基地があり、付近の住民及び帰宅困難者の準備があるようだ。

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そろそろ豊洲の追加工事も終わるはず

2018年06月18日 | 築地市場にて

前回豊洲市場内に新設された冷蔵庫の点検に立ち会って以来の豊洲行き。電話回線の確認。予想より東京都との折衝が大変になりそうだ。回線の責任問題でメタル回線は東京都は考えていなかったようだ。今日のような震災で電気がなければ光回線は役に立たない。日本の責任ある企業として1回線は最低メタル回線として必要と考える。

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テレビ局のあおり

2018年06月17日 | 築地市場にて

行き過ぎた食品の番組でオタオタする。ショウガで痩せるとか梅干で見た目がよくなるとかで売れ行きが変化する。

 和歌山県みなべ町の(おにぎり条例)の話題の放送がある。近日中に放送されるだろう。地域振興の市町村は必死なのだ。人口が減れば役所の仕事も減り、職場が消える。

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国立公文書館の戊辰戦争150年で相楽総三が気になって

2018年06月17日 | 築地市場にて

5月26日からの国立公文書館の戊辰戦争150年で相楽総三が気になって、まとめて関連本を読みはじめた。下総から茨城にかけて幕末には小さな藩と幕臣の知行地が存在し、地域の有力者に統治を委託することが多かったようだ。支配者の浪費による過酷な年貢の取立ての板ばさみとなった人もあったようだが例外的に金融的なことを行い実力をつけた人もあったようだ。相楽総三の実家である小島家も例外の家かもしれない。水戸藩関連の物流業務とか佐原の伊能家のような商人もあった。この辺が利根川商業の幕末発達を知りたい。

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消えた築地市場

2018年06月16日 | 築地市場にて

休日前後に中央区に配布される不動産広告で最近目立ってきたのは銀座・築地周辺で新築されるマンションが増えてきた。それに伴って新聞に折り込み広告が入っている。築地のぞばということで付近の地図が書かれているが、築地場外市場の記載はあるが今でもある築地市場には空白の地図となっている。都知事の築地再開発案が誰も信用していないことの証明となっている。

 日々変化する築地は明日のことは誰もわからない。

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メディア出身議員の研究

2018年06月15日 | 福神漬

6月13日日本経済新聞夕刊のコラムで気になる記事があった。メディア出身議員の研究というもので近日中に公刊となるようだ。明治期に新聞なるものが日本で発達した。多くは旧幕臣が報道に携わったので明治政府と対立した。また庶民とか婦女子を対象とした小新聞というものも発生した。また同時期に和紙から量産できる洋紙が日本で出来るようになり、印刷技術も活版というもので印刷量も増やすことが出来るようになった。全てといってよいくらいこの仕事に関する事業は士族という人が記録に出てくる。和紙の方は昔かたぎの人が多かったようで西洋印刷文化の発達で没落していった。

 明治の20年代に日本文化の見直しあっても、浮世絵等の印刷文化を支えた木版印刷は既に衰えていて復活までには至らなかった。圧倒的な量の印刷で旧来の印刷は次第に駆逐された。商業印刷でも同様で士族の精神が残っているように感じる。この方面の研究はあるのだろうか。

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