年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

ダイコン返し

2023年02月28日 | 宅老のグチ
いま戦後の闇市を調べているが闇市自体は先の戦争中にも存在していて、配給で不要なものとか沿線の親族からの食料の交換もあった。戦後まもなく始まったことではない。米軍の空襲を避けるため、駅の周辺は強制的に建物を壊し空き地を作った。その空き地に終戦後すぐに露店の店が出来た。この方法は縁日の縄張りの仕組みでテキ屋のなれた仕事だった。次第に落ち着くと警察とテキ屋との暗黙の協定による屋根の付いた店となった。
 主なタ―ミナルの商材は特色があって西武池袋線・東武東上線は都下の農家、埼玉の農家から闇物資、隠匿物資を運びこんでいた。やっかみの都民は川越のイモが江戸時代から有名であったので西武線の電車の色はウンコ色とかイモ色とかいっていた思い出す。今は練馬区がタクワンで郷土色を出そうとしているが沢庵も黄色い。しかし練馬大根は畑から出したときは真っ白で、今の青首大根は地面の下が白く、土の上に見えるところから緑色である。
 よく言われるのがダイコンを漬けた沢庵が黄色くなるのはなぜかという。
大根を塩漬として漬け込むと、徐々に黄色くなっていきます。 これは、大根の中に含まれる辛味成分が分解され、他の成分と結合して黄色を示す事が原因です。大根の辛み成分は「イソチオシアネート」です。大根をすりおろしたり切ることで生成されます。 部位によってイソチオシアネートの含有量が異なるため、辛みの感じ方も違ってきます。 根の先端に近づくほどイソチオシアネートの量は多く、その量は葉に近い部位の約10倍にもなります 。このイソチオシアネートには抗酸化、殺菌、発がん予防の効果がみられるという。

 タクワンを漬け込んだ経験のある人は知っていると思いますが白い大根が黄色くなってゆく過程はゆっくりと変化します。そこで戦前の軍隊納の練馬の漬物業者が軍からまだらに変色した沢庵にクレ-ムが入って、黄色い方が食欲が出ると言われ、カレ―に入っているウコン粉で染めました。その方が自然に黄色くなった沢庵より古くなったとき黒くなりにくいことで普及しました。戦後に入ってウコン粉が手に入らず、やむなく他の漬物に使用されていた黄色の人工着色料を使用するようになりました。今でも温度管理が良ければタクワン大根は白いままです。
 春の七草の中に入っているスズシロは大根のことです。また久米の仙人が天井から墜落したのが川で洗濯していた若い女性が衣服の裾を巻き上げていて、白いふとももに目を奪われ念力が消え落ちたという伝説があります。従って大根足というのは太いということより白いということです。昇りエスカレ-タ-で盗撮を誘発するのは大根足の誘惑です。

 2月も終わり春の陽光がまぶしい。来週から多摩川の桜の花見。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

226事件の日に渋谷で映画

2023年02月27日 | 宅老のグチ
226の日に渋谷へ映画を見に行った。東京大空襲の後日談の記録映画。もう78年前の出来事で記憶の伝言が薄れつつあるが、ウクライナの市民があの状況と同じとみえた。渋谷の映画館ではこの映画の前に上映していたのがウクライナのマウリポリの戦時下の記録映画だった。
 東京大空襲の日時は日本では3月10日となっているが文献では3月9日というものがあって、この映画でサイパンの米軍基地をB29が出発したのが3月9日で1500トンの焼夷弾を3月10日午前1時頃から下町に投下した。死者不明者10万人という。しかしこの数字は故人の名前の集合ではない。これを個人の名前にしようとする墨田区森下5丁目の人たちの活動記録でもある。彼らの努力で数百名の人たちの名前が刻まれた慰霊碑が森下の公園に残る。仮埋葬された錦糸公園の逸話も語られている。掘り返され今は震災戦災の記念公園に安置されている。
 64名ほどの映画館で40名ほどの観客。若い人が多いのはウクライナのことが昔のことでなく為政者の一言で明日は判らないし、対岸の火事でもない。ヨーロッパで核戦争が始まれば核の汚染のない食料確保で途上国が大混乱となる。当然のように人の移動も激しくなる。そこに新たな戦後が生まれる。

 映画を見た後渋谷の街を若者たちとぶつかりそうになりながらNHKの隣の宇田川町渋谷税務署の隅にある226の碑を見に行く。この日に亡くなったのは昭和の重臣たちだった。
 ハチ公の前で台湾からの人たちが記念写真を撮っていた。今は時間の進みが異常で時々昔に戻る感がある。
 備えよ常に。
 陸軍特別操縦1期生史という本が都立中央図書館に所蔵されている。始まりの文の最後に飛行士官の養成計画には敵に体当たりすることは想定していなかったという。今の戦争は戦地も前線もない。ウクライナでどこでも爆弾が飛んでくる。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

226の日曜日 映画を見たい

2023年02月26日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
大方は二月にやりたい、したいことを終わってしまった。転居で家が狭いし、物価高で先行き不安もあって、交通費の掛かるところは排除し、シルバ-パスと歩行で用を済ます。今日は映画館の所で今上映中の映画を入場する気が無く眺めていた。さらに家に帰ってネット検索で見ると、昭和20年3月10日の映画があるようだ。見たい。この日に親族の家が燃え、行方不明者もあるようだが交流もなく詳細も解からない。
 3.10と3.11さらに1.17の日本の悲惨な日に自分の知り合いが亡くなっている。日本人の寿命の延びと映像等の進歩で思い出す記憶が伸びたようだ。しかし空白な時もあって、戦後の大混乱時に何が起きたか、記録と記憶の漏れがありそうだ。この時期は紙の質と量の不足で貴重書扱いで調べることに難儀している。その時期に生きていた人も75年経てばもう認知症と記憶の時期区分が不明で辻褄の合わない証言となることもある。
 そして今日は226事件の日で昨年だったが都立中央図書館へ行くとき麻布十番駅からの道の所の麻布賢崇寺に226事件の人たち22士の墓と慰霊碑があることを思い出し寺の中へ図書館の帰りに寄った。本堂の前に仏心会 の関係者以外はご遠慮下さいとあって、ネットで調べると慰霊の会合があるようだ。なぜ226事件が気になるかというと叔父の苗字が栗原ということで、そもそもこの寺院に墓があることは栗原安秀の父との縁があるようだ。
 戦後に226事件が陸軍統制派の台頭を許し、戦争に導いた原因と言われている。埼玉春日部市の栗原家は陸軍の栗原と交流が無く、叔父の経歴から無縁と思ったいたが、陸軍特別操縦1期生の試験で不合格となっていた。その後なぜか繰り上げ合格となり、埼玉師範学校で同時期の試験で陸軍と海軍の航空士官試験で両方合格していた人がいて、人気のある海軍へ行ったと思われる。(個人情報の関係で未確認・この人は特攻でなく戦死している)欠員の出た埼玉師範学校の陸軍から派遣されていた軍事教官の人に叔父が欠員補充で選抜されたと思われる。海軍に行ってしまい欠員させないメンツのため視力が良い事と栗原という苗字もあるかもしれない。埼玉県は熊谷で計画された救国埼玉青年挺身隊事件 も皇道派の拠点で栗原安秀も関与していた。埼玉師範学校の軍事教官はどんな理由でに欠員補充したのだろうか。納得がいかない。
 どうも栗原家の言い伝えでは陸軍特別操縦の試験に無断受験のように聞いている。同期生の同調圧力か又は試験に不合格になる計画があって、家族に心配かけないでいたかもしれない。出征時の記念写真の表情が招集令状が納得がいかないと言っているように思える。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

また埼玉文書館へ カスリ-ン台風の後の東埼玉の農産物供出騒動

2023年02月25日 | 宅老のグチ
春日部市史庄和地区を読んで、そこから昭和22年秋のカスリ-ン台風が埼玉県の利根川堤防を決壊し、下流の田畑を水没させた。その洪水の水は都内の家屋まで水没させました。秋のコメの収穫が激減し、政府とGHQから指示された農産物の供出数量が埼玉県で未達成となり、埼玉県に駐屯している米国陸軍歩兵部隊のライアン中佐が脅しをかけていました。特攻で亡くなった叔父の住んでいた隣の南桜井小学校で隠匿農産物は強制捜索すると未達成地区の住民を集め演説していた。
 このあたりの文献が東京の闇市の時代と少しずれていて、戦後の東京の闇市興亡史から漏れていると感じる。埼玉新聞の記者がリュックを背負って農家を回るが農家には無視されて、古参の買い出し人から情報収集して記事を書いている。東武東上線、西武池袋線は買い出し電車だった。イモ・米・野菜がリュックに積み込まれ東京に運ばれた。農家はインフレで現金をため込むことをせず家の改築・新築の様子が見える。その様なことも昭和25年1950の6月に朝鮮戦争が勃発し、日本に軍時特需が始まり闇市の時期は終わった。
 多くの闇市の文献は読者需要の多い都会の市民向けで、農家を歩き回り農産物を物々交換している話が出て来る。無頼派と言われた坂口安吾の文で農民は権力に柔軟に対応するという。戦前の軍部の下で活躍した末端の行政組織に安い価格で供出を迫ってきても、隠匿した農産物は簡単には出せないだろう。この騒動も朝鮮戦争がはじまり、日本が米軍の兵站基地となり、極端な食料不足が終わった。戦前は漬物の安定需要が軍隊であった。戦後は軍隊需要が消えどうなるかと思われたがヤミ市需要をとらえ生き延びたと思われる。特に家庭で漬けていた漬物が戦中から女性が働くことによって、家で漬物を作る人が減り、商店で購入する人が増えた。今は家庭で漬物を作る人は趣味の人になりつつある。漬物の基本は量が多いほどおいしくなる。その理由は少量だと塩加減の調節が難しいし、重石の加減も難しい。さらに食べる人が少ないので味が最後に変わってしまうこともある。家は小さいし臭いの関係で漬物小屋を設けられない都市ではさらに難しい。韓国では屋上に甕を置いてるキムチを見かけるが気温の関係だろう。
 最終的に東埼玉の人たちは隠匿物資の捜索を恐れ、さらに地域の連帯を破壊する密告制度を恐れ、闇農産物交換で得た現金で供出農産物を確保し間に合わせ、完納宣言が出たようだ。このことは地域ではまだ語りたくない、記録したくない騒動と思われる。非常時だからと言ってあからさまな利己意識が落ち着くと証言記録として残る。従ってまだ75年では証言記録が出てこないと感じる。
食料自給率の少ない今で米以外の食を確保しようとするとイモしかないという。イモネ~ちゃんが流行語にならないように祈る。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

75歳の令和3年の簡易生命表を眺めていて

2023年02月24日 | 宅老のグチ
暇つぶしに厚生労働省の75歳の令和3年の簡易生命表を眺めていて、自分の平均余命が12年位しかないこと知る。高齢者のデ―タが気になる年齢で平均の意味を自己で都合の良いように解釈する。現実には銀行等の融資の対象外でほぼ現金に近い資産しか役に立たない。例外は相続対策の融資しかなかったが、ここにも税収不足の政府が関与してきている。
 多くの高齢者の資産は狙われていて、目立つのが犯罪組織で次に合法組織である。郵便局・農協の金融などが消費者の金融知識と自己の余命知識がないため不要の保険に加入させられていていることを知った。
 今の介護のアンケ-トで日本の若者の高齢者の介護の寄与が一番少ないという。そうすると今までのように親の介護が子供でなく他の人に依頼するしかない。シルバ-パスを使ってバスに乗っているとサ-ビス付きの介護施設の広告が気になる。東京のバス利用は昼間は70歳以上の高齢者の乗車率が高く、豊洲市場でのJR新橋駅行きの都バスに乘った時、ほとんどがシルバ-パスを使っていて驚いた。2025年になると都内の団塊の世代が後期高齢者となり、統計から病気が増え、仕事をしていないので惰性で行っている待合室での会話を盗み聞くと直す意欲も少ないと感じる。病気で寝ていても偶数月の年金支給日に年金が入る。給与だと普通は休めば減るか支給されない。
 高齢女子はこれでも生き続けるが現役で頑張った男子はやりがい喪失、老害扱で引きこもりとなる。未亡人という言葉はまだ死語にはならないが男やもめは死語に近い。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平和な天皇誕生日、明日は2022開戦記念日

2023年02月23日 | 宅老のグチ
もう一年になるというのに北京冬季オリンピックで何があったか忘れた。この一年で東京オリンピック開催が日本では税金をどう途中で搾取することが一般市民に理解できるようになった。国体だって惰性でやっていて盛り上がり感が見えない。色々なイベントもその企画を立てる会社の利権だろう。葬儀を派手にすることに似ている。イベントで財布のひもの固い人民をだます。これも見栄張る地方民をだます。そして地方新聞も批判がない。なぜなら小中高の学校の外側にxxさんが関東大会で準優勝おめでとうの垂れ幕がある。これを報道しないと地方紙の存在意義が見えない。新聞のチラシ広告がxxx学校入試合格zzz名と書いて4月以降の講習生徒を集めようとするチラシ広告は新聞販売店のの生活手段。もう大学は金さえあれば入れる。最近の記事で気になったのが文系の学部で数学を入試で外したことが日本の低迷の原因という。確かにそれは感じる。江戸時代から明治にかけて日本は読み書きソロバンだった。ソロバンが外れて、パソコンになればよかったがそうでもないようだ。
 ウクライナ戦争の命名がまだ無いようだがロシアは2022年2月20日以降でなぜ24日に開戦だったのだろうか。第三次大戦が大惨事大戦になってはいけないし抑止力も必要だ。いまロシアが核兵器を使わないのは広島長崎の人たちの功績だろう。多くの市民を死なせ未来と希望を減らした。念仏では神風は吹かない。映像で抑止するしかない。それでも技術の進歩で偽画像の出る時代。日々研鑽で行くしかない。計算していたロシアの侵攻はウクライナの政府支持率の低さから来ていてロシアのように支持率操作国では計算外だった気がする。日本も普段はバラバラだが災害時には纏まる国民だ。これがアジアの国への開戦抑止力となる気がする。日本は歴史上で何度か暴走している。秀吉もそのうちに入る。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

令和の浅草 若い男性一人に若い女性トラック2台たむろ

2023年02月22日 | 宅老のグチ
いつも都営浅草線浅草駅で降りて、雷門経由でかっぱ橋商店街の外れにある台東区立中央図書館で福神漬の周辺の資料を読んでいる。来月まで明治期の文人の遊び団体というべき根岸党の中心人物である饗庭 篁村(あえば こうそん) を特集している。
  コロナの感染も収まり、中国人が少ない今でも浅草寺周辺は賑わっていて、コロナ中に簡単に仲見世通りをスイスイ歩けたのがぶらぶら歩きの女子に行く手を遮られ、裏道に入る。14歳から20歳くらいの女子の群れがほとんどでたまにいる若い男性は女子付きで男性のみのは少ない。
 今集中的に戦後の物不足の闇市の本を読んでいるが、多くの闇市本の冒頭で戦争で亡くなった男子兵士が多すぎて、生き残った女子が多すぎ、男子一人にトラック2台の女子と書いてあった。当時のトラックは今の感覚では平ボデ―のトラックで詰め込みして1台20人ぐらいかな。この辺の比喩は人数を明確でないので座っていたら1台10人かもしれない。この比喩も物が出回る頃には消えていて数字の真偽は判らない。しかし団塊の世代という結果がいかに戦後の物不足の時代に子供が生まれたかが示している。明日の命を期待できない戦争時から平和になって、さらに物不足ということで強盗などが増えている時は女性が単独で生きるには厳しい時代だったかもしれない。戦争ということで内地は力仕事でも女性が軍需工場で仕事をしていた。

 今の浅草・原宿は入学試験中なのか平日でも女子の姿が目立つ。休日だとやはり家族連れが多くとてもトラック2台の女子とはならない。東京の一極集中の弊害は思うに若い女子の東京流出で地方はその分は男子が婚活に難儀しているように見える。統計では56歳を過ぎれば男女比が逆転し、100歳になれば85%が老女子となる。今の物価上層が低迷するのは政府が老人票を優遇しすぎて、選挙権のない子供と未来の子供を拒否しているように見える。前例踏襲の官僚も小手先の改革が無理となっている。
 アメリカの西部開拓時代にやはり女性が不足していて、レデ―ファーストが常識となったという。男子優遇の東アジアの国々も少子ということで、女子の力が極大に向かう気がする。しかし日本・韓国・中国・北朝鮮・ベトナムの最高権力者は男性で例外が台湾となる。その台湾も少子である。
 浅草から消えている男子は家でスマホをいじっているのだろうか。今の高校生女子はスマホで済まし、ブランド品を中古やメルカリで確保するという。サブスクで済ませるので小遣いが多くなくても良いという。そこで情報弱女子がSNSで売春することがニュ-スとなっている。
 戦後の仕事のない時に手っ取り早い若い女子の仕事が売春だった。元手も学歴もいらない仕事で古代から為政者によって,社会秩序を乱すと言って取り締まっていたが男子の需要が多すぎていつもなし崩しとなった。
 この需給調節に成功した政治家は歴史では見当たらない。ウクライナでも初期報道ではロシア兵がレイプしたとある。このような兵士の行動は記録が多すぎて常識となりつつある。従って戦後日本の人は進駐してきた米軍をレイプ兵士と見ていた様だ。東京大森海岸にあった小町園の記録を読むと納得がゆく。
 台東区立中央図書館で吉原関係の文献を読んでいると売春も文化となっている。福神漬の初期の普及に芸者衆の口コミ宣伝があった。池田首相の時、後の総理となった大蔵省の人が米国へ行くときの壮行会で柳橋の料亭の女将に福神漬を持ってゆけとアドバイスされたという。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時間に追われず追いかける

2023年02月21日 | 宅老のグチ
築地市場(豊洲も)の時計は冬時間と夏時間がある。セリの開始時間が異なる。当然下見の時間も変わるし、終わりの時間も変わる。それでも対外は変動していないので、夏時間の午後はゆったりとした時が流れる。
 暇なある時は、午後の集荷・出荷が二時に終わって、普段は勤務時間後に帰宅準備するのだが一人を残して3時にタイムカ-ドを押した事もあった。
 今はリタイアをしているのでいつでも寝れるし起きても良い。時間に追われるのは病院予約とその送迎だけとなった。後は先送りや前倒しもあって普通は予定と言わない。しかし適当に処理していかないと公的なものが追いかけて来る。特に今の時期は確定申告で税理士に提出すればほぼ終わりとなる。自動引き落としで振り込み行動もない。

 日々の情報収集は近所の散歩で、3月の転居シ―ズン向けの新築住宅の駆け込み工事が盛んである。しかし不動産屋との会話で今は1ルームの所が過剰ですぐに満室とならないという。そこで敷金・礼金無しが増えて、そこが空室になると色々な口実を付け退去時の修理代を請求するところが目立っているという。でもSNSの時代にアコギな原状回復請求はネットに怨念コメントの痕跡が残る時代が間もなくやってくる。

 栄枯盛衰は世の習い。山高ければ谷深しという言葉があるように、このところの落ち目の業界の若手の転職報道が目立つ。漬物はもう落ち切った業界だがそれでもコロナのように予期せぬこともあると知った。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新たな福神漬創製者の名前

2023年02月20日 | 福神漬
東洋経済のコラムで新しい福神漬の創製者が見えた。味の素食の文化センタ-の図書室で読んだ。

醤油・味噌・アミノ酸/質疑応答 木下浅吉著 昭和10年出版1935年

 元祖は東京下谷区池之端の野田清右衛門(酒悦)で明治19年であり、これを
創製したのは東京牛込区中町久松良之助氏である。始め7種の蔬菜を用いて醤油に味付け、当時上野公園に開かれていた大日本水産会の第一回品評会に出品し、試食に供し、好評を博し売店にて販売したのが世に出た始まりであるという。
 当時は名称も決定してなかったが、田中芳男・河原田盛義氏等に相計り7種の蔬菜を用いたのだから七福神に倣って福神漬と命名したということである。またこの漬物は便利で経済で真に福の神に好かれる漬物だと言ってこの名前を付けたとも言われている。

 長い間福神漬の命名由来を調べていて、明治19年説はその根拠となる文献が見つからなかった。この本が明治19年説の出どころかもしれない。
 大正4年出版の
大日本洋酒缶詰沿革史 附載 洋酒、缶詰、乳製品登録商標 洋酒編・缶詰編
 にはほぼ似ている福神漬創製の逸話が記述がある。木下氏の引用もここから来ていて水産博覧会の年が誤記となっている。明治期の文献には記憶で書いている部分が多く、鵜呑みには出来ないと感じる。福神漬の由来を書いた新聞記者だった長井総太郎(鶯亭金升)は自分史でも間違いが見え、うっかり文献として引用が出来ない。さらに隠している不都合なところを検証するとその時期では世間的に評判が悪かった事柄だったりする。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和20年9月の埼玉新聞

2023年02月19日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
浦和の埼玉文書館の公開架のとことに、終戦間際の昭和18年からの埼玉新聞の縮刷版がある。何らかの理由があると思うが白紙の所もあって戦前は検閲、発行禁止もあって不思議ではない。戦後にも白紙の縮刷版があって、当時の埼玉の情勢が途切れて見えていた。戦後の始まりの昭和20年8月16日以降に女性の貞節という言葉がよく出ていた。埼玉新聞では9月の1面の下段の広告に女子事務員募集の広告があった。特殊慰安婦の募集なのに事務員募集という広告が新聞社のやましさを感じる。その広告の上段では日本女性の貞節を説いていた。
 昭和20年9月15日に埼玉県では1万人の米兵が進駐してきた。その中の46名が今の東武野田線南桜井駅付近に進駐した。

『ドキュメント 昭和二十年八月十五日―占領下の日本人』安田武、福島鋳郎著
この本を図書館で借り出し、特殊慰安婦R・A・Aの内容の内容を知った。
 昭和20年8月22日に米軍の慰安所に決まり、その後の様子が元従業員の証言が書かれている。大森海岸の小町園という。
 今は第一京浜国道が京浜急行の鈴ヶ森付近で交差し、大森海岸駅から平和島駅付近まで、国道の東側はマンション群となっているが当時は料亭のような建物があって、その中の一つが小町園のようだった。
 小町園の盛況から米軍相手の施設が次々と生まれたがまだ公式の区史等では記述できない部分が多いと感じる。同様にヤミ市というのもあったがこの方は少し文献が集まってきていると感じる。

 なぜこんなことが気になるかと言えば叔父の最後の日々を見ていた人からの証言で遺書等を残していたという。それでなぜ叔父のが写真だけが残っていて、後は伝聞しかないしそれも具体的ではない。さらに地域の記憶も消えていて、知覧を訪問した人から尋ねられても何も答えられなかった。何か戦後にあったと思われる。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どうして味の素の図書館へ貴重本を寄贈することになったか

2023年02月18日 | 宅老のグチ
チャットGPTという新しいAIの技術が公開され、徐々に日本でも利用が進む。先行した人たちの利用からコメントを読んでいると蓄積したデータから出される回答文は普通の会話のようだという。多くのネット情報から引用の多い方を引用するようだ。
 そうすると明らかな間違い情報もAIによって加工され人が書いていたように情報発信される恐れがあるという。アメリカの大統領選挙でロシアのネット工作があってトランプが僅差で勝ったという。同様の工作が他の国でもあったし、日本の戦前の状況と似ている。いわゆる世論誘導とというものである。
 政治の論調は工作しても時代の経過とともに真実が解明される。しかし食の世界は基本的に真実というのが個人の感想であって事実ではない。普通の食品で腹がすいていれば何でも美味しいが満腹寸前ではおいしく感じない。タレントの食レポ-トで美味しくないという言葉は基本的にない。従って聴取者はタレントの表情で原稿を読んでいるとみなす時もある。表現の上手な人はコメントでなく表情で表す。
 以上のようなことを考えて、福神漬のようなマイナ-な食べ物は情報発信力の高い人がコメントすれば信じられやすいし、ネットの世界では基本的に社会秩序を乱す記述は削除されず上書き文で出るまで残る。そうすると福神漬の真実(缶詰入り)が今ではス-パ-でも普通では販売されていないので情報発信力が弱い。さらに福神漬の研究者もいないので否定の見解が出ず、誤発信でも否定文が出ず、AIの世界では常識に変化する。

 それゆえ昭和10年刊行の明治屋食品辞典は役に立つ。それ以前の物は辞書しか見当たらない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治屋食品事典の寄贈

2023年02月17日 | 福神漬
昭和10年の刊行の明治屋食品辞典を2013年佐賀県唐津の古書店から購入した。送料込みで2200円。先の転居の時に危うく廃棄物扱いの物に家人から要求されたが、手帳位のサイズのため、廃棄の難を逃れた。
 昨年暮れに東洋経済のネットで福神漬が取り上げられ、著者の本を借り出しで、出典を探るとどうやら高輪の味の素食の文化センタ-での取材があるようだ。
味の素食の文化センタ-の所蔵本はネットで検索できるので調べると戦後に何回か発行された明治屋食品辞典でも戦前の本は所蔵されていない。それで寄贈することにした。
 福神漬は明治の10年代から上野公園の整備で観光客のために持ち帰ることのできる容器に入れて工夫された食品であった。そのため福神漬の基本的な考えに缶詰という言葉が無ければいけない。文献に言及している福神漬のライタ―も引用の本に缶詰という言葉が入っているにかかわらず無視している。
 諸説ありますがと言ってバラエティー番組で説の根拠を逃れているが、酒悦の福神漬は今でも缶詰入りが販売されている。食品問屋の大手の国分も日本橋の自社店舗で最近まで缶詰入りの日本橋漬を販売していた。今は瓶詰入りとなっている。あまり売れていないが日本橋の御当地食品となっている。国分は江戸時代に大名との衣服取引から茨城県土浦市の醤油取引の縁が生まれ、利益の出ないので醤油取引に転向し、その過程で醤油の空きだる回送へ、ついでに食品流通へと向かった。日本橋漬というブランドは福神漬で商標登録で最古となる。大正元年である。酒悦は商標登録せず福神漬は普通名詞となり、いわゆるJAS法に福神漬の名称となった。
 これらの経緯と戦前の福神漬等を文献から調べると、明治屋食品辞典が根拠のある文献となる。
1 索引の所で福神漬は フクジンズケとなっていて日本経済新聞の調査でフクシンツケと 濁らない福神漬は方言のようでもある。
 どちらも好き勝手言いたい。
2 福神漬の缶詰入りは今でもポリ袋入りより高価だが明治の時代でも高価すぎて、今の物価に換算しても1缶2000円は優に越していて、贈答用・観光土産品だった。初期の軍隊納の福神漬は樽入りと思われる文献がある。
 日清戦争終戦間際に大阪第四師団向けの福神漬献納の文献がある。献納者は大倉組で長い間福神漬を調べていて、公式文献で東京名産福神漬と出て来るの
が初めてだった。なぜ大阪の第四師団へと長い間不明だったが、明治28年に有栖川宮死去し、戊辰戦争で敵方になった輪王寺宮(北白川能久)を疎まれ閑職にいたのを、北白川宮の実兄の小松宮が弟に朝鮮半島での活躍の場を与えた。ちなみに上野動物園の正門前に小松宮の銅像がある。
 つまり日本版死の商人と言われた大倉喜八郎は陸軍に活躍の場を与えられた北白川宮に福神漬を献納した意味が見える。(上野戦争で彰義隊と京都方の双方に武器を売り込んでいて、最終的に金払いの良い京都方に武器を売った。)従って江戸市民と明治の言論界を支配していた旧幕臣知識層に評判が悪かった。
3 明治屋食品辞典は国会図書館でマイクロフィッシュ化され見て印刷できる。しかし初めて購入した時、福神漬の項目が他の日本の漬物全ぺ-ジと同じくらいの項目でさらに独立していた。
 この辞典の意図は明治屋内の店員教育用の本と企画され外部に販売されたようだが、昭和10年という時期と考慮しないといけないと感じる。福神漬の項目が大きいのは缶詰つまり軍需食品だったことを示している。
 戦後に再発行された明治屋食品辞典は鬼畜米英の時代から米軍払い下げ食品で馴染んだ欧風の食品の項目が増えている。版が新しくなるたび食品の変化が解かる本となっている。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

定点観測 巣鴨のとげぬき地蔵尊通り

2023年02月16日 | 宅老のグチ
築地から離れてからしばしば訪問するようになったのは巣鴨のとげぬき地蔵尊通りである。JR王子駅から都電荒川線で庚申塚駅で降り、旧中山道をJR巣鴨駅に向かって歩き、途中で三田線に乗り換えるとシルバ-パスを使って行くので交通費が浮くし、さらに巣鴨を徘徊する高齢者と商店街を観察できるという思惑もあった。
 浦和の埼玉文書館からの帰途で、いつものように王子駅で降り都電荒川線に乘る。14日だったので4の日の地蔵通りは混んでいる予定だったが3時半を過ぎていたので、閑散というか出店の人たちが品物を整理を始めるころだった。普通の混雑だったのでいつもは通過するお寺に参拝となった。
 巣鴨は築地で働いている時に苦い経験がある。地蔵通りに漬物屋が店舗を構えていたが倒産してしまい後処理もうまくゆかず、長い時間悪い記憶と残っていた。ようやく法的手続きが終わったのが豊洲へ移転する寸前だった。30年位かかった。今は縁日以外で漬物の店は一店舗しかない。寂しいことだ。
 高齢者の原宿と言われた時代と変わらない風景があって、高齢女性が生きたくなる所と今では違ったと感じる。
 何か物足りない。確かに還暦の赤い衣類は売っているが今の60歳はまだ働き盛りで、老け込む時ではないし、老後の金銭的不安で80歳まで仕事をする人が増えつつある。煙で痛い所を直す信仰は今ではコンビニ店舗数を超えている整体師が担っている気がする。
 工事現場で交通整理している人は高齢者が目立つ。まだまだ過渡期で2025年にはこの地蔵通りがどう変化するのだろうか。足りないのは安さでなく、高齢女性のファッション店舗だろう。高齢女性のファッションをアドバイスするスタイリストが必要と感じる。そうすればババ臭い衣類の店舗が変わる。もう孫に金銭を与えても介護のあては期待できない。偶数月の15日の年金支給日は二ケ月生きたご褒美。孫が期待できなければ詐欺師に金銭がゆくことはない。老後不安で溜め込むと相続で揉める。家庭裁判所で扱う相続のもめ事は1000万以下が結構あるという。相続税が無いのに介護の貢献度の思惑で揉める。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3回目の埼玉文書館

2023年02月15日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
コロナが収束しつつあって、いろいろネットで情報を収集している。その中で埼玉県庁の後ろに埼玉文書館というののがあって叔父の特攻の基本的文献を探していた。最近までのHP上では、電話連絡し閲覧する文書を通告するようになっていた。さらに時間と人数制限があって、家人の介護と送迎をしていたので当日まで予定が立たず訪問を見送っていた。ようやく前日予約の文言が消えていたので訪問することにした。
 JR線で浦和駅に降りると蕨駅前と同様に再開発の工事が進んでいた。あと2年もすれば駅前に100mの高さの巨大なビルが出来て、今残っている店舗が消えると思う。
 県庁の後ろまで歩いてゆく途中にあったモスバ-が-が消え、ロッテリアになっていた。埼玉県庁も移転話があるようだが不要不急と見なされているようだ。ただ県庁の建物にはすべてに耐震の工事の跡が見える。文書館へ行くとコロナ以前の風景があったが、仕切りのアクリル板がまだコロナ状況ということになっていた。 
 昭和25年の発行の埼玉師範学校の名簿を出してもらった。叔父が師範学校を半年繰り上げ卒業したのは昭和18年9月だった。成績表では139名卒業とあるが卒業名簿本科140名となっていて、名簿の空白者28名で、さらに名前の上に黒丸がある人は19名あった。なおそのリストの終わりに遅れて19年3月卒業した6名は全て昭和25年記録があって生きていた。
 昭和16年からの記録を眺めていてやはりこの年代の不運さをひしひしと感じる。
 生まれた時が悪かった。関東大震災前後の生誕で、今昭和史を見ていると良いという時を過ごした人が少ないと感じる。令和4年の生命表を見ていると18歳から22歳までの死者不明者は少ない。この時期の師範学校生の戦病死が2割近いことを考えると不公平と感じる。ロシアとウクライナの戦争は今月で開戦から2年目に入る。戦前の日本が大戦に参加した時期を思い出す。アメリカ人は数年おきに戦争もどきをして慣れているが日本は惰眠中で慌てているように見える。もう日蓮ののように念仏で敵を粉砕することは出来ない。歴史の虚説で神風を信じ、特攻した叔父は念仏の被害者のように感じる。物の生産力の差から欧州大戦が終わって、日本に攻撃に集中され終わった。もし日本が大戦に参加しなければ今の中国のような立場に立てたという歴史学者はいない。頑迷な旧日本軍部は日清・日露の戦争に勝ちすぎ、傲慢になっていた。

 文書館で叔父の遺書等の記録を消したことの解明はやっと手掛かりが得られそうだが、証言を引き出すには個人情報を出さないといけないと感じる。いまは春日部市の歴史資料館の人たちの協力が必要と感じる。もう終戦後78年経って、当時生きていた記憶のある人が90歳を超える。90歳なら半分以上の人が認知症で証言の信ぴょう性のある記録を得るには時間が足りない。
 叔父が農産加工の指導者を目指していたと感じる。川辺小学校の長堀宇三郎先生に進路相談し、野田市の野田農工学校に学び、授業料免除の埼玉師範学校には行った。当時の師範学校の兵役免除の仕組みが日中戦争の拡大で兵役免除が消え、師範学校の競争率が減った。卒業後教師になると授業料免除でさらに兵役免除は農家の子弟には魅力だった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高輪の物流博物館へ

2023年02月14日 | 宅老のグチ
 都営浅草線高輪台駅付近の物流博物館で1970年代の汐留駅の貨物の様子が解かる写真があった。コンテナとバラ積の荷物、プラットフォ―ムまで取りに行ったこともある。通勤でJR新橋駅で降りて、築地市場まで歩くのだが、汐留貨物駅のためかなり大回りで築地市場から15分以上かかった。
 日本通運が2005年旧秋葉原本社ビル(東京都千代田区外神田3-12-9)から汐留のビルに移った。ここは明治期の新橋停車場の跡地でもある。それから最近再び秋葉原の地に日本通運が本社を移転した。
 高輪の物流博物館は日通の歴史から始まっていて、日通の資料が多い。江戸時代の物流で規制のむなしさを感じる。日本では車が中国と違って発達しなかったので道路関係が遅れている。
 日通のマ-クは確か金毘羅詣での船に通とあって、それを会社のロゴにした様だ。ヤマト運輸はクロネコ、佐川急便は飛脚と多くの物流会社はロゴをもっている。
 国際物流はカタカナ語の世界で現場に行かないと理解しがたい。今はこの展示物が古すぎて、昭和以前の物流となっている。もうじきトラック運転手の労働規制が始まれば安価な物流で恩恵を受けていたところが困るだろう。あまりの長時間労働で追突事故が多すぎた。日本は人が亡くなってから法律が動く。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする