年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

三菱のマ-クの入った福神漬

2024年03月09日 | 福神漬
ネットで三菱鉛筆のマ-クの商標の記事があった。
BizzFeed 2024.3.
安藤健二氏の文である。
 福神漬の商標登録が意識されたのは、日露戦争後でそれまでは木の樽入りで国内は販売されていた。従って池之端の酒悦の福神漬缶詰はブランド登録の必要性が感じず、さらに福神漬という名称を酒悦主人が独占する意識もなかった。日露戦争後に軍隊の備蓄用の福神漬缶詰が安く払い下げられ、戦場で味わった兵士が奉天での会戦模様を語る食となった。マイナスの気温下で戦場での食事はロシア側に兵士の位置を知らせないため、食を火で温めることは出来ないし、控えていたという。そこで副食の漬物として、福神漬が三食とも供給された。凍結しないし、缶詰入りで残り火に缶ごと入れて温めることも出来たようだ。
 福神漬という名称が酒悦で商標登録されなかったので、そもそも当時は普通名詞となっていて、別の名称を加える必要があった。この問題の発端は日本酒のブランドが商標登録の問題で、(正宗)を登録しようとしたところ、普通名詞と言われ、拒否され、桜が日本の象徴ということで(桜正宗)となったようだ。多くの正宗ブランドは同様の経緯がある。ちなみに正宗はダジャレで読み方でセイシュという隠れた意味を持つ。ちなみに酒悦はブランドとして酒悦の福神漬と登録したという。このことから内田商店は三菱のマ-クは優良誤認を狙ったようだ。福神漬の缶詰ブランドでは国分の日本橋漬で今は缶詰は消え、瓶詰しか残らない。
 日暮里の浄光寺の福神漬顕彰碑の裏面にある発起人について、逓信総合博物館の中にある明治42年の電話帳でどの様な人物かを調べる。
福神漬発明者野田清右衛門表彰碑
 揮毫者 村田 保氏 大日本水産会 どの様な理由か電話帳に記載無し
建立者 風戸弥太郎 日本和洋酒缶詰新聞社社長 京橋区新富町6-12
堀江良太郎 小川屋 神田区旅籠町1-37 食料品漬物商
田中新蔵 どの様な理由か電話帳に記載無し

内田勇太郎 神田区仲町1-2-3 洋酒缶詰商 内田商店
山田箕之助 どの様な理由か電話帳に記載無し 千葉県行徳
朝比奈銀次郎 どの様な理由か電話帳に記載無し
岩堀小太郎 岩堀商店 屋号 小田原屋 神田区多町2-2 漬物缶詰問屋
西貝富太郎 屋号 萬屋 本郷区東片町81 漬物問屋
西村小市 神田区須田町8 果物商
加藤歌吉 どの様な理由か電話帳に記載無し
村田与兵衛 川村本店 京橋区本材木町3-11 漬物味噌食料品缶詰問屋
山本半蔵 どの様な理由か電話帳に記載無し
青木平四郎 日本橋区本銀町1-1 食料品缶詰業
綾部清三朗 屋号 並木屋 神田区表神保町1 缶詰漬物食料品商
細中源蔵 どの様な理由か電話帳に記載無し
須崎善四郎 日本橋区本銀町1-19 缶詰商
ついでに酒悦福神漬 堀江良太郎 下谷区数奇屋町14 日本初祖福神漬 漬物内外缶詰食料品
電話帳調査でこれだけのことが解った。しかし肝心の山田箕之助が都内の人でないことが解ったことになる。発起人の並んでいる順序から山田箕之助の意味があるように思える。
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広尾では河津桜が咲いていて

2024年03月03日 | 福神漬
広尾の有栖川宮公園の図書館で東北キュンパス旅行のための、基礎調査をする。広尾は日比谷線の地下鉄駅の出たところに明治屋ストア―ト交差点角に三菱UFJ銀行があって、広い歩道に掲示板があって磯野という名前のある不動産管理会社がある。多分明治屋の創業者磯野計と福子の縁者の子孫だろう。この明治屋ストアには酒悦の福神漬瓶詰が置いてあった。こだわりの逸品でもあるが誰も根拠は知らないという感じ。
明治屋は創業が明治18年で日本郵船という会社が発足したと時期と重なる。福神漬の文献で明治18年説は明治屋と関係があると思っている。その明治屋が昭和10年頃に従業員の商品知識のための研修本を作成した。日本が中国戦線で苦労している時期で、西洋の食材の知識の本だった。それゆえ純日本の食材のぺ―ジは少ない。漬物関しては3から4ぺ-ジもなかった気がする。戦後にも明治屋食品事典は数回刊行され、少しづつ新しい食材が増えている。初版の明治屋食品事典は引っ越しの際にゴミ扱いされ、今は高輪の味の素食の文化センタ-へ寄贈した。この寄贈本で福神漬の項目が単独で2ぺ-ジもあった。最初に見た時は違和感があったが、今は三菱グル-プと明治屋では福神漬は印象のある漬物と感じる。
1 第一次大戦で日本政府の指示で日本郵船常陸丸がヨ-ㇿッパへ行く途中、インド洋で行方不明になり、捜索船が酒悦の福神漬という焼き印がある木箱を見つけた。このことから日本郵船は政府から戦時保険金を受け取った。出典 神戸大学新聞記事検索 海上保険
2 カレ―ライスと福神漬 カレ―に福神漬が付いたのは日本郵船の食堂からという。

 こんなことを考えながら広尾の有栖川宮記念公園内の河津桜を探しつつ、図書館へ行く。
靖国神社で有栖川宮と小松宮・北白川宮とのいさかいを知る。詳しい小説が吉村昭の彰義隊に書かれている。明治28年に日本版死の商人と言われた大倉組から福神漬の木樽入りが第四師団に寄贈された文献検索で出て来る。この意図が吉村の小説で解明できた。福神漬の献納の時期は有栖川宮が亡くなる寸前で、代わりに北白川宮になる時期だった。北白川宮は戊辰戦争時は旧幕府の彰義隊の頭にさせれれ、東北の地で投降した。つまり一時は有栖川宮の敵対者だった。そこに大倉喜八郎のセンスが光る。福神漬は下谷の漬物で輪王寺宮から店名を頂いた店が上野公園の復活によって増えてきた行楽客用のつけ物であった。谷中の七福神巡りの発祥地でもある。
漬物の商品名は普通に感じること以外に比喩や見立て等隠した意味があることが多い。
 タクワン漬も品川区の歴史博物館学芸員の話で沢庵禅師が創ったものではないという。自分的には普及者と思う。茶道等出る会席料理でたくわん漬は食器を洗う用途で出て来る。質素ということの比喩かもしれない。あの黄色は自然に黄色くなる。

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流人の島・記録を残そうと

2024年03月01日 | 福神漬
新島村史  資料編2 流人史 新島村編集1996年3月
 390ページ
嘉永4年4月流罪
明治元年辰年12月23日御赦免
藤村権左衛門組御小人 
宮野信四郎 亥三十一歳
この宮野という人は嘉永3年10月末に死去した放火逃亡者 高野長英を匿ったとされ、南町奉行で裁判を受けた4人の一人である。

 高野長英の嘉永3年の死の直前の江戸潜伏を助けた、4名が嘉永3年12月27日に遠山左衛門尉(南町奉行・遠山の金さん)によって、御白州で判決を申し渡された。流罪の4名のうち、水野大監物家来松下寿酔は裁判の途中で獄中で病死していて(藤岡屋日記)、存命ならば遠島という裁きだった。内田弥太郎の親族だった宮野信四郎は新島村史資料編②流人史に記述があって、流罪の判決後嘉永4年4月に江戸から流人船で伊豆七島の新島に付き、明治元年12月23日に御赦免となっている。
水野大堅物 家来 寿酔倅 松下健次 遠島
 鈴木春山(田原藩)に依頼され、父寿酔に相談の上、ひで外一人に相談の上、匿った。不届きにつき遠島。
御賄新組 清吉祖母 ひで
 逃亡者と知りながら、寿酔に頼まれ、伊之助外一人店へのため、隠し起き、届け出せず,不届きにつき、遠島を申し付ける。 
作家の吉村昭の本(長英逃亡)では、最後の江戸潜伏の中心的役割を果たした、内田弥太郎が連座を免れたのは奇跡だったと小説では書かれていた。多くの高野長英の研究本とか小説で長英逃亡を助けて流罪となった人はお家断絶と書かれているが少なくとも宮野家は断絶では無い様だ。ただ流人の記録がある八丈島と三宅島には松下健次とひでの記録がない。東京都の公文書館へ行っても記録が無かった。流人の記録は犯罪者の輸送の記録が残るので無いということが判決後から翌年4月の流人船出発までに死去したとしか考えられない。

 新島は小さな島である。流人史では寛文8年(1872)から明治4年(1871)の流刑の廃止まで1333名が流罪となり、伊豆の3島で5000名が流罪となった。初期の流罪となった人たちの生き残って、徳川幕府の慶事にに恩赦があって、稀なので赦免花という言葉も出た。生存して恩赦になる人は30%程度で生活支援が無いと生き残るのが稀だった。
宮野の流人時代は小伝馬町牢獄・霊雁島・浦賀番所・伊豆半島・下田・新島・三宅島・八丈島のコ-スが多かった。伊豆の韮山代官は江川太郎左衛門(江川 英龍 )だった。江川 英龍 は尚歯会の人達と交流があって、高野長英の逃亡を助けた宮野を新島での生活支援があってもおかしくない。
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2月28日閏(うるう)を意識する日

2024年02月28日 | 福神漬
4年に一度ある2月29日。今年はうるう年で明日は意識する。4年前の2月29日に生まれた人の誕生日は今まで無く、冗談に明日は1歳。年取ると誕生日は何か死への一歩前進と思うようになってきた。この閏という月日の挿入が具体的に意識したのは、明治の上野戦争だった。1868年には閏月があって、通常は新暦(太陽暦)と旧暦は一月ほど違う。従って中国の旧暦正月(春節)もひと月ずれるし、動く。上野戦争(彰義隊)は旧暦5月15日であった。ところが閏月があって、ネットで新暦換算の上野戦争の日を調べると、7月4日説が多く、少ない事例で3日と6日がネット検索で出て来る。どうでも良いのだが歴史教科書でこの換算のミスは痛い。古文を習っていた時、古い時代の花を意味しているのが梅の花でいつの間に花を意味する言葉が桜となった。ここでまたネット検索すると紀貫之は花という言葉を使った時は梅を意味していた。もう少し後の時代で和歌を送りあっていた人が梅を意味して花という言葉を使っていても、誤解して桜のような意味のある花を使って返歌した事例があるようだ。

 都営新宿線九段下駅で降りて、靖国神社へ向かうと、上り坂で最初に大鳥居が見える。さらに歩くと大村益次郎の銅像が見える。手に双眼鏡をもって上野方面を見ている。彰義隊の立てこもる上野の地での戦争の指揮をしたのは大村で半日で終わらした。
 大村の作戦 
新暦の東京の7月は梅雨時で、長雨があって、家屋に水がしみていて、風が吹かない限り、大火とはならない。従って上野戦争の記録では寛永寺が焼失したのは彰義隊による放火である。台東区の郷土資料の所で上野戦争での焼失範囲が意外と小さい。風が吹かなかったと思う。
戦争開始を事前に江戸庶民にも知らせ、見物人と抵抗派と分ける。
抵抗する人の逃げ道を用意する。新政府軍は寛永寺の西側から攻め、正面の所は薩摩の人達を当てた。戦闘が開始し、すぐに強力な大砲を打たず、遅れて攻撃した。これも意図ある作戦だった。大村は江戸にいたことがあって、気風等を熟知していた。
 この見事な作戦は日和見の江戸市民をあっという間に新政府の方に傾けた。この様子は千葉県市川市の新政府と旧幕軍との戦いで兵糧の支援の差が現れる。
 この半日の戦争は下谷の人達をがっかりさせた。上野の戦闘が長引いたら、官軍にゲリラ攻撃を考えていた町民もいた。江戸の気風を知らない西軍の下級武士たちによって、花見の場の上野寛永寺の楽しみを奪った。新政府が上野公園を整備するに従い、博覧会・動物園等が出来、行楽地となってきて、さらに文明開化を実感する場となった。そんな博覧会会場で福神漬創製者酒悦主人が缶詰を見て、持ち運びできる食品として福神漬を創製した。命名者は江戸時代末期の戯作者。ここに何にも新政府批判が含まれていないと今までの福神漬命名伝説であった。しかし15年も調べていると周囲の人物の様子が明治政府批判の人が多い。福神漬が創製した時期は、下級武士の仕事がない時期であった。
 西南戦争で刀の時代が終わる。日清戦争で日本国民が生まれる。それまでは旧藩意識が残っていた。そのすき間の明治16年から23年までの時期に福神漬が出回ってきたが本格的な文献に出て来るのが日清戦争後である。
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地下鉄九段下駅に隣接の昭和館図書室で

2024年02月01日 | 福神漬
能久親王御事蹟の本を検索すると、思いもかけない図書室が出てきた。入ったことのある九段下駅の隣の昭和館の4階に図書室がある。後は国会図書館が所蔵しているがここは時間の制約があって、昭和館を選んで本を出してもらった。新規の利用者は図書館カ-ドを作る。
 二人ほどしかいない図書室は落ち着く。出てきた本は予想外に厚く、395ページほどの厚さ。数回通うことになりそう。
 森鴎外も台湾教育委員会の本も能久親王の自伝本というより、明治以降の記録と感じた。ただ輪王寺宮として生きていた時の無念さが全体に重く感じる。
 上野動物園の入り口前にある小松宮殿下の騎馬像は台東区教育委員会の説明版になぜ上野公園のこの位置に選ばれたかははっきりとした記録が無いという。輪王寺宮は戊辰戦争後に一時は逆賊扱いされた人物である。

北白川宮能久親王の評伝は数少ないが歴史小説家吉村昭著『彰義隊』、森鴎外の能久親王年譜、鴎外の編纂による能久親王御事蹟がある。
 吉村の本は彼が日暮里付近という地縁で詳細に下谷の庶民の気風を今に伝えている。森鴎外の本は日清戦争時の能久親王の事蹟の記述でこのことがヤマトタケル伝説と靖国神社遊就館の北白川宮の展示に繋がる。
 もともと靖国神社は戊辰戦争の時以後の政府軍死者を祀るところで日本各地にある護国神社の総本山となっていて、基本的には皇族は祀られていない。ところが北白川宮は台湾で征討中に死去して、後に台湾神社が創られ、祀られた。戦後に廃社となり、靖国神社に祀られることになったという。

 能久親王は国葬となり国から正式に赦免となった。死後も扱いは難しく、遺体は豊島岡の皇族墓地にあるが彼を嫌っていたイジメていた有栖川宮熾仁親王の墓の隣接地に葬られているという。本当なのだろうか。
 港区の有栖川公園内の都立中央図書館で、銅像を見ていてふと思うことがある。
有栖川宮幟仁親王の第1王子有栖川宮熾仁親王。17歳のときに当時6歳の皇女和宮と婚約しましたが、のちに和宮は「公武合体」の目的で14代将軍家茂と結婚させられてしまいます。熾仁親王が反幕府・尊王攘夷派となったのは、この婚約破棄がきっかけとも言われています。恭順の意思を示していた輪王寺宮を厳しく当たり、さらに日清戦争中に従軍の願いを退け、有栖川宮が死去すると大阪第四師団長から近衛師団に転属となり、日清戦争の講和会談中に従軍となった。その後台湾情勢が不穏となり、台湾に向かった。台湾では現地の抵抗もあったが日本軍人の大半の戦死者はマラリア等の感染病による死者という。このことが北白川宮が天皇の命令で日本各地の平定に駆り出され、戦地で亡くなったヤマトタケルの伝説と結びつけられ、今に残るヤマトタケルの銅像の顔は北白川宮の顔に似しているという。
 上野動物園の正門前にある小松宮の騎馬像はこの位置の根拠が台東区教育委員会の解説案内で疑問を呈している。やはり下谷の人はこの地に銅像を設置したかったという想いを感じる。先に北の丸の近衛師団前に銅像が出来てしまったこともある。

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福の神巡り 谷中編

2024年01月27日 | 福神漬
元日の大震動で不安の新年の始まり。未完成の原稿を見ていたら、二回に分けた谷中七福神巡りをしていた記事が残っていた。1月10日が一応七福神巡りの期間と知った。その期間後に七福神巡りの残りを巡ったが悲惨だった。閉じられている扉の外で参拝。
谷中の七福神詣でから、少し福の神を追加したコ-スの設定を考える。。
JR田端駅から谷中七福神巡りが始めるのが通常のコースで田端の東覚寺から始まる。そこで御朱印帳を購入し、各寺で参拝の印の判を記す。青雲寺・修住院までの前半3寺でコ-ス設定を変える。
修住院の参拝後に、通常は谷中商店街に向かうのだが、修住院の墓地の所に富士見坂というのがあって、十数年前には登り切った坂の途中から雪に覆われた富士山が見えた。その光景の変遷が台東区の掲示で知ることが出来る。その景色を壊したのが不忍通りに立つマンションという。
 富士見坂を上ると,突き当りの塀が福神漬の顕彰碑がある、浄光寺である。江戸時代は雪見寺と言っていた。隣接の諏訪神社は筑波山まで見える展望の地であった。
 福神漬顕彰碑を見たのち、残りの寺を回る。朝倉彫塑館の屋根の上の彫刻を見つつ、長安寺へ行く。なぜかこの寺の印象が薄い。次に谷中墓地内の外れにある天王寺へ行く。ここは毘沙門天。その後に大黒天の護国寺で普通は不忍池の弁天堂へ行くのだが、寛永寺根本中堂の境内にある秋田の出身の了翁禅師の碑を見る。この人の来歴は上野の地の文化の人でもある。
 日本の図書館の始まりというべき、不忍池に了翁の作った図書館のような一般人でも仏教書を読めるところがあった。ただ地盤が弱く何度も地震と火災で倒壊し、別の地に移った。了翁禅師も福神漬伝説にある創製者となる。
 新年は福から始まるが異例の元日で何が動いているのだろうか。
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記憶の劣化で過去のブログをこれから直す

2024年01月22日 | 福神漬
時々GOOブログから掲載基準の改定メ―ルが届く。過去にさかのぼると今では不適切と思う部分もある。そこで訂正を始めたのだが、これは遺品整理に近く、なぜこんなことを書いたのが思い出せない。それでも続けていると概要が判ってくる。また調べたことが適切かの疑念が沸く。人生という泥沼のヘドロから浮かび出る泡が出ては消え、また次の物が出る。そして出た泡を分析すると、何か根拠のありそうな事例もある。
 特に本人が書いた自伝でも記憶の間違いがあって、鵜呑みに出来ないことがあった。福神漬の絡みで岩崎弥太郎伝とか三菱地所等の社史で三菱が大坂から東京へ進出した三菱社の住所が南茅場町16とあった。ところが明治10年の南茅場町の沽券地図(中央区京橋図書館郷土資料室)には三菱の住所らしきところには、江戸時代の清酒白雪関係の人物が記載されている。この沽券地図は今の感覚だと固定資産税の根拠となる台帳で三菱の名義となっていない。
 南町奉行時与力の家が残っていた。今の地下鉄茅場町駅は道路拡張によって、位置関係は不明である。築地にいた時に知り合った茅場町の人に聞くと江戸時代から今でも茅場町に住んでいる人は数人という。
 このような後から間違いが見つかるので訂正は必至となる。最近訂正したのは遠山影普を遠山影元にした。遠山影普は長崎奉行・大目付だった。遠山影元は遠山影普の実子として生まれたが、父の影普が遠山家の養子だったため、実子扱いを外され、市中に徘徊するようになり、入れ墨伝説が生まれた。後であとで跡取りが亡くなり、影元が遠山家に戻り、町奉行職になった。このことが庶民の伝説の刺青伝説となる。明治期は生首の刺青、今は桜吹雪の伝説。
 今更思うが福神漬の資料調査でここまで脱線調査が来ると、好奇心と暇な時間が仕向ける。漬物の歴史は文献が少なく、こう調べないと根気が続かない。

 なぜ遠山影元を調べる必要があったのかというとまず築地市場の移転問題の基本は日本橋魚河岸の仕組みから来ている。天保の改革で株仲間が無くなり、嘉永年間に幕閣上層部によって再興が計られた。この時の情報隠しがあって、関係者は老中阿部正弘、遠山影元(南町奉行)筒井政憲(留守居役・元南町奉行職等の少数だった。嘉永3年10月末の高野長英の捕縛時の殺害を調べると、納得のいかないことが気になっていた。
 幕府の法制度では生きて捕縛する。一応文献では抵抗したと言いうが撲殺の様な記録があって、不明。さらに高野を江戸市中で匿った人物が4名捕まり、一人は獄中で亡くなり、三名が伊豆へ遠島となった。この3名のうち、一名が新島流人史で明治維新後の明治元年末に恩赦で釈放されちゃ記録がある。ところが残り二名の記録が東京都公文書館、都の文化財となっている八丈実記にも記載されていない。伊豆七島の流人管理は厳しく、島抜けもあって、記録漏れはあったか、江戸で嘉永3年末に遠山影元によって判決後に亡くなったのだろうか。
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つけ物の国 昭和5年

2023年12月31日 | 福神漬
 18年前に福神漬の出ている記事を載せた。この佐伯矩という人は日本の栄養学を作った人で、佐伯栄養学校が大田区馬込から今はJR蒲田駅付近に移転した。跡地は公園となっていた。この栄養学によって漬物がかなり影響があった。漬物が前近代的ともいわれた記憶がある。ただ長寿ということから見ると結構日本食は役に立っている。ただ学者の分析では日本女性の世界一はりくつにあわないという。日本を除くと、女性の長寿は男女格差に比例している。日本の女性は社会でも仕事でも格差があって、それなのに長寿世界一ということに理由がまだ見つからないという。アエラ・ドット 2023年11月
昭和5年2月16日朝日新聞
つけ物の国 佐伯 矩
我々くらいつけ物に親しんでいる国はなく、普通用いられている沢庵・浅つけ・葉つけであるがその材料及び漬け方の区別からつけ物の種類は実に驚くほど多い。
 先ず、材料から言えば大根が首位を占めているがついでカブ・ニンジン・ゴボウ・瓜・ナス・なた豆・わらび・ミョウガ・しょうが・梅の実・松茸・各種野菜の根・葉・茎・果実等は殆ど用いる。
 つけ方についてこれを見ても新鮮なもの、干してあるもの、若いもの、熟せるもの、単なる塩つけ・ぬかつけ・みそつけ・かすつけ・からしつけ・酢つけ・しょう油つけ・砂糖つけ・アルコールつけ・油つけ等枚挙にいとまない。
 つけ物の中に重要な地位を占めている福神つけのこときはその本質においてはむしろ煮物というべきで普通のつけ物の感覚から種を異にするべきである。

昭和5年2月24日朝日新聞
つけ物の話 佐伯 矩
西洋料理の宴会から帰宅して今一度お茶漬、つけ物の口直し無しにはという人達のうらみの程もいかにやと、更に大根漬に関して一節を追加することにする。
 沢庵もその固有の臭いのために外国人はもとより時には日本人でさえもこれを口にすることが出来ない者がないではない。私の知人で三人の極端な沢庵漬嫌いがあったが近頃また一人ふえた。わが国で充分に普及してもののこれを始めて試食されたときさぞかし鼻をつまんでつばを吐き手痛くけなしてことであろうと察するに余りある。
 ところがどうであろう近頃つけ物に人工的な着色や味付けが流行して、沢庵に毒々しい深黄色で着色したり、浅つけの大根にわざわざ砂糖を加える愚をあえてしていたり中に浅つけの大根に密かにサッカリンでもって味付けし、このために警察より没収・廃棄を命じられる例も稀ではない。
 サッカリンをもって甘味を付けたものを販売することは現に法令の厳禁するところで、これに違反してその制裁を受けることはもとより止むを得ないことであるが元来サッカリンは決して毒物ではないのである。つけ物に甘味を付ける程度のサッカリンを取締るべしとせば、その科学的構造から見て世情広く用いられている、茶もコーヒーもまた速やかにこれを厳禁せねばならぬ理がある。
この禁制は砂糖を保護する政治経済的見地から生まれたものである。なるべく近い将来撤廃されるべきものだと私は十年前から主張してきた。だから家庭では自家用のつけ物にサッカリンの微量を用いても差し支えないことである。しかし、砂糖のように栄養はなくその量をあやまると頗る味が悪い。

この当時ではすでにサッカリン規制は政治経済的見地からと広く知られていた。つまり、税収を確保するため砂糖業を保護する必要があった。=砂糖消費税

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福を求めて、中野区立歴史民俗資料館へ

2023年12月24日 | 福神漬
江戸川区の郷土資料館で見つけた中野区の七福神めぐりの展示を見に行った。大江戸線新江古田駅から15分というパンフレットを信じて行くが、やはり中野区は戦災にあっても区画整理、番地整理がされていないので最後の所で苦労した。しかしそれが幸いして、裏口に大きな漬物樽があって、これは10年以上前に見た樽だった。説明版では鷺ノ宮のタクワン屋から寄贈されたという。多分学芸員に聞けばわかると思うが鷺ノ宮の土地持ちで有名だったヤマシンという漬物屋だろう。今は廃業していている。トウゴと呼ばれていた漬物用大樽は10石入り。1.8リットル瓶千本分入る。一つの樽でおおよそ4000本のダイコンが入る。樽の途中に穴があるが小学生ののぞき穴。好奇心の多い小学生は必ず覗く。練馬区の郷土資料館、板橋の郷土資料館にもタクワン樽がある。戦前の都下の農村地帯でたくわんが農産加工の中心だった。
大樽の前に井戸。樽の上にふたのような屋根。樽の高さと横幅は1.8Mほどと推測される。日本の醤油・みその木樽の規格。漬物用は醤油等の廃棄の樽を使うことが多かった。
 中野区の歴史民俗資料館は中野区の小学生の学習の場で、結構漬物は学ばれているが、何故という展示がされていないと感じる。それは戦後育ちの先生には沢庵が軍需産業だったことを知らないと言える。戦前戦後の30年頃までは日本女性が漬物は自分で漬けるもので、購入するものではなかった歴史があった。
 七福神めぐりの解説があって、今まで知らなかった七福神巡りの変遷史を知った。
 最初の七福神の選定は京都から始まる。そこはそれぞれが離れた位置に福神があって、巡るということには最初はならなかった。徳川家康が上野の地に京都の風景を模した施設を作った。
 清水観音堂は、京都東山の清水寺を模した舞台造りのお堂 、琵琶湖は不忍池等々。そこに七福神を模した寺院の選定もあった。そこから谷中七福神めぐりが生まれたという。絵師は正月用の七福神の絵を商店に提供し、生活の糧としたようだ。西川口の河鍋暁斎の絵は、七福神の絵が多く残っている。
 京都の七福神巡りは文政年間に始まるが江戸では江戸時代後期が第一回の福神漬巡りの流行期、二回目は明治後期から昭和初期、第三回目は昭和50年以降で今盛んな日本全国の七福神巡りの半数は昭和54年から57年の頃から始まった。意外と新しい。
 コラム的に中野区郷土歴史資料館に福神漬の解説がある。どうして七が消えたかはまだ不明である。七は日本人には縁起の良い数字で中国人は八で、両国に共通の忌み嫌う数字は四である。日本の福神は大黒・恵比寿様で抱え込むタイは1ッ匹と決まっていて、二匹抱え込むのは強欲という。どうしてなのだろうか。べったら市の恵比寿購では干からびたタイをお供えしても良いようだ。多分腐ってもタイという言葉の由来かもしれない。お供えなので食べることはないし、冷蔵庫のや氷の無い時代には腐る。骨のしっかりしているタイは形は残る。
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黒船来航170年で中島三郎助と福神漬の縁

2023年10月07日 | 福神漬
今横須賀市浦賀で黒船来航170年のイベントが開催されている。高校の歴史の本が2022年から替わって、近代日本史と世界史が混じった歴史を教えるという。歴史総合(高校新課程) 
 日本史教育で近現代の所になると学校行事等で教えることもなく卒業する。
 海外旅行が普通に出来るようになると日本の若者がアジアで過去の歴史を知らないことの不都合が目立ってきた。そこで学校で日本近代史と世界史を混合するという目的で歴史総合となったという。
 日本史の場合は黒船来航からという。その黒船に最初に乗り込んだのが浦賀与力の中島三郎助であった。そして明治維新の終わりとなった箱館戦争の最後の戦いで中島隊(浦賀の人たち)が戦死し、翌日に休戦となり戊辰戦争は終わった。新選組の土方歳三 は中島隊が亡くなる前に死去したという。この新選組の様子をスケッチした新選組隊士がいる。鳥羽伏見の戦い以後に新選組に参加した三多摩の中島登が敗戦後の獄中で描いた絵が残っている。有名なのが土方の絵であるが土方の洋服姿の写真もあって、スケッチに中島登の想いが今に伝わる。
 市立函館博物館 で戦友姿絵を見ることが出来る。この中に中島三郎助父子の絵もある。なお箱館戦争に参加していて、福神漬関連の文献に1人出て来る人物がいる。河鍋暁斎翁伝.  飯島半十郎(虚心) 著. 福神漬を命名した梅亭金駕は別名で暁斎画談と言う本を出している。
 福神漬を命名した時の経緯を日本缶詰協会の会合で話したのが鶯亭金升(長井総太郎)だった。このことは京橋の明治屋が従業員のための教本に福神漬が載っていて、文献として缶詰時報2号と大日本洋酒缶詰沿革史 である。

 鶯亭金升の父、長井昌言はペリ―来航時の浦賀奉行戸田伊豆守氏栄の三男である。その長井家の墓がいま五反田の本立寺にある。本立寺の住職は戦友姿絵を描いた中島登の子孫になる。住職と話した時、長井家が明治の終わり頃四谷の寺が移転することになった時、墓を五反田に移したという。当時の感覚では五反田高輪台は郊外という。
 戸田伊豆守氏栄と旗本長井家の養子斡旋したのが筒井政憲でペリ―来航時の米国国書を翻訳した人である。筒井と長井家は四谷二番町の近所だった。今の日本テレビ麹町のあたりとなる。筒井家に出入りしていた松林伯円は南町奉行だった筒井から色々なことを聞き出し、講談としたようだ。後に歌舞伎の演目になった物もある。
 

 
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カミカゼは吹いたのだろうか

2023年08月14日 | 福神漬
蒙古と朝鮮の連合軍が日本に攻めてきたとき、神風が吹いて、蒙古が撤退した。このことは戦後の日本の映画で日蓮が祈り撃退した場面の記憶がある。最近のウクライナの無人攻撃機はカミカゼドロ-ンと呼ばれた位世界で有名な名称となっていた。図書館で昭和18年の国民学校小学生の歴史本の復刻版を見たが、昭和18年は太平洋戦争が始まった年なので、まだ特攻という攻撃もない時で、歴史の教科書にも普通の記述だった。
最近読んだ本(戦前の正体・愛国と神話の近代日本史・辻田真佐憲著)を読んで初めて、台湾で戦病死した北白川宮が日清戦争後に日本神話のヤマトタケルと見なされるようになったという。北白川宮を祀った神社が台湾に出来てついに神となった。なにか日本書紀のヤマトタケルの話に似ている。明治天皇の命により外地に赴き戦病死した。この本には戦前の英霊の制度が良くわかる。

 福神漬は上野戦争後に荒廃した上野の地域の復興につれ、動物園・博物館等の建設で桜見物だけでない観光地が復活した。そこで酒悦主人が観光客用に持ち帰ることの出来る漬物を博覧会で見た缶詰に入れ販売した。そこで商品名を入れる必要があって、当時出版ブ-ムがあって、江戸時代の戯作者梅亭金駕に命名を依頼した。なぜ金駕かと言うと彼の(妙珍竹林七偏人)という戯作で池之端の酒悦という香煎茶屋が出て来る。当時の命名料は安く、金駕も本の宣伝と考えていたと思われる。江戸時代の池之端は寛永寺の門前町で繁盛していて、門跡に対する恩は忘れてはなく。歌舞伎の1890年5月新富座の竹柴其水(きすい)作《皐月晴上野朝風(さつきばれうえのあさかぜ)を下谷の人たちが上野戦争の歌舞伎で昔を偲んだという。この歌舞伎を密かに、北白川宮の兄の小松宮が観覧したという新聞記事があった。まだ北白川宮に対する有栖川宮のいじめが続いていて歌舞伎を見ることが出来ない時だった。歌舞伎が今のように評価が上がったのはアメリカの南北戦争の英雄のグランド大統領や明治天皇が鑑賞したことから始める。それまでは歌舞伎役者は河原乞食と言って士農工商の身分制度以下の存在だった。
 上野公園竹の台に小松宮の騎馬像があるが隣地にグランド大統領の御手植えの記念樹の碑がある。
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福神漬の缶詰業界団体の中での位置

2023年07月15日 | 福神漬
日本の缶詰業界の機関誌と言う(缶詰時報)は大正11年に創刊されていて今でも継続している。今は缶詰だけでなく、ビン詰め、レトルト食品の情報誌となっていて、100年の歴史がある。今は漬物業界の人も缶詰業界の人も福神漬が大正の発足時にはかなり重きを置いていた食品であったことを国会図書館オンラインで検索すると毎回のようにに、統計や缶詰品評会での福神漬が検索で出て来る。さらに広告もあって今は酒悦と防衛省向けの缶詰しかないが多様な福神漬缶詰の宣伝広告が見える。

 まだオンラインでの缶詰時報の調査では戦後には福神漬缶詰の記事が見当たらない。戦前でも戦争末期には日本缶詰史の編集記事の所に出ていて、まだ原因が判らない。
 2007年5月の連休明けの水曜日に日本缶詰協会はJR有楽町駅前の有楽町電気ビル北館12階にあった時、築地市場から自転車に乗って訪問した。5月の連休明け1週間過ぎると、青果物が安くなり暇になる。もう15年以上前の記憶で当時の缶詰協会の人から築地市場移転問題を聞かれた思い出ある。今でも缶詰協会の中で福神漬は戦前には重きがあるということで史料を送ってもらった。そろそろまとめる時期が来た気がする。 
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平賀源内作 神霊矢口渡でナタマメ

2023年05月18日 | 福神漬
日本の国語辞典の始まりは明治の言海という。その辞書で福神漬に入っているナタマメを引くと、歌舞伎の平賀源内作 神霊矢口渡と近松門左衛門の好色一代男が出て来る。
 もう十五年ほど福神漬を知らべていて、おおよそのナタマメの比喩と寓意について理解しているが当初は何で色恋の世界でナタマメが出て来ることに頭がついてゆけなかった。
 ある時徳川の幕臣が維新後に移住した沼津で兵学校が出来た。そこで文献を見ていたら、山中笑(えみ)の共古随筆に刀豆が出ていて、遊郭に少女をあっせんする女衒が少女を見た目でと共にナタマメを食べさせ、テンカンの判定をしている文を見た。今の医学ではこのようなテンカンの判定でないので知識としては無かった。しかし明治大正期でもこのナタマメ判定法は風俗の世界で少し信じられていて、佐多稲子の上野不忍池の料理屋「清凌亭」の女中になった時、女主人から酒悦での福神漬の買い物を頼まれて、店内に入ったがある野菜は抜いてと言われたのを忘れて、店の奥に入りナタマメ抜きを思い出した文章はどの様な意味があるかは今は理解している。実際『私の東京地図』 この部分は小説であっても当時はナタマメが遊女の適性判定に 使われていたのを女主人は知っていたのだろう。樋口一葉のたけくらべで佐多稲子が急に少女から女になったミドリの変貌を遊郭で水揚げされてという説を出した背景かもしれない。少なくとも上野不忍池周辺は江戸時代からの風俗の世界で世間と違う常識がある。
 近松門左衛門の所でも少年の第一次性徴で陰毛の比喩として、ごみが貯まった処からナタマメがぶら下がっているという表現と解釈した。どうしてこのような比喩になったのだろうか。
 ナタマメ自体は中国からの渡来の薬用植物として江戸時代初めに入った。しかし、今の漢方の辞書でも薬効の部分は知られていなく、時々口臭除去の宣伝を聞く。
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グーグル・アラ-トで中島三郎助

2023年05月16日 | 福神漬
グーグル・アラ-トに登録している人物が数名いる。その中で戊辰戦争最後の戦いで戦死した浦賀与力の中島三郎助の命日が5月15日だった。この時に行徳の漬物商人が中島たちの浦賀組と共に同地で戦死した。この記述は明治事物起源(石井研堂著)の缶詰の始まりで見つけた時に、驚いた。
 数年の関連調査で、横浜市の神奈川県立図書館資料を見つけ、函館市立図書館貴重書に箱館之役戦没者霊位の名簿に千代岳の戦没者リストに喜兵衛が載っている。函館山の碧血碑は、北海道函館市、函館山の麓に明治8年(1875年)5月に建立された戊辰戦争、特に箱館戦争における旧幕府軍の戦死者を記念する慰霊碑。 
義に殉じた人たちの意地が見える。

 文献をネットに上げた人たちの根拠が中々見つからなかったが10年以上の月日が経って、図書館のデジタル化とコロナで直接図書館へ行かず、さらに貴重書なら紛失の恐れもない。
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鎌倉建長寺の河村瑞賢墓碑

2023年04月21日 | 福神漬
鎌倉建長寺へ行って、タクワン和尚が京都の寺院が江戸幕府の保護が無く寂れている状態を見て、徳川3代将軍家光の力を借りようと改心した鎌倉旅行を辿る旅をしたことがあった。偶然建長寺に河村瑞賢の墓を見つけ、墓碑をゆっくり読んで、江戸時代初期の日本一周の海運網を作った功績を実感した。この海運網で物流が活性化し、鎖国もあって日本独自の内国経済が出来た。決済手段として手形、コメ相場の統計等から先物取引等の今でも世界に通用することが考えが生まれた。犯罪捜査の指紋(主に手の紋)から現金を運ばなくても旅が出来た。手形は紙に手を擦り付け、この証文を持参した人に支払うという。今の手形にも譲渡という欄があって、手形を譲ることが出来る。
 日本の物流網は平地が少なく,山や谷と急流の河で車というものが大陸中国と比べて発達しなかった感がある。一度に重い物を運べる水運が発達したと思われる。それでも日本海海運網で太平洋岸は黒潮という厄介な海流があって、銚子沖から江戸に向かうのは難しかったようだ。
 明治事物起源を著わした石井研堂は江戸漂流記を著わし、明治維新の源流を探ったと思われる。情報鎖国で一般人が異国に行けるのは漂流しかなかった。その漂流記でも記録があるのは生き残った人だけで、無数の漁民船員があった。多くの江戸時代の海難は太平洋側が目立ち、フィッリピンまで流されて帰国した船員もあるようだ。
 海難は秋から冬にかけて多いと思うのだがやはり正月用の物流状況を示している感じる。こんなことを思いながら河村瑞賢が福神漬の考案者の一人となっているのは不思議である。
 根拠のない創作伝説は時間が経てば消える。まだ河村瑞賢説は生き残っている。
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