スギ花粉症で嫌われている杉は日本でどのような歴史があったのだろうか。
スギは今から200万年前には日本に出現し、縄文・弥生時代には既に全国に広く分布。登呂遺跡の古い時代から、スギのお世話となり、大切に植林・管理・保護・活用してきた。 スギは日本固有の植物で、北海道以外、全国で見ることができる。優秀な材木として日常生活に大いに役立つだけではなく、世界に誇れる日本独自の歴史的な文化財とも言える。
杉のきた道 遠山道太郎著より
古代における大和平野付近の度重なる都京の移転の原動力の一つとして建築用の木材が容易であったことが挙げられる。平安京が永続したのは西北部の広い森林地域からの木材供給が保津川流送によって、ある程度円滑に続いたからと思われる。
しかし、12世紀、東大寺の再建の用材が山口県の山中で調達したことは近畿周辺の山林の荒廃がかなり進んだと思われる。そして、17世紀になると、平和の定着と工具の進歩によって、近世の建築ブームが全国的に広まった。
日本が独自の木の文化を誇ってきたというなら、それは「杉の文化」であったというべきだろう。スギは日本人の始まりの時には存在し,登呂遺跡に出土しているくらい、日本人の生活に貢献し、少々の伐採利用には耐え,後には植栽である程度の資源存続出来るような特性をスギは持っていた。
スギは樹木から木材へ、木材から棒、板に変わり、板をつなぐ技術を開発したことが大きい。
小さくし、薄く割ったコケラ板を規則正しく重ねて広げていくだけで、大きな面積の屋根が出来る。
適当な大きさ厚さに割って円筒形に並べ、竹のタガによって締めて、桶樽はできる。軽くて丈夫な液体容器の容れ物である。日本の箱舟,高瀬舟(平田舟)はスギ板を釘でつなぐことで成り立った。
日本の川は雨の多い国であるが流量の差も変動も大きい。このような川を利用するには底の浅い舟でなければ役に立たない。その高瀬舟(平田舟)によって河川輸送が発達し、下肥等の肥料が運ばれると農村の開発も進んだ。
もし、杉の木の樽が江戸時代に発達しなかったならば、中国、朝鮮の壷・甕の食文化になっていて、今とはかなり変わった日本の食文化になっていただろ。重石を漬ける沢庵漬は杉の樽がなければ存在しなかったといえる。
スギは今から200万年前には日本に出現し、縄文・弥生時代には既に全国に広く分布。登呂遺跡の古い時代から、スギのお世話となり、大切に植林・管理・保護・活用してきた。 スギは日本固有の植物で、北海道以外、全国で見ることができる。優秀な材木として日常生活に大いに役立つだけではなく、世界に誇れる日本独自の歴史的な文化財とも言える。
杉のきた道 遠山道太郎著より
古代における大和平野付近の度重なる都京の移転の原動力の一つとして建築用の木材が容易であったことが挙げられる。平安京が永続したのは西北部の広い森林地域からの木材供給が保津川流送によって、ある程度円滑に続いたからと思われる。
しかし、12世紀、東大寺の再建の用材が山口県の山中で調達したことは近畿周辺の山林の荒廃がかなり進んだと思われる。そして、17世紀になると、平和の定着と工具の進歩によって、近世の建築ブームが全国的に広まった。
日本が独自の木の文化を誇ってきたというなら、それは「杉の文化」であったというべきだろう。スギは日本人の始まりの時には存在し,登呂遺跡に出土しているくらい、日本人の生活に貢献し、少々の伐採利用には耐え,後には植栽である程度の資源存続出来るような特性をスギは持っていた。
スギは樹木から木材へ、木材から棒、板に変わり、板をつなぐ技術を開発したことが大きい。
小さくし、薄く割ったコケラ板を規則正しく重ねて広げていくだけで、大きな面積の屋根が出来る。
適当な大きさ厚さに割って円筒形に並べ、竹のタガによって締めて、桶樽はできる。軽くて丈夫な液体容器の容れ物である。日本の箱舟,高瀬舟(平田舟)はスギ板を釘でつなぐことで成り立った。
日本の川は雨の多い国であるが流量の差も変動も大きい。このような川を利用するには底の浅い舟でなければ役に立たない。その高瀬舟(平田舟)によって河川輸送が発達し、下肥等の肥料が運ばれると農村の開発も進んだ。
もし、杉の木の樽が江戸時代に発達しなかったならば、中国、朝鮮の壷・甕の食文化になっていて、今とはかなり変わった日本の食文化になっていただろ。重石を漬ける沢庵漬は杉の樽がなければ存在しなかったといえる。