年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

スギの樽と沢庵漬の関係2

2006年01月30日 | タクワン
スギ花粉症で嫌われている杉は日本でどのような歴史があったのだろうか。
スギは今から200万年前には日本に出現し、縄文・弥生時代には既に全国に広く分布。登呂遺跡の古い時代から、スギのお世話となり、大切に植林・管理・保護・活用してきた。 スギは日本固有の植物で、北海道以外、全国で見ることができる。優秀な材木として日常生活に大いに役立つだけではなく、世界に誇れる日本独自の歴史的な文化財とも言える。
杉のきた道 遠山道太郎著より
古代における大和平野付近の度重なる都京の移転の原動力の一つとして建築用の木材が容易であったことが挙げられる。平安京が永続したのは西北部の広い森林地域からの木材供給が保津川流送によって、ある程度円滑に続いたからと思われる。
しかし、12世紀、東大寺の再建の用材が山口県の山中で調達したことは近畿周辺の山林の荒廃がかなり進んだと思われる。そして、17世紀になると、平和の定着と工具の進歩によって、近世の建築ブームが全国的に広まった。

日本が独自の木の文化を誇ってきたというなら、それは「杉の文化」であったというべきだろう。スギは日本人の始まりの時には存在し,登呂遺跡に出土しているくらい、日本人の生活に貢献し、少々の伐採利用には耐え,後には植栽である程度の資源存続出来るような特性をスギは持っていた。
スギは樹木から木材へ、木材から棒、板に変わり、板をつなぐ技術を開発したことが大きい。
小さくし、薄く割ったコケラ板を規則正しく重ねて広げていくだけで、大きな面積の屋根が出来る。
適当な大きさ厚さに割って円筒形に並べ、竹のタガによって締めて、桶樽はできる。軽くて丈夫な液体容器の容れ物である。日本の箱舟,高瀬舟(平田舟)はスギ板を釘でつなぐことで成り立った。
日本の川は雨の多い国であるが流量の差も変動も大きい。このような川を利用するには底の浅い舟でなければ役に立たない。その高瀬舟(平田舟)によって河川輸送が発達し、下肥等の肥料が運ばれると農村の開発も進んだ。
もし、杉の木の樽が江戸時代に発達しなかったならば、中国、朝鮮の壷・甕の食文化になっていて、今とはかなり変わった日本の食文化になっていただろ。重石を漬ける沢庵漬は杉の樽がなければ存在しなかったといえる。
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停電 築地市場1

2006年01月29日 | 築地市場にて
築地卸売市場は1月29日午前8時より夕方4時過ぎまで停電です。2月5日も同じです。
電気設備の点検です。電気の無い状態で、パソコンを動かしデータを取り出さなければなりません。プリンター、モデム、ファックス等も起動させねばなりません。役に立つのはAPC社のBK500等の無停電電源装置です。APC社のバッテリーはコールドスタートという機能があって、BK500ならば15分くらいプリンターが動きます。各の機械にバッテリーつけて、一回限りのデータ取。最近のAPC社のマニュアルにはコールドスタートの説明は書かれていません。サポートに電話して聞きました。電気の無い世界で活魚等の酸素供給はどうなっているのでしょうか。半日以上の停電をバックアップする設備は億単位の金がかかります。偶然APC社のバッテリーに出会っていなければ、毎年の2~3回の停電は苦痛です。
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スギの樽と沢庵漬の関係1

2006年01月28日 | タクワン
結樽の歴史
杉は日本固有の樹種で、かつては生活に欠かせないものだった。建築から暮らしの道具まで、あらゆるものに使われてきた。16世紀前後にスギの割り板を丸く並べ、竹の細くしたタガで結った円筒を作り、竹の合い釘で継ぎあわせた底板をはめ,桶(結桶)という軽くて丈夫で、液漏れのない液体を入れる容器で作られた。今、原油の量の単位でバレルという単位があるが輸送途中で液漏れがあり、平均値が1バレルとなった。日本のスギと竹で出来た結桶は酒や醤油等の高価な商品を製造したり、輸送したりするため、漏れてはいけなかった。更に野菜等の肥料の輸送に使われた下肥用の桶は軽くて、かつ漏れてはいけなかった。桶の発達は近世日本の発展に対して役割は大きい。つまり,都市の衛生の維持、農業の発展、醸造業の企業化。林業に対する貢献等がある。
 吉野のスギの樽丸(樽の側板用の用材)に適し、山でよく干し軽くして堺へ運んだ。杉の樽丸を得たところに醸造業は発展した。杉の植林の歴史は古く、室町時代中期に大和三輪と春日山の杉を移植して始まり。枝打ち・間伐などの手入れがゆきとどいた節のない良材は、江戸時代には上方からの酒樽用材の需要も多かった。堺は摂泉12郷といわれた酒造の地であり、醤油の醸造では江戸時代有数の産地であった。醸造業の企業化、大型化は、輸送用の樽(4斗樽)製造用の桶、特に大型の桶の発達が大きい。更に、桶、樽の製造業の発達は、従来、酒等の容器であった壷やカメは醸造するため容器から、茶道の普及によって茶器や日用の雑器、食器の製造に向かった。
酒及び醤油の空いた結樽は漬物用の容器として使われた。沢庵の製造に使われた樽は酒樽の発達の後である。
参考
バレルとは、もともと英語で「樽」という意味。その樽が石油の単位となったかと言うと、今から140年前にアメリカ で産出された石油は、シェリー酒の空樽(50米ガロン)に入れて運ばれたそうです。目的地に着いた時、中味は、蒸発や漏れにより目減りして、42米ガロンになってしまったため、これを1バレル(約159リットル)とすることになったと言われています。
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寺院の清酒醸造と糠

2006年01月26日 | タクワン
寺院の清酒醸造について
お正月に神社に行き、お盆にお寺にいかれる方が多いと思います。クリスマスを祝ったり、節分を祝ったりとすっかり本来の宗教的意義は忘れて日本では風俗化しています。これは日本の神仏習合思想の影響です。
神仏習合思想とは、神も衆生の一で、人間と同じく迷界に流転する存在ですので、覚りを求め仏法を尊び擁護するという思想です。そこから、神様のためのお寺の建立(神宮寺)、納経、僧侶による神前読経、果ては神様に菩薩号(八幡大菩薩など)を付けるなどのことが行なわれました。(春日大社・興福寺)
奈良の僧坊酒として有名なのは興福寺配下の菩提山正暦寺です。ここで初めて[諸白(もろはく)]のお酒が造られたと言われています。お酒は米から造りますが、麹を造るための米と、仕込みに使うお米=(掛米)、この両方ともが白い、つまり精白したお米を使ったということです。それまでは[片白]といいまして、一方が黒い米、つまり玄米を使っていました。ただ、当時の精米方法では精米率は92%ぐらいで、現在の飯米程度でした。大量の米糠がここで発生したと思われます。 16世紀末、奈良で仕込み用の桶が作られ、かめや壷で少しずつ仕込む少量生産から大量生産の時代に入りました。

お酒は仏教徒、特に出家者には飲酒戒として自制することが定まっています。ところが、戒律の条文には酒造の事が記されているのです。もとより酒を禁止する目的で書かれているわけですが、酒造りの格好の技術資料となったことでした。
この寺院等の酒つくりは神社で神に捧げるものに酒がありました、その神社を支配している寺社で酒を醸造する必要がありました。平成の現在でも税務署の許可を受けて、神社で酒を造っています。酒税法により明治32年10月5日酒醸造免許を得る。御神酒清酒醸造免許神社は、全国で 伊勢神宮、出雲大社、莫越山(なこしやま)神社(千葉県安房郡丸山町)、岡崎八幡宮(山口県宇部市)の4社だけである。その他数十の神社が、 ”どぶろく”の醸造神社である。
神仏習合思想と食文化
日本に浸透した仏教思想は、肉食の否定と神道の穢れの思想が結びついたと考えられています。また、支配者が民を税収確保のため、狩猟や漁労から米作農耕へ向かわせるための方策となりました。
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戦国時代の京都の酒と沢庵漬

2006年01月25日 | タクワン
京都の戦国時代の酒
鎌倉時代末期から室町初期にかけて一世を風靡した「柳酒」を頂点に、京都周辺に多くのの造り酒屋が現れたのには二つの理由がありました。
  京都には各地から年貢米が集まり、米の市場があって、酒の原料米が容易に手に入りました。また、酒造りには欠かせない米麹の製造と販売の権利を北野神社が持っていたので、この神社の周辺に麹製造業者が多数ありました(麹座)。その頃の酒造りは、壷に酒の素になる麹と蒸した米を入れて、その中で醸造するのです。壷を地面に埋めて、その中で酒を造る非常に原始的な造り方です。その為、アルコール分のうすい酒しか出来ませんでした。そうしてつくられた酒はいわゆる濁り酒でした。戦国時代末期の話ですが、当時日本にやってきたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが、日本酒を買ってきたら、すぐに飲まないと酢になっていたという話が残っています。(『日本史』)また、フロイスは米を籾の状態で購入しており、酒の製造方法等考えると、当時の京都では大量の糠の発生と木の樽による仕込みは、江戸時代になってからのだろうか?信長や秀吉が賞味した酒は京都の「柳酒」でなく、河内の「天野酒」や奈良の正暦寺で造られた「菩提泉」といわれます。
 樽は戦国時代後期に京都周辺において広まっていき、江戸時代には日本国中へ普及しました。輸送性に優れ、作りやすい結樽が大いに発展し、清酒製造は樽が主役の座を占めることになりました。
沢庵漬に必要な米糠、塩、ダイコン、木の樽はは丁度、沢庵和尚が堺にいた時ごろ揃ったのです。塩は瀬戸内海の製塩技術の進歩と海運によって堺に運ばれ、ダイコンの掛け干しが始まり、吉野からスギの樽が堺に運ばれました。奈良から僧坊酒のための精米によって大量の米糠が発生したと思われます。沢庵は壷に漬けていた糠みそ(モチ米糠)から酒造りための精米によって発生した糠(ウルチ米糠)を使い、干し大根と瀬戸内の塩で木の樽に漬けた漬物を知り、そして出石で工夫したと思われる。

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酒税と沢庵漬

2006年01月24日 | タクワン
酒税制度と沢庵漬
柳田国男著 木綿以前のこと の自序に「女と俳諧、この二つは何の関係も無いもののように、今までは考えておりました。」と始まっている。沢庵漬の歴史を調べると、日本の税制の問題が知識として必要になってくる。江戸時代以前は石高制によって、米の生産、流通、消費の知識が必要となり、その途中に発生する米糠は、文献にはほとんど無く,想像で推測するしかない。漬物についても、江戸時代の金銭消費の文献にも、酒、塩、味噌、醤油等の購入記録はあるが、漬物を金銭で購入した文献は無いといってよい。ただ贈答品のときに出てくるくらいである。奈良漬は奈良の酒つくりから出来た漬物です。山科家礼記に明応元年(1492年)11月3日宇治からの土産に「奈良漬」を持って来。とある。

米の状況、つまり税金の状況を調べることで、沢庵漬の素材である米糠の歴史が理解できる。
日本酒の始まり
日本酒は、神に供える最も重要なものとして、造られてきました(神饌)。その神々に捧げた同じお酒を、神事に集まった人々が飲むことによって連帯感を生んでいきました。(直会)古代中国の歴史書 魏志倭人伝によると当時の日本人の習俗として葬儀の時,喪主は泣いているが他の人は酒を飲んでいる。風俗として父子男女の区別なく酒をたしなんでいる。古代の酒は神に捧げるものとして、朝廷が製造していました。(造酒司)これが鎌倉時代になり、朝廷の力が衰えてくると、寺院や神社が強い力を持ち始め、大きな収入元となる酒造りを始めるようになりました。これは「僧坊酒(そうぼうしゅ)」と呼ばれ、各地で始まった「僧坊酒」によって、酒造りの技術は格段の向上を見せます。その後、麹米と蒸米、水を一度に仕込んで発酵させる、「諸白酒(もろはくしゅ)」というお酒が主流になります。諸白とは、麹米と掛米すべてに精米をした白米を使うことです。「諸白酒」の中でも「南都(=奈良)諸白酒」と呼ばれるお酒は非常に高品質でした。このときの諸白にした精米の過程で米糠が大量に発生したと思われます。

室町時代に入って、1371年に、酒造業者に対し、酒つぼ当たり二百文を課していたのが、酒税制度化の第一歩とされています.これ以後も、朝廷や室町幕府からたびたび臨時の賦課を負わされた酒屋は、幕府財政の基盤となった。こうした賦課の見返りとして、貴族や社寺に保護された「座」という組織が生まれ、その庇護によって商権を独占、業域を拡大していきます。


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堺と沢庵

2006年01月23日 | タクワン
堺と沢庵の関係
1601年 29歳 沢庵、京都より堺に向かう。
1602年 30歳 細川幽斎に和歌百首を見てもらう。
1604年 32歳 沢庵の号を授かる。
 31歳の時、堺の南宗寺陽春院の一凍紹滴に師事し、沢庵の称号を受けました。やがて住持を兼ねるようになります。
沢庵が糠で漬けた大根の塩漬けを知ったのは堺にいたときだろう。まだ証拠はない。
兵庫は中世前期まで淀の外港としての国内最大の湊町で、ここに出入りした船舶はほぼ瀬戸内一帯から来航していました。京都に物資を送る者はここで川舟に荷物を移す必要があり、港には東大寺の北関、興福寺の南関と関銭徴収のための関所がありました。
 堺の地は中国と日本の交易の中心地で京都や大和川によって奈良(東大寺、興福寺)とも結ばれていた。応仁の乱以後は新興の騒乱から離れていた堺が物資集産地の地位を兵庫から奪った。
堺が繁栄した戦国動乱の時代。堺の商人たちは鉄砲や軍需品の生産と売り込みの「死の商人」たちでもあった。一時の安堵も得られない世の中。彼等はせめて安心立命と子どもの将来をおもんばかって、京都の本山復興だけでなく堺の市内各所に私財をなげうって寺院を建立した。
 大徳寺は「茶づら」と呼ばれ、これをもっても茶の湯との関係が深いことがわかる。
大徳寺が茶の湯と緊密な関係をもち、繁栄したのは一休が応仁の戦乱を避けて堺に逃れ、村田珠光が堺の地で焼失した大徳寺伽藍の復興資金を信徒から集めて以来のことである。堺衆と大徳寺といった関係が生じた。珠光の弟子宗悟は古岳宗亘に参禅したといわれ、武野紹鴎も同じく古岳に禅を学んだ。また、千利休もしばしば参禅した。
 そして、紹鴎の師である古岳が堺に南宗庵を開き、三好長慶が父の菩提を弔うためにこれを南宗寺と改めてから、堺の豪商はその本山大徳寺との緊密な関係が構築され、財政的にも多大な支援がなされた。とくに南宗寺一世、大林宗套に対する堺の豪商たちの帰依は厚く、紹鴎門下の今井宗久、津田宗達、その息子宗及らは競って参禅した。こうして大徳寺を中心として、しだいに茶禅一味の思想が起こり、大徳寺と茶の関係が深化していくのである。戦国動乱の世の中を厭い。たとえ成功した豪商たちといえども、心の不安定は拭いようがなく、宗教の世界に救いを求めたといえる。
 49歳のとき、郷里の出石に帰り、荒廃していた宗鏡寺を再興し、後山に投淵軒を立てる。投淵軒という名は時勢を憂いて汨羅の淵に身を投じた、詩人屈原の故事からとった。すでに当時、富貴に近づき、媚び、仏法を売って渡世を営む坊さんがいた。沢庵は世間の名利から離れ、麻衣を一枚まとい、小鍋ひとつだけで野菜根を煮、米をとぎ、粥を作り、ただ自己の探求を深めた。出石で沢庵によって糠漬けダイコンが沢庵漬になった。
堺と沢庵 関係者
一休宗純
永享4年(1432)、堺に巡遊し、多くの堺衆の帰依を得た。
大林宗套
堺に来て南宗寺の開祖となった。三好一門はじめ、阿佐井野宗瑞、千利休、津田宗及、今井宗久など、堺衆でその教化を受けた人は多い。
江月宗玩
堺の津田宗及の子。父宗及の縁で大徳寺、南宗寺に入ったが、慶長11年(1606)、
黒田長政が父如水の為に建てた龍光院に入り、のち大徳寺156世となった。
父の影響を受け茶道、詩書に造詣が深い
谷正安
堺の商人。沢庵和尚に帰依し、寛永5年(1628)、沢庵を開山にして海会寺跡に祥雲寺を創建した。
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沢庵と京都・大徳寺

2006年01月21日 | タクワン
一般に歴史学者は日本人が精白米を食べるようになったのは、元禄時代頃(17世紀末から18世紀初頭)からで、沢庵和尚の生存していた時代の少し後である。従って、沢庵和尚の時代の糠はどこから得られたのだろうか?沢庵和尚の経歴を見てみよう。
沢庵漬と沢庵和尚の経歴は密接に関係している。とにかく不思議な漬物である。
沢庵漬の発案者とも重用者とも言われる沢庵和尚は、天正元年(1573)兵庫県出石町に生まれました。父は出石城主・山名祐豊(やまなすけとよ)の重臣・秋庭能登守綱典(あきばのとのかみつなのり)です。沢庵和尚は10歳で出家、14歳にして出石藩主菩提寺・宗鏡寺(すきょうじ)に入りました。彼が20歳の時、京都の大徳寺から薫甫宗忠(とうほそうちゅう)が住職に任じました。宗忠は大徳寺住持の春屋宗園(しゅんおくそうえん)の弟子で、この時以来、沢庵と大徳寺との関係が生まれました。
京都 大徳寺とは
大燈国師宗峰妙超禅師が開創。
後醍醐天皇の勅願所となり庇護を受けたが対立した室町幕府足利義満により格下げされた。以後在野的立場を取る。
応仁の乱で荒廃したが、一休宗純が復興。
一休禅師に学んだ茶礼を堺の村田珠光・武野紹鴎・千利休へと伝えられ、茶の湯の完成へと到る。
大徳寺は茶道の高級サロン化し、権力者の情報交換の場となる。
沢庵との関係者 
一休宗純 一休さんとして有名な一休禅師、大徳寺出身
千利休 茶の湯・大徳寺山門に置かれた利休の木像のため秀吉に切腹を命じられる。
 明智光秀 沢庵が三条河原で処刑された光秀を大徳寺に埋葬する。
柳生 宗矩 大徳寺で知り合う、紫衣事件の後、赦免に尽力
千宗旦 千利休死後、茶道再興・沢庵と同期で大徳寺にて修行
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司馬遼太郎のタクワン

2006年01月20日 | タクワン
司馬遼太郎のタクワン論
タクアン
元三大師『慈恵大師良源上人(912-985)』の住坊は、定心坊(じょうしんぼう)とよばれていた。元三大師はタクアンを発明したといわれる。このため叡山や坂本あたりの町家ではタクアンのことをごく最近まで、「定心坊」とよんでいた。大根を干したものを米糠と塩で漬けるというこの日本独自の食品は江戸初期の禅僧沢庵の発明とされるが、証拠はない。
当時、江戸は、田舎とはちがい、米を食う町であった。その上、田舎では精米しなかった。
精米すれば糠ができる。沢庵和尚が関東にくだったとき、江戸では糠がふんだんにあったのである。
玄米食である田舎では、糠が多くとれない上にとれてもそれを肥料にする傾向があったといわれる。
もし元三大師がタクアンの発明者であったとしたら、叡山は三分搗(さんぶづき)、七分搗程度であれ、白米に近い米を食っていたことになる。とすれば、叡山はむかしから「論湿寒貧」といわれて質素であるとされながらも、在方の農村よりは、白米を食べ糠を食品製造に用いるというぶんだけは、すくなくとも贅沢だったのではあるまいか。
(「街道をゆく―叡山の諸道」全集56)
定心房は塩漬けの大根漬デス.元三大師のころは『塩とわらで漬けていた』

たくわんかじり歩き 妹尾河童著より

大根を米糠と塩で漬けたものをたくあんだと
すれば定心房は違っている。定心房とは、「ねずみ大根」と呼
ばれる本体が十三センチほどの長さしかない小振りな大根を、
何と稲ワラ(!)と塩で漬けるもの。“いま”の定
心房は、ワラでは旨味が出ないからと糠漬け、すなわちたくあ
んになっていたからだ。
だから、定心房は残念ながらたくあんとは呼べない。
谷口彦兵衛という漬物屋さんは今はなく、定心坊の名前で滋賀県の丸長食品が今風にして作っている。なぜ漬け込み材料に稲わらを使用したか不明であるが、塩の節約に関係あると思う。
戦後、ひどい物不足の時代、練馬の沢庵業者は不足した糠のかわりに籾がら入れて
補ったという。どのような効果があったか知らない。
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タクワン 糠の歴史5

2006年01月19日 | タクワン
江戸時代の練馬の沢庵漬は石高制社会『米の生産、流通、加工、消費を中心とした社会』の中で不思議な地位を占めている。米は現在の通貨のような地位をしめていた。
 江戸の郊外となった、練馬の地から江戸市民や武士のために練馬大根(沢庵)を供給することが必要となった。また、農村部でも塩、米糠、肥料(下肥)桶樽等を商人や消費者から購入せざるを得なかった。農村部において、自給自足という制度が崩れていった。大根を加工して沢庵漬にすることは農村部貨幣経済の進展の象徴である。
沢庵漬は単なる漬物でなく、米の歴史とそれを大切にする文化と、塩の文化,杉の木による樽の文化、宗教―禅宗・茶の湯、大根をめぐるリサイクル文化、日本食の発酵文化等が語れる。そして中国や朝鮮に材料的にはあっても不思議でない沢庵漬は日本独自の漬物である。
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タクワン 糠の歴史4

2006年01月18日 | タクワン
糠(ぬか)とは何か
米を生産する農家は最近になって初めて糠を自由に使えるようになった。日本の歴史の中で米は税金の一種で、農家は生産すれど消費することは出来ず、糠とは縁が遠かった。戦後も都市の米屋が精米していて、肥料としての糠は購入せざるを得なかった。
戦前は地主に玄米で納め、戦後は食管法によってやはり玄米で政府に納めてきた。昭和四十五年から始まった自主流通米制度も、その米の流通は玄米であった。農家の手元に残る米糠わずかに残した自家保有米分からとれる米糠にすぎなかった。
 新食糧法が施行されてから歴史上初めて農民(と農協)は自由に米を販売できるようになった。消費地精米から産地精米がふえてきてもいる。そして自由に米を販売できるということは、米糠もまた自由に利用することができる時代になったということでもあるのだ。農村に貴重な米糠が残り、その米糠を自由に活用できる時代がやっと訪れたのである。

米を食するには、通常、籾がらを除いて玄米にする第一段階と、玄米から精白米にする第二段階があります。
米の保存するには
籾 一般に10年は保存できるといわれています。
玄米 果皮に含まれるワックス状のロウ質が中の酸化を防いでくれます。
低温(15c以下)で保管すれば数年以上の長期保存が可能といわれます。
白米 表面に付着した糠に含まれる脂肪が酸化するため、1ヶ月で味が落ちてしまいます。
米の歩留まり
 米の品種や乾燥程度によって異なりますが、一般的な場合では、米(籾のついた)状態から玄米への歩留まりは約60%、玄米の精白による歩留まりは約91~96%となっています。したがって、100kgの籾から約55kg程度の精白米が得られるのが普通です。
今、日本は約1000万トンの玄米を食べています。精米することによって、糠が発生します。米糠の発生量約100万トンから大口使用量をひいた残りの約40万トンが、食品工業、消費者、農家で使用または廃棄されている量と考えられます。農家の米産直がふえ、コイン精米機の台数が増えていることから考えると、地域に残る米糠の量は確実にふえている。少し前までは米屋さんが産業廃棄物として処理業者に出したり、コイン精米機を設置した農家が米糠の引き取り手がなく、捨て場に困っていたという話がありました。大量に地域に残るようになった米糠を生かすシステムを、最近、徐々につくりだし始めたところです。

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タクワン 今の米糠の用途

2006年01月17日 | タクワン
現在の糠の用途 稲の籾を脱穀し、さらに籾殻を除いたものを玄米といいます
玄米で精米することによって発生する米糠の主な用途は米糠油が33%、飼料12%、キノコの苗床11%、漬物5%で残る39%は廃棄されていると思われます。
米油を取った後の脱脂糠は配合飼料としての利用価値が非常に高く、実際に、この分野において最も多く利用されています。
酒造りの精米のとき糠
酒の原料となる米は、「うるち米」と呼ばれる種類のものです。
米の表面や胚芽には、タンパク質や脂質・灰分・無機質など多く含まれています。これらが必要以上に多いと清酒の味、香り、色に悪い影響を与え、酒質を劣化させることから精米により十分に取り除かねばなりません。
それらは糠の種類は赤糠、中糠、白糠、上白糠の4種類あります。赤糠とは、玄米の表面を飯米と同じくらい削って出てきた糠のことです。飯米の玄米を精米したとき出るぬかと同じ。赤糠→中糠→白糠→上白糠の順にデンプンの割合が多くなります。
赤糠は家畜の飼料、米糠油を製造している工場に引き取ってもらい米油、漬物用に、中糠は、飼料に白糠と極上糠は菓子原料、友禅用のり、 インスタントラーメン、 せんべいなどに使用されています。
米糠は、その「臭さ」が敬遠されてか、今までは積極的に利用されてきたとは言えません。ほとんどが、飼料や肥料に利用されてきたのです.




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江戸時代のぬか味噌

2006年01月16日 | タクワン
江戸時代のぬかみそ
図説 江戸料理事典 松下幸子著より
現在のぬかみそは(漬物の)ぬかみそ漬けの漬床であるが、江戸時代のぬかみそは糂汰とも呼ばれ,原料(モチ米糠)も現在(ウルチ米糠)と違って、味噌と同様に用いられ、江戸時代後期に漬物にも用いられるようになった。
作り方
本朝食鑑 穀部2より
 糠はウルチ米よりモチ米の糠がよい。
 食べる時は酒や酢に浸して用いるか味噌汁に混ぜてもおいしい。
木綿以前の事 柳田国男著
餅の製し方に、かなりの著しい古今の変遷があったのである。大きく変わったのは横杵の発明で今と同じような餅が出来た。以前の餅より歯切れがよく、多くの人が餅好きになった。

 江戸時代中期以後、精米技術と、米あまりによって、次第にもち米糠は調味用としての糠として使用するようになり,ウルチの米糠は漬物用の糠と区別して使用されてきたのではないか。そして、醤油等の質の良い調味料の価格が下落すると、調味料としてのモチ米糠のぬか味噌は消えていったと思われる。
 
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タクワン 糠みそ1

2006年01月15日 | タクワン
糠床の糠
現代漬物作り入門 藤澤重明著より
食物繊維摂取量を増やそうという運動のとき、「炒り糠に入っている白いジャリジャリするのは何ですか?」「炒り糠を味噌汁に入れたら、味噌汁の底に白いものが沈殿している。」と言う問い合わせがありました。炒り糠は漬物用と表示してあって,粉末の卵殻入りです。害はないのですが、どうぞ食べてくださいとは言えません。
漬物用米糠の特徴
①信頼できる米屋さんからウルチ米糠を求めてください。モチ米糠は含まれていてはいけません。
モチ米糠はウルチ米糠と含有デンプンの種類が違い、漬物用としては不向きで一般には使用しない。モチ米糠が20~30%以上まじっていると、きゅうりやナスの表皮が破れたり,漬味も舌をさす酸味が出ます。
②ウルチ米糠には約18%の米糠油が含まれています。夏場は特に酸化されやすく臭くなります。酸化が進むと悪臭がする。ビタミンB1が時間の経過と共に分解し、糠が変敗し、独特のにおいがする。
家庭でできる酸化防止法
炒り糠にして保存使用する。
フライパンに米糠を入れ、中火で炒ると糠がキツネ色になった位が丁度良い加減です。絶えずかき混ぜないと黒くなります。燃えることもあります。
③普通のウルチ米糠は水分を13%ほど含んでいます。従って,コクゾー虫(米粒を食害する虫)
等が発生しやすい。
以上の3点がわずらわしい人は市販の炒り糠を買われるのが無難です。
参考 ウルチ米糠 主たる含有デンプン アミロース20%、アミロペクチン80%
   モチ米糠  主たる含有デンプン アミロース0%、アミロペクチン100%
ここで新しい問題が生じる。ウルチ米糠はいわゆる漬物用ヌカ味噌に適しているのだが、江戸時代は調味料としてのヌカ味噌はモチ米糠が適していたらしい。

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味の箱舟計画と漬物

2006年01月14日 | 趣味としての漬物
日本の伝統食材9品目が、スローフード協会国際本部(イタリア)が進める「味の箱舟」計画に登録された。同計画は、大量生産される食品に押され、消滅しかけている伝統食品を支援するのが目的です。登録されたのは、安家地大根(岩手県岩泉町)のほか、山形県米沢市が主産地の雪菜、花作大根(山形県長井市)、雲仙こぶ高菜(長崎)のほか5品目。
 安家地大根(紅大根)は、岩泉町安家地区周辺で主に栽培されている。7月中旬から播種し、収穫期は9―11月。長さ20―40センチで、鮮やかな紅色が特徴で辛みが強く、ビタミンC含有量が青首大根の1・5―2倍ある。硬く繊維質に富んでいるため、貯蔵性に優れている。
 花作大根は、古くから山形県長井市花作地区で栽培されてきた漬物用の大根です。パリパリとした歯ざわりの良さは漬物として最適で、一時は県内一円で作られたときもありましたが生産性が低く、今では絶滅の危機に瀕しています。
雲仙こぶ高菜(長崎県)葉の内側に突起(こぶ)ができる、とてもめずらしい長崎の伝統野菜です。やわらかさと歯切れのよさは天下一品で、特に漬物の風味は最高です。また、コブの部分だけを使った浅漬けや炒め物はこの上なく美味と言われます。12月から翌年2月にかけて収穫します。
「味の箱舟」計画 消滅しかけている伝統的な農産物や食品の生産を支援することで地域の活性化につなげる運動です。今回選ばれた9品目のうち、野菜は4品目ですが、安家地大根(紅大根)を除いて漬物にしたとき、味が引き立ちます。


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