年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

高齢になると予定は病院優先となる

2023年10月31日 | 宅老のグチ
定期的な腸閉塞の点検が病院で日程で決まる。さらに子供の時に耳に穴をあけた後遺症があって、定期的に耳垂れが出る。耳鼻科へ行くと薬を処方された。
 耳鼻科の待合室に難聴と認知症という冊子が目に付いた。耳の具合が悪いと認知症の疑いから認知症になるようだ。さらに引きこもりも認知症の誘導となる。いまは嫌でも認知症の情報が目に付く。

 街歩きで、コンビニより多いと言われる整体とかリハビリ施設の多さに気が付く。さらに医療施設が3軒あればその付近には調剤薬局があって、この前に気まぐれで新規の調剤薬局スギ薬局へ行った。何か書かされたがまた個人情報もれも気になる。
 銀座のオ-ケ-ストアを記事にしているライタ―の記事を見ているとデフレ価格をきにしていた。どうもオ-ケ-ストアの現金会員カ-ドに入っていないように見える。この会員になると3%ほど安くなる。ただし現金決済であってカード決済では値引きが無い。QRコード決済も対象外。 このことを詳しく書いているライタ―の記事を探しているがまだ見つからない。銀座のオ-ケ-ストアで中国人が弁当を買って、現金支払いで驚くだろう。多分日本でオ-ケ-ストアが一番現金重視のス―パ-とおもう。近所のオ-ケ-ストアの働く人と買い物の人は高齢者で結構遠くから来ている。時間があるので男性高齢者も多いと感じる。つまり車が無い人が街歩きのついでに買い物をする。オ-ケ-ストア特売が無いので不要の物を衝動買いすることもない。年寄りの行動でゴミ屋敷化を防ぐには、分別の必要なものを買わないことと思うようになった。世帯人数が少ないので増量されてもゴミとなり損失感がある。ウィンナ―ソ―セ―ジ-の二袋にする売り方は買いにくなった。余ると品質が落ち、賞味切れとなりゴミとなる。それでも惜しんで食べるから金銭の無駄感が出る。
 今の食事は電子レンジとコンビニカット野菜のミックスで十分生きて行ける。簡単な洗濯機で洗い、雨天続きではコインランドリーで100円で乾燥させる。待ち時間で本を読む。コンビニとコインランドリ-と図書館の隣なら部屋は寝るだけの基地となりそう。不況と節約旅行の果ては住まいを変える。
 色々な報道が権力国家の宣伝記事でゆがめた報道となるが人の予想を超える天災と気候と病気で外れる。メキシコの観光都市のハリケ-ン被害は酷く、政府の警告にも避難しなかった人の傷心状況を知る。日本では最近台風予報が正確なので事前対策が進むし、外れても非難する人は少ない。タダ梅雨時の線状降水被害の予知は難しく避難がシバシバ遅れ、動きの対応に遅れる高齢者が多い。

 時間が仕事という縛りが無い高齢の自分は人に評価される必要のないことに気が向く。今は認知症という言葉に良く反応する。多くの現役の仕事人が認知症という言葉で高齢者の貯蓄を法律をすき間をついて狙っていると感じる。
 マイナンバ-を持たなくとも、オ-ケ-ストアの会員になればいつかは情報が洩れる。同様に他の会員カ-ドを作れば個人情報が洩れる。転居して一年過ぎて、郵便局の転送が終わり宣伝葉書が激減した。それでも新住所で住所更新手続きをしない所から宣伝葉書が来た。どこから個人情報が漏れたのだろうか。次は固定電話の解約だがこれは難しい。全部携帯にすると一か所でも個人情報が洩れると携帯の解約が難しくなる。ある人の固定電話解約で一番費用の安い楽天で個人情報を保護するため、会員カ-ドを作るという。メインの携帯は解約できないからという。この様な情報に対応できない高齢者がまた合法及び非合法の組織で貯蓄が狙われる。
 歌舞伎の石川五右衛門の辞世のセリフで
浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ(はまのまさごはつきるともよにぬすびとのたねはつきまじ)
 日本で普及した電話による詐欺は今の中国でも流行っているようだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊洲市場はすでにev時代

2023年10月30日 | 築地市場にて
もう築地市場移転騒動が忘れ去られ、気まぐれな食のライタ―が場外市場しか書くことが無くなったようだ。今ビッグサイトで「モビリティショー」 の展示会があるがライタ―達はそのすぐそばの豊洲市場では電動自動車しか使えないことを知らないようだ。1800台を超えるタ-レーと電動フォ―クリフトが稼働している。そしてその充電には200ボルトのコンセントがあって、毎日とか一日おきに充電している。築地にいた時はコンセントが不足していて、ターレ-の保守をしている場内の自動車整備業者が充電器の付け替えを行っていたが今はほぼ全車が駐車位置の柱にコンセントがあって点けっぱなしで放置している。東京都の方針から都内の全市場のタ―レ-等電動化されていると思われる。ターレ-の価格は今現在の価格は知らないが豊洲移転直前には250万から300万円していて、東京都の補助金があって購入する。電動なので一番高いのが電池でうまく使えば10年以上は持つ。車検はないが東京都は点検記録が無いと、場内走行のスッテカ-の更新を認めない。
市場での電動化の問題は市場のセリ場が室内のため、排気ガス汚染の問題から始まる。2000年代の初めに汚染空気のひどさは中国の人民日報で揶揄されたこともある。その当時の築地市場の水産仲卸売場の空気の汚染具合はタ―レ-の排気ガスで環七大和町より汚染がひどかった。そこで東京都がガソリンタ―レ-の更新を認めず、電動タレ-に補助金を出して更新を計った。しかしバブル後の青果と水産市場経済の低迷で更新が進まなかった。しかしタ―レ-の製造メ-カ-が徐々に市場人の要求にこたえることの出来るタ―レ-が開発された。そこにはテレビで報道されることもあったようだ。市場祭りで子供が乗りたがっていることを知っている。違法だけど。
 電動タレ-の問題点
今のタ-レ-電池は鉛系で適切な管理をしないと水素爆発の可能性があった。今はどんな電池か知らないが。
 電池は使えば使うほど劣化し、充電しても距離が維持できない。従って中古というものの価値が無いに等しい。
 ガソリンフォ―クで驚いたのがバブル前に購入し、買い替えした時の下取り価格が最初に買った時の価格以上だった。その理由で知ったのだが日本のガソリン規格が新しくなって古いフォ-クリフトの方がかえって高く、日本製とガソリン規格が現地にあっているということで輸出に高価で取引されているという。日本の文字が車体に入っていると消さないで使っているのでミャンマ-で驚いた。
電動自動車の問題は歴史が浅く、廃車の環境問題の行方がまだ不明である。しかし充電器があればガソリンスタンドへ行く手間と時間が節約となる。音も静かで排気ガスも出ない。ターレ-の電源と電気自動車の電源のコンセントの規格は異なると思うが少なくとも豊洲には200ボルトの電気設備がある。それも数百台を超える。
 マンションの電源はどうなるのだろうか。機械式の駐車場の電源の位置が気になる。電気自動車は電池のために重い。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高輪の物流博物館へ

2023年10月29日 | 築地市場にて
高輪の物流博物館が展示物の交代で閉まっていて、10月27日から汐留の駅の変遷の展示に変わった。築地にいた時は新橋駅銀座口から汐留駅の外周を回り、浜離宮の交差点で築地市場へ向かった。バス便もあるのだがずっと歩いた。最低でも15分は電車を降りてもかかる。外周の万年塀に沿って広い歩道が今でもあるがそこを歩く人は三井造船の人と築地市場へ通う人だけと思われる。従って土日はほぼ人のいない歩道となる。そこに銀座の夜に出没する磯辺焼きの屋台が放置、もしくは違法で置いてあって張り紙が違法と示している。それほど人のいない歩道でも管理する港区は年度末に自転車通行帯の工事をしていた。この先は浜離宮で人も住んでいない。
 汐留の貨物駅には一度九州大牟田駅からの荷物をプラットフォ―ムに取りに行ったことがある。近所であっても広い所で探すのは大変である時に汐留で行方不明となって探しに行った。商品は白いダンボ-ルですぐに解かったが人の少ない所ではだめだなと思い荷主にお願いしトラック便に代えてもらった。スト権ストという国鉄時代のストライキがあった。後で打撃を受けたのは貨物輸送だろう。この時から小口の遠隔地の荷物は貨車便から高いけどトラック便となった。コンテナ便は北海道の新漬沢庵が一日で最高5コンテナほど来ていて、置き場がなく苦労した。今でもよくできたなと思う時がある。バブル前の時でもある。1コンテナでも狭いし大変だった。
 汐留駅に見る貨物鉄道と通運のあゆみという企画展は昔の記憶を復活させる。汐留駅からの築地市場への引き込み線の写真もあった。あの築地市場内の踏切は横断に難儀していて、今でもバスに乗って踏切を横切る時の揺れが築地を思い出す。
 築地市場の移転直前に場内を歩いていると水産部の所がアスファルトが欠けていて、昔の線路が見えていた。汐留駅は汐サイトというビル街になって、今は電通の不祥事とによって空洞化が目立つという。栄枯盛衰は世の習い。来年には築地市場の後の計画が始まる。あれほど騒いでいた築地市場場外市場が復活のようだ。食べ歩きが黙認という不思議な世界。日本では例外というのが不思議な形で生まれる。肉を公式食べ始めたのが150年程の歴史しかない。しかし非公式の肉食は病気治療という名目で許されていた。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二回目の映画の福田村事件の鑑賞

2023年10月28日 | 宅老のグチ
劇場の上映予定をチェックしていたら、近所の映画館が今月末で福田村事件の上映が終わる。すでに渋谷とか横浜では終わった気がする。これからは遠くなる。
二回目なので筋書きは解っているが前回で気が付かないことに注意がゆく。
香川からの被差別部落の行商人の商材の中に薬があって、富山の薬との差をセリフで言っていた。薬の中身にナタマメの言葉が出てきて、福神漬のナタマメの効能が不明で調べていたがやはり中国から江戸時代初めに日本に来ているので何かの効能があると思われていたようだ。
 二か月の映画興行でどのような結果になったが知らないが、自分自身は映画と現実とは来ていても本当の姿ではない。仮に人を言葉で表しても絵に出来る人は稀で、まして時間が経ってしまっているいると本筋と異なる情報が入っていて見ている人に雑念が入る。
 福田村事件の本当の前半は醤油工場の労働雇用関係の近代化を会社が進めようとしていた背景があって、そこに他の工場で労働運動を組織化して失敗した指導者が失敗の経験から争議を大きくした背景がある。また醤油会社はいかに労働者のためとはいえ、古くから続いている労働慣行の変更に不安があった。
 イギリスの産業革命で機械化が進み安価となった製糸業に排除された旧式製糸業の労働者が機械の破壊活動をした歴史がある。今のアメリカ自動車の労働争議の隠れたものはev自動車で部品等が減り安価となって、自分たちの仕事が無くなる不安がある。福田村は今は醤油の野田市となって不安は共通していると思われる。近所の鉄道工事で朝鮮人労働者は見かけていて、震災時には真偽の判らない不安があったと思われる。まして深川の被服廠の火事は野田でも確認できていたと思われる。3月10日の空襲は埼玉県春日部市でも見えていたという。江戸川と利根川は水運で結ばれ情報も行きかっていたと想像できる。ただ正しい情報を選択し伝える経験が少なく、誇大な情報を信じ、不安がそれを巨大化し、集団殺戮となった。これは8月15日のラジオ放送で戦争終結となったことに似ている。薄々負けそうだと思いつつ口に出せなく戦争継続と唱えていて、いざ放送があると愕然としていたのに似ている。
 信じていたものが間違いであったことが人生では良くあることで、人は恐れつつ、今まで起きなかったので無いと思い継続する。いざ事件が起こると狼狽するが実際は予期していても起きないと思って何もしない。
 中国の不動産バブル崩壊はすでに起きていて、次のバブルはev自動車だろう。劇的に中国で価格低下が在りそうだ。良いと思うと新規参入があるのが中国でそこから淘汰が始まる。このとばっちりが自動車の労働者だろう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

病院の待合室で明の最後の崇禎帝の本を読む

2023年10月27日 | 宅老のグチ
今中国で禁書となった明の崇禎帝の本を病院の待合室で読む。高校生の時世界史は受験科目として外していたので、ほとんど中国の歴史は知らない。それでも中国から来た本草の知識で少しずつ中国の歴史を知ったが、ほとんど無知に近い。王朝の交代は中国の歴史を知るには必要だが今の中国政府の検閲者はなぜ明の最後の皇帝本を禁書としたのだろうか。
 一読して崇禎帝は色々な小説家によって解釈が出来る人と思われる。今読んでいる本には部下の宦官に仕事を任せていて無責任だったという。今の習近平体制の政務と解釈は異なるのだろうか。台湾の小説家の本も予約した。今日のニュ-スでドル建ての碧桂園は(デフォルト)の通知となった。次々とバブルの泡が出て、ブクブクの穴が大きくなり、ちじみそうだがどこまで小さくなるか想像もつかない。日本のバブル処理で100兆円ほどと20年近くの歳月がかかったという。国の規模が10倍の中国は日本の十倍という試算があった。単位で兆の上はなんだったっけ。京(けい)というようだが北京と東京とバブルを経験している。ただ中国は日本のバブルを研究していたため、規模が大きくなりすぎた。

 明の末期は気温が今より低かったようで、農業不振という。今は地球温暖化と言って、海水蒸発が多く雨が局地的に降って水害が多発している。evの自動車が多い中国は水没車の損害保険制度は耐えられるのだろうか。崇禎帝の代に政府の高官が頻繁に交代し、明朝の中で最大数という。政策は高官が行っていたが不正が多く、失敗し財政が厳しくなって、増税向かう。そこで民が反抗する。それには軍備費用が必要でさらに増税。不運なことは豊臣秀吉の大陸侵攻の余波もあった。結局自滅と言っても良い。
 これでは習体制がタイトルで禁書にしたくなる前例が似ている。違うのは地球温暖化だろう。サンゴの海を埋め立て飛行場を作るが台風が次々とやってくる。それも塩分の多い暴風が・・これは海の万里の長城になりそうだ。

 ちょっと前までの中国の首相が急死した。明末期の様子にますます似てきた。






コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新宿住友3角ビル 33階の平和祈念展示資料館で

2023年10月26日 | 宅老のグチ
大江戸線都庁前駅のA6出口は住友ビルでそこの33階に平和祈念展示資料館がある。地下から入ると昇りのエレべ-タ-は全て駐車場行きで、1階に戻り守衛のような人に33階行きのエレべ-タ-を教えてもらった。どうやら32階までと分離されていて仕事でない人は33階行きに乘る。エレべ-タを降りるとビルの内側に三角の空間があって耐震設計ということを実感する。
 総務省の委託による平和祈念展示資料館があって、ある写真家が1945年5月の沖縄の飛行場へ強行着陸する特攻隊員を撮影した写真の展示があることを知った。九段下のビルの所と違って日常の仕事をしている所にこのような施設が同居していて、行ってみて驚いた。誰もいないかと思っていたら20人ほど高齢男性がいて熱心に展示物を見ていた。
 先の戦争で招集から始まる兵士の招集の仕組みが良くわかる。貧弱な服装は歴史の結果を知る身にはつらい部分もある。中国戦線で招集されてすぐに栄養失調となて病院で亡くなった親族もいる。生まれた時代が悪かった。
 満蒙開拓団から先に戦争での日本人海外移住について、その過程と戦後にどうなったか、さらに今はと説いている。ウクライナ戦争でウクライナの人がその意志と関係なくロシアに拉致されているという。本当に意思確認はあったのだろうか。独ソ戦争でロシア人民が亡くなり、埋め合わせで日本人が強制労働となった。どう評価するかはまだ時期が早いが今の様子では日本人は反ロシアの気風が強い。ロシアの方法は対日本人には間違っている接近方法と思える。まだ中国の方が身体が似ているので馴染んでいる気がする。

 帰りに大江戸線が国立競技場を通るので途中下車し、学徒出陣の碑を探した。国立競技場というだけで来たので、青山一丁目駅を目指し、さらに外苑の並木の色づき具合と思って歩くが、見当たらないし、競技場周辺の地図にもない。学徒出陣は平和のシンボルの場にはふさわしくないのだろうか。家に帰って調べると、新国立競技場が出来て、秩父宮ラグビ-場に一時移転していた碑が千駄ヶ谷門付近に移転している。タダ地図には載っていない。
 昔築地市場が狭く、年末の大量の商材は青果は神宮の球場スタンド下、お節は晴海の展示場の所で荷捌きしていたと記憶にある。間も無く年末の商材が具体的になる。豊洲へ移って広くなったので青果の方は使わなくなったと思うが水産は膨大なのでビックサイトを倉庫として使っているかもしれない。量が少なくなったのでなく量販店やコンビニは年中無休となって。年末に買いだめする必要が無くなり、さらに飲食店も営業しているので大量のおせちが少量となったことにある。風習は変化する。記憶は薄れる。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

親より長生きが一番の親孝行

2023年10月25日 | 宅老のグチ
叔父は23歳、父は46歳で亡くなった。母は101なのでこれを超すにはかなりの難関。特に男は100歳のデータで女姓の1割。こんなことを小雨の日に思っていて、独身女性の遺産の事を考えていた。妹は夫と死別しがんが再発し、自分で最後の計画をして、終末治療の施設で、入院後数日で亡くなった。最後はやはり未練があったようだがとても自分には出来ない最後だった。有明の癌研病院で抗がん剤治療の送迎をしていて、その時に二人で人生を話していた。しかしありきたりの話でがん再発後でも普通の抗がん剤が良かったので7~8年ももった。20回近い抗がん剤治療で普通はめったのないアナフラシーショックでがん治療を断念した。そこから死に向けての一年だった。女性の70代はまあ合格の生き方だと思う。これが60代以下だと楽しみもない人生だったとおもう。
 少し遺産があって放棄となった。戒名等の事もないし、夫の墓には個人名が彫られている。戒名アリの夫と無しの妻。従って年回忌は行わないことになるが多分母と一緒に祈るしかない。残念なのは101の母より前に亡くなったことで悔しかっただろう。しかし国と東京都からの100歳のお祝いは妹は確認した。これがガン治療の断念の理由かもしれない。希望が消えたのである。さすがに親より長生きの100歳はつらい。
 男も75を過ぎると他人の亡くなった報道で傷つく。特に自分と同世代か年下の時は思うがそれでも60過ぎれば仕方がないと思う。当事者は予期せぬことだが人は遅かれ早かれ亡くなる。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国立劇場の最終公演 観劇を断念 妹背山婦女庭訓

2023年10月24日 | 宅老のグチ
初代国立劇場さよなら特別公演で10日過ぎからチケットの売れ行きをチェックしていた。そろそろ決断しないといけないと予約状況を見ていると、3等席の所が最終日は売り切れで観劇を断念することにした。1・2等席は空いているが歌舞伎の知識の無さは1月にみた遠山桜天保日記で実感した。3等席は今25日は10席程残っているが他人をのけてまで見る気持ちはない。余っている1万円を超す席は想定せず。 
歌舞伎は目と耳の良い人の演劇でさらに江戸時代の風俗とか命の重さの感覚が無いと理解しにくい。今の日本は芝居の制約がない時代でそれを男が女性役をする不自然さが許容を外れる時期が来るかもしれない。同時に宝塚も時代遅れになるかもしれない。
妹背山婦女庭訓   (イモセヤマ オンナ テイキン)
近松 半二原作  橋本 治文  岡田 嘉夫絵
子供用の歌舞伎解説本は前回の文楽の菅原伝授手習鑑で予習の時役に立った。今回も図書館で借りて読んでいたが曽我入鹿の事件の知識も必要と日本史と江戸幕府の統制逃れて劇の筋を作る。今の中国の劇作家は規制の枠を超える作品を作って世界に残せることが出来るのだろうか。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦後の精密時計工業は春日部市の南桜井駅前工場から始まった

2023年10月23日 | 宅老のグチ
賀川豊彦と農村時計という本を読むために東京から埼玉県越谷市立図書館へ行った。22日は丁度越谷市民祭りで東武線越谷駅から日本橋から数えて3番目の日光街道および奥州街道の宿場町 でイベントがあった。

 郷土史の本は国会図書館にもなく,各県の横断検索で調べることが出来る。そこで賀川豊彦記念館で読んだ本が、埼玉県ではどこに所蔵しているか検索すると少し出て来るが、地元言える春日部市にはあまり出てこない。探している本が出版された1991年頃は春日部市と庄和町の統合以前の事なのだろうか。調べると平成17年・2005年に春日部市と庄和町が合併した。探している本は埼玉県立庄和高等学校の部活の本で行政から見ると所蔵する価値が薄いと思われていた気がする。横断検索で杉戸町とか越谷市が出てきた。そこで東京に近い越谷市の図書館へ行く。杉戸町の図書館へも一度行ってみたい。ここには想像だが庄和高校の人が寄贈して残ったと思う。千葉県関宿の城を見に行こうと予定し、公共交通機関では東武野田線の川間駅と東武動物公園駅からバスが出ていたが、千葉の川間駅の方はバス便が消え、いまでは東武動物公園駅で発着するバスしか関宿城に行けない。それも昼間の本数は少ない。杉戸図書館の最寄り駅は東武動物公園駅である。調べると駅名が変わるまで杉戸駅だった。杉戸から東武線を使わないで庄和高校に自転車で通うことの出来る距離だろう。ちなみに庄和高校の所から200mも離れていない春日部市庄和図書館には1冊もない。何か地元の混乱で置きたくない本と邪念する。禁書なのだろうか。それとも高校の図書室で読めるというのか。

 越谷市で庄和高校地理歴史研究部の本を出してもらった。
賀川豊彦と農村時計
この本は賀川豊彦記念館に無い本だった。地暦部の本では南桜井の精工舎南桜井工場が敗戦後にすぐに全員が解雇となり、東京で再建が始まった精工舎へ機械と共に戻った人もあれば、東京では食料不足で南桜井で生活し、東京で仕事をする。引揚者、精工舎の宿舎が無事だったので多くの人が南桜井に来て、戦争前の時は9000人の人口が精工舎工場によって5000人ほどの住民があっという間に増えた。南桜井では賀川の指導で時計技術者の養成学校も作られ、卒業生は時計制作技術を伝えたが、多くは失敗したが伊那と諏訪に戻った人から龍水時計が生まれ、岡谷工業高校に技術が伝わり、諏訪の工業の基礎を造ったという。これが賀川の農村が農業と共にできるスイスの時計工業を理想としていたことから来ている。
 賀川のまいた理想が南桜井から始まり、多くの失敗の記憶から地元で忘れられた。精工舎の南桜井工場では3000人ほど働いていたが、農村時計が倒産した時は80名を除いて退職となった。まだ東京は朝鮮戦争が始まった時で仕事探しが厳しい時代だった。後継のリズム時計は景気の良かった農村部の協力で生き延びた。
 庄和町の江戸時代宝暦の頃から住んでいた農業の父の親族は財政の豊かな庄和町が厳しい財政の春日部市と統合は失敗と言っていたがリズム時計の本社が庄和町から去った今では統合はやむを得なかったと思われる。野田が醤油の町なら庄和町は時計の町だった。それも昭和19年から始まった時計工場の街の歴史は浅いので伝える人は少ない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福田村事件の本を返して

2023年10月22日 | 宅老のグチ
図書館で借りていた福田村事件の本を返した。返す前に延長の所に42人待ちとなっていた。半年もすれば即に借りることが出来ると思っている。映画館も渋谷のユ―ロスぺ-スも終わったようだ。もう一度見る予定は最初の舞台挨拶があったテアトル新宿で見ることに決めた。その前に流山へ行ってみたい。著者の辻野弥生さんは 始まりは流山の異邦人から来るという。
 福田村事件の映画のチラシで千葉県福田村(現野田市)とあって、気になって映画を観ることになり、さらに野田市の市史がまだ刊行されていないことに都立中央図書館で知った。全国の地域史は都立中央図書館4階で見ることが出来て調べることも出来る。戦後の昭和の40年代に大方の地域史が刊行されている。地域によっては統合もあって平成の時代に戦後史も出している所もある。先の戦争で亡くなった叔父の生まれ育った春日部市は平成の時に戦後の部分の地域史が発行されている。春日部市と野田市はほぼ人口が15万人ほどで春日部市が市史があって野田市は市史の近現代史の資料編があるだけで、本体の市史が見当たらない。東京都の図書館では野田市の地域史の所にキッコ-マンの百年史が置かれている。
 調べてみないと普通が普通でないことを福田村事件の本を読んでいて知った。これでは小学校で地域の歴史の根拠となる本が野田市には無いということになる。行政が福田村事件と戦前の日本での最大で最長期間のストライキがあったキッコ-マンの労働争議がマダ記述できない状況と思える。両論併記しかないとおもう。
 どこかで決着をつけないと東京からの電車計画が来ない気がする。11月にはア―バンパ-クラインの野田市駅前広場とバス停整備が完成する。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京王上北沢の賀川豊彦記念松沢資料館へ

2023年10月21日 | 宅老のグチ
いつの間に東武野田線という醤油のための線路がア―バンパークラインと名前をん変え、普通の通勤電車の様に思えるが実際乘ると今から70年前の記憶がよみがえる。それは春日部駅から野田市駅までの区間が単線があって駅ですれ違うので各駅で待たされる。そんな路線で単線の路線で南桜井駅が駅前で後発ともいえる所に大きなヤオコ-というス-パ-がある。ここは今は東証プライムの会社となったリズム時計の発祥地であった。そのリズム時計の前身の農村時計と叔父との関係を調べる必要性を感じていた。
 叔父は昭和20年5月に戦死していて、農村時計は戦後の発足と知っていたので調べる必要はないと思っていた。親族の聞き取りで叔父の航跡調査で戦後にGHQにマークされ漬物の仕事を廃業したという。GHQといえは講和条約までの日本占領の事を意味していた。それが墨田区に住んでいた叔父とどのような関係か想像すると戦後の食料不足時代しか思い浮かばない。戦後は東京は極端な食料不足で戦時中の防火のための強制的に空き地となったところに闇市が出来た。そこでは配給の余ったもの、隠匿物、旧軍隊の横流し、米軍からの流出等が売られていた。ある程度落ち着くと東京の隣接地からリュックを背負って買い出しもあった。その当時の小説や映画を観ると法を犯さないと栄養失調になり、病気となり死んでしまう状況だった。それでも平和ということで朝鮮半島で戦争が始まると日本は落ち着き、昭和30年には戦前の経済を越したと言われる。その戦後のカオスの時代にリズム時計の元となった農村時計の史料はあまりない。農村時計の歴史は令和の時代に春日部市史近現代庄和地区編に詳しく書いてあるが農村時計と賀川豊彦との関係がはっきり理解できなかった。
 賀川豊彦は知っている人は少なくなった。戦前の数少ないアメリカを知っている人でなぜか軍によって投獄されていない。賀川が戦後に時計の精工舎の空いた工場に農業と軽工業を組み合わせるスイスのような時計工場の企画を出し農村時計が発足した。やる気と精工舎が残した機械で発足したが営業力もなく苦戦し、それでも4年ほどは維持できた。最後はGHQの残された機械の没収、資金援助者だった全国農業協同組合の支援停止など様々な困難で経営者を含め労働者もリストラし、倒産しリズム時計となった。従ってリズム時計の社史では農村時計の存在期間が加わっているので水増し社歴となる。この悲惨な農村時計の土地は精工舎の土地で、東京で戦災に会い、墨田区大平にあった工場が一部移転した工場で敷地の半分も使用していないので赤羽の軍の砲を作る工場が敗戦間際に移転してきて、米軍に軍の工場の存在が判らず、空襲にも合わず、工場と宿舎と病院が残っていた。この軍の施設が埼玉の米軍の施設となって、昭和20年秋に進駐してきた。
 このあたりの記録が埼玉県文書にもあるはずだがまだ見つけられない。ただ埼玉県立庄和高校の地理歴史研究部の南桜井村戦後史に記載されている。何しろ高校生の部活の聞き書きということで春日部市史には参考扱いとなっている。
 そこで賀川豊彦記念松沢資料館へ行って資料が無いか聞くと少しあるということで訪問した。そこには南桜井村戦後史の続編という本があった。同じく高校生の部活の本で終戦間際の精工舎の工場の様子が書かれている.

むかし庄和町に軍事工場があった. [庄和高等学校地理歴史研究部編]. (庄和高校地理歴史部年報, 第6号 . ある時計工場の歴史


 東京の大空襲が昭和20年3月10日と知っていたが何曜日ということは気にしていなかった。土曜日だった。東京から疎開と言って埼玉で住んでいた女子工員が金曜日の終業後に東武線で家族が住んでいる東京へ向かった。このことを証言した人は曳舟付近に実家があって、10日の空襲の戦火は逃れたが大平の精工舎工場付近に住んでいて戻った同僚の女子工員は全員亡くなったという。今の東武線曳舟駅には亀戸駅と結ぶ路線があった。それゆえ戻りたかったのだろう。自分はこの時読んでいて涙が出た。
 戦争が終わり、精工舎は埼玉をすぐ閉鎖し、東京で時計を造り始めた。関東大震災の経験から復活は早かった。目覚まし時計は農村時計に残された。これが精工舎のやり方だった。後にリズム時計がシチズン時計と提携した時、飼い犬に手をかまれたという話があるが真相は判らない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東海道かわさき宿交流館で

2023年10月20日 | 宅老のグチ
浦賀ドックの跡地のイベントで西浦賀の塩問屋と中島三郎助・千葉行徳の喜兵衛との関係を調べなおした。すると今まで気が付かなかったのだが最近の近世日本水運史ではペリ―来航時の水運は樽廻船が主流でなく内海船という。この内海というのは今の愛知県知多半島の海運という。
 ずいぶん昔に伊豆下田に行った時、唐人お吉の出身地が知多半島ということでどんな理由かという疑念が記憶に残っていた。お吉は船で下田に来たのだろう。内海船と北前船はほぼ江戸末期の同時期に日本海運網の主力だった。ただ愛知県では観光産業の努力が足りなく、無名で内海船の記念館は閉鎖されてしまった。愛知県南知多町では週末に尾州廻船内海船船主 内田家をボランティアの案内で見ることが出来るという。
 この尾州廻船は昔タクワン漬を調べていて、埼玉県の新河岸川水運で尾州糠という記録があって、ワザワザ愛知県から米ぬかを川越まで運んでいたことに驚いた。尾州の米ぬかは粕酢の製造の時に出来る米ぬかだった。内海船は寄港地で売ったり買ったりしていて、どうも記録に出てこない。嘉永の頃は神奈川湊ではしけに積み替え商いをしていたようだ。そこで神奈川宿付近を調べたいと思っていたが、すでに150年の歴史から地形が変わってしまって神奈川湊は今の横浜中央卸売市場付近だった。そこで京急生麦から神奈川湊を歩く計画をしている。調べていると神奈川の名前の由来が川の上流がどこからかはっきりと判らない川ということから来ているという。とても信じられない。
 上が無い川  上ない川 神ない川と変化し漢字に変換し、神奈川となったという。もう一つ東京に歩いて戻る時、六郷橋の所に標識があって長十郎梨のふるさとあった。確かに川崎の上流はナシの産地だが川崎宿付近が発見地とは知らなかった。地元の雑歴史は信じられないものが多く、そこから新しい説得力のある説が生まれる。TVの雑歴史ものの逃げで諸説あります?となる。東海道かわさき宿交流館で川崎宿400年のイベントがあって、そこを訪問した時、次の宿の繋ぎが見えず、気になって訪問したのだが聞くと隣接の鶴見には宿場が無いという。鶴見には総持寺という大寺院があるが日本郵船を調べている時、浅田正文という重役の逸話から明治の創建と知っていたので、川崎の次は神奈川となり港町という。神奈川宿から町田に抜ける道があって絹の道でそれから鉄道が出来たという。これがJR横浜線・八高線の元になる。従って先にシルクのみちがあった。
 
 青森のス-パ- さとちょうが今月廃業というニュ-スで始まりが明治30年の創業で漬物から始まったという。普通江戸・明治の漬物は自家製が多く、業として成り立つ納品先が無いと続かない。考えられるのは軍隊納品かもしれない。日露戦争前の八甲田山遭難を記憶する。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野次馬の落馬かな  違憲判決成らず

2023年10月19日 | 宅老のグチ
都営浅草線東銀座で降りて地下道を有楽町へ向かうが銀座線に行く手を阻まれ、上に出ると三越銀座店脇に出る。そこから銀座松屋の裏に回るが昔目立っていた自転車の駐輪が見当たらない。すぐ撤去の様に感じる。マロニエ通りを有楽町に向かうとGUの文字が見えて、ここがユニクロのビルでさらに進むとオ-ケ-ストアの入り口に出るが自転車置き場はなさそうだ。今日の野次馬コ-スを変更したので、オ-ケ-ストアでは通過のみとし、三田線の日比谷駅から九段下へ向かう。九段下駅から千鳥ヶ淵を国立劇場に向かうコ-スを急遽変えて秋の大祭をしている靖国神社へ13円奉納。つり銭処理。最近は1と5円玉は全て参拝料。本当の祈念料は重円。その後歩いて千鳥ケ淵戦没者墓苑へ向かうがなぜか入り口が閉鎖されていて、表口に回ると臨時閉鎖で15時までという。仕方なくイギリス大使館の後ろの道から国立劇場へ向かう。どこかで時間つぶしとトイレをと考え国立劇場の演芸資料館で昔の芝居映画で1時間休憩。 
 1時45分に国立劇場から皇居の方にあるバス停で時刻確認するが1時間ほど来ないので20分くらいの感覚の国会図書館.国会議事堂バス停と帰りを決める。すでに1万歩を超えていて疲れていた。
 三宅坂の交差点に至る歩道で最高裁判所の正門を見ると、いつもは静かな風景が報道機関の脚立と人が20人ほどと警備の人。さらに三宅坂の銅像のあるところに、何らかの団体が30人ほど集まっていた。後で動画を見ていたら定数訴訟の団体のようだった。おかしいのはキャラクタ-のぬいぐるみがあった。そこから最高裁判所の南口の傍聴人の集合場所に向かうが警察官がいるのに駐車している車があって、見るとNHKだった。さすがに裁判所の正門前には停められないな。 
 南口に着いたのは2時少し前、傍聴人の締め切りは2時10分なので数えると20人位。裁判所の女性職員が列の最後の看板を出していた。先ほどの30人と報道関係が合流すれば満員となりそう。どうも野次馬が少なく芸能人の裁判とは違う風景。
 予定通り見るだけで帰りの交通機関で3時15分にメールが来て、合憲という。待っていて運よくは入れてもなぜか虚しい。それは明治の自由民権運動から来ている国会開設で多くの人が亡くなったことを知っているし、投票率の低下も酷い。今日の新聞で参議院の合区となった県の投票率が変わらないところに比べて減っているという。
 国会図書館のバス停で人が歩道のごみを拾っている様に見えていて、奇特な人と様子を見ていたら色付いた銀杏の木の下の銀杏を拾っていた。この道は子供のいない人しか歩いていない。住んでいる人もいない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

銀座一丁目へやじ馬の出馬

2023年10月17日 | 宅老のグチ
10月18日午後3時開廷、三宅坂の最高裁判所で令和4年7月の参議院議員選挙の定数の件で判決がある。国立劇場で文楽を観に行くとき、裁判所の出入り口で人が十数人集まっていて、係の人が人数確認をしているように見えた。家に帰って調べると傍聴人の様で先着順のように見えた。18日の判決は多人数の傍聴人が予想されていて集合時に抽選となるようだ。この様子を見てみたいと思う。その後に銀座一丁目のオ-ケ-ストアの混み具合と自転車置き場と数があるかどうか確認したい。
 JR有楽町駅付近は江戸時代の南町奉行のあったところで、奉行が出かける時は馬に乗っているTVドラマがあった。年寄りの散歩は惰性より野次馬性があったほうが日々の記憶の継続となる。フィットネスクラブの室内運動は刑務所内の運動のように思える。
 都営浅草線三田駅付近にある港区立産業振興センター 札ノ辻スクエアーと言う所の4階に港区立三田図書館があって、区の中央図書館のような施設でキレイで、そこで時計の精工舎の社史のような本を読みに行った。銀座でセイコ―ミュ-ジアムで社史は無いことを確認してあって、精工舎史話. 平野光雄 著. という会社公認の本で終戦までの社史となる。
 この三田図書館の下の2階にオ-ケ-ストア札ノ辻店があって、不思議な位置と思っていて、一度見てみたいと思っていてチラッと見ると普通のオ-ケ-ストアだが狭い。駐車場は見えないし、自転車置き場も少ない。(隠れたところにある駐車場がある)店は狭く感じて何かイオン系のまいばすけっとという感じもある。この中途半端感が銀座でどうなるか気になる。
 街は変化する。品ぞろえも変化する。最近のすし屋の話題で値段の特上、上、中、並とあると日本人は中を注文する人が多いが、円安の今の外国人観光客は特上や上を求めるという。旅の日本食経験だからだろう。もし並を求めるならばス-パ-の寿司盛り合わせかコンビニ寿司を選ぶだろう。オ-ケ-ストアにも寿司はあるがイマイチ魚介類は品揃えは弱そう。他社と比較できないのが弱点か。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二つの東武線浅草駅

2023年10月17日 | 築地市場にて
昭和6年の東京朝日新聞を読んでいた時、日本橋魚河岸の不動産的権利の板舟権で東京市会議員の汚職問題があって、逮捕され、同時期に東武鉄道浅草駅の隅田川越えの問題でも市会議員が逮捕され、市会の定足数が不足となり、市議会が解散となった。日本橋から築地の地に移る時に、色々な問題が発生し、普通には関東大震災で築地に移転したと言われているが関東大震災は大正12年9月1日で日本橋魚河岸が築地に移転したのが昭和10年2月11日で12年ほど間がある。この間の中に市会を解散させた事件があった。同時期の東武鉄道の浅草駅乗り入れ事件もあって、何故昭和6年に今の浅草駅乗り入れなのか不思議であった。
 東武線東向島駅の高架の下に東武鉄道博物館があって、はじめて路線の拡大変化を理解した。最初は今の東武スカイツリ―駅が浅草駅と称していて、昭和に入って隅田川を乗り越え今の位置に浅草駅と改名し、それまでの駅は吾妻橋駅となったようだ。東武伊勢崎線の明治大正の人の浅草駅は今のスカイツリ―駅の位置となる。
 野田市の野田中央小学校の教育資料館という施設が年に何回か土曜日に公開されていて、予約しないで入れそうで天気の良い日に向かった。そこに明治の後半時期に小学校の修学旅行の行程と金銭消費の様子が解かる展示物があった。野田の小学校から東武線越ケ谷駅まで歩き、そこから吾妻橋まで列車に乗り、上野公園で遊び、神田三崎町で宿泊し、靖国遊就館 を見学し、両国橋付近の所から汽船に乘って、小名木川を通り、東京湾に入り、江戸川をさかのぼり2泊三日の野田市の河岸までの修学旅行だった(一泊は船中泊)。やはり汽車と外輪船の船の体験は文明開化の経験だろう。当時の野田のあたりの小学生で終わっていて、そこから口減らしの仕事となる。
 今の小学生の体力で野田から越ケ谷まで歩いたとは思えない。途中の江戸川越えは多分橋が無かった時代で船と思われる。
 これで日本橋から築地に移転した時の混乱の詳細が知れた。豊洲移転では一年延びたし、大義名分となったオリンピック開催もコロナで無観客で汚職もあって協賛企業の悲鳴が聞けそう。大阪の2回目の万博も物価高と観光迷惑で盛り下げるように向かっている気がする。そしてホテルの高額部屋の稼働率と従業員不足から量販志向の企業の業績が見劣りするという。高額にIPHONE15の売れ行きは想定以上の様で、スマホも見せびらかしの道具の仲間入りとなった。ブランドバッグを下げている人がアンドロイドの中華スマホではバランスが取れない。2個持ちのスマホはアップルは手持ちで中華はバックの中か。
 都営の浅草線で電車待ちの時、ふとこのように思っていた。それにしても東武線はカタカナが好きになって変換に苦労する。アーバンパ-クラインが野田線だったことを忘れる。まだ単線区間があることを普通の都民は知らない。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする