年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

2003年 中国でSARSというコロナウィルスが流行した時

2020年01月31日 | 築地市場にて

今流行っているコロナウィルスによる肺炎騒動が2003年の春先にあったことを思い出す。かなり記憶が薄れたが豊洲移転時に余った大量の食品製造時に使う、使い捨てマスクが残っていた。中国に漬物原料の打ち合わせで出張していた人は帰国後、安全確認ができるまで出社しないで済ました記憶もある。
築地ではどちらかというとノロウィルスとか鳥インフルエンザの方が気になる。SARSの時韓国の人たちがキムチで防ぐ効果があったというが日本人は信じていなく、売り上げ貢献は無かった。
 そろそろSARSが広まった時のように梅干しとキムチが売れるのだろうか。目からの感染もあるというので食品では今回は無理かも。
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東京府下農事要覧 明治14年出版の刀豆栽培方法

2020年01月30日 | 福神漬
東京府下農事要覧 明治14年出版
 明治初めの欧米先進国からの文化の移入は文明開化と言われ各方面に影響をもたらした。しかし農業に関しては比較的早く西欧の農業方法が日本に効果が上がらないことが露呈してきた。東京の西洋式農業実験所で失敗が目立ち、旧来の日本農業の見直しが明治10年の西南戦争中から始まった。
 明治10年上野公園内で開催された第1回内国博覧会に出品した農産物関係の多くは欧米農業の推進の失敗から見直された。農産物の出品解説でわが国の固有の栽培方法の利点を示そうとした。この時農産物のうち穀類野菜類は在来の農業技術を網羅して欧米的農法に対する特色を出そうとしていた。
南葛飾郡上木下村(現在の墨田区押上付近-東京スカイツリーのある所)
〇刀豆
蒔き付け並びに採取
春土用の五日前に本畑に蒔き付け夏土用入り後十日目頃採取する。
2020年の春の土用は4月16日から5月4日までです。夏土用は7月19日から8月6日までです。
培養並びに施肥
本畑に柄鍬(えぐわ)をもって耕し作鍬をもって均し、畦を三尺に切り、畝を一尺三寸にして一粒づつ蒔きその種の上にもみ殻を少し盛り置き、凡そ日数は二十日ばかり経て生ず。その時人糞を施し又十五六日ばかり経て鍬を入れたのち又水肥を施し根際に土を左右より寄せ竹を菱型に立て倒れないように四本ごとに地際より五尺ばかりの所に縄にて縛り又人糞を施し鍬を入れ草を取り去る。三回にして成熟し種を取るには十月ころ熟したるをもって刈り取り、百日ばかり乾かし実と鞘を分け塵芥を取り去りカマスに入れて貯蔵する。

 明治の老農という人達が西洋の農業・農学の良いところを取り入れたのはかなり時間がかかった。
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2006年9月以降の築地市場移転会議4

2020年01月29日 | 築地市場にて
豊洲市場の水産部と青果部の施設の最大の違いは卸・仲卸売り場の床の高さである。多くの海外の生鮮食品の所は衛生管理のため、外気と遮断する構造となっている。そこで市場外からトラックで搬送された青果物は一度少し高いプラットフォ-ムに降ろされ、別のフォ-クリフトでセリ場へ輸送する。築地の青果部ではトラック運転手が一人で荷物を降ろしてセリ場まで運んでいた。渋滞やフォ-クリフトの不足で築地では連休前は混乱していて、事故も多かった。労働災害が多発していた。
 リオに負けたことによって時間ができた築地市場青果部の業者側の主張は卸売り場の床の高さの問題を東京都と折衝していた。衛生管理を重視する都と実利を求める青果部関係者との会議・議論が水産部の進み具合をにらんで進んだ。この辺りの詳細な経緯はいずれ公文書が公開されればはっきりする。各事務所のトイレは温水便座・障碍者対応のエレベ-タ-・セリ場へ観光客の侵入を防ぐ・IT化の促進・OAのための床下配線が楽な事務所などがどんどん共通の設備が決まっていった。(築地では戦前の建物でエレベ-タ-やエアコンは自主整備だった。)
 水産の冷蔵冷凍トラックは最後部のドアが開くタイプが主流で青果のトラックはパレット積輸送が楽な横のドアが上にあがるウイング車が主流である。そのため青果部の床が道路面と段差がないことを要求していた。東京都の衛生管理者は畑の細菌等が市場内に入ることを懸念していたが青果に関して床を上げただけでは衛生管理が進まないと強調し床が道路と平らとなり駐車場の上に屋根がついて小規模青果買参人の便宜を図らって決着した。ところが水産部は移転反対の仲卸が会議の主役となっていたため、設備に関する会議の意見集約が進まず、取引の実情を知らない設計となって、いざ豊洲開業となると不満・不具合が多発した。豊洲移転反対なのでなぜ豊洲の施設設備のことを議論する必要があるのかという主張だった。
 豊洲移転時のクレ-ム多発は水産部の準備不足だった。混雑が減り、広い豊洲を高速で走行する電動タ-レは危険な乗り物となった。そろそろ走行時ヘルメット着用を労働基準監督署から勧告されるかもしれない。昔はバイクはヘルメット着用義務は無かった。
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2006年9月以降の築地市場移転会議3

2020年01月28日 | 宅老のグチ
2006年9月以降の築地市場移転会議はオリンピック開催地がリオに決まると移転会議の真剣度と開催頻度が依然のようにのんびりとなった。とにかく水産部仲卸の意見統一は容易にまとまらないと感じていた。有力な水産仲卸は移転してもしなくともびくともしないので消極的態度だったと感じていた。また弱小の水産仲卸が移転費用が多大で将来の見込み出ないので移転には消極だった。道路のように移転の補償金が出ると考えている人もあったようだが新市場に動くだけで融資と補助金があるだけで東京都の方針が知れ渡るとさらに移転反対の運動が強くなった。神田にあった青果市場が大田に移転した前例が基本となっていた。
 2013年9月に東京で2020年オリンピック開催が決まるまでゆったりとした築地移転会議が進んでいた。この間に水産仲卸の幹部が移転推進派から懐疑派が多数となり、青果部も水産部の動きをにらんでゆっくりと進んだ。
 今から思うとオリンピック開催は3兆円以上かかると思うがこれが無ければ今でも築地に残り、老朽化し時代の流れから取り残され遺跡になっただろう。SNSなどの動画で不衛生の状況が露見すればと思うとぞっとする。
 今中国の大都市武漢から新型のインフルエンザが制御できない状況となったが築地だって病気の原因地となることもありうる。東京都が中国のように衛生情報制御してもいつかは漏れる。そのような時代となった。人の移動が安価となり、情報の洩れも早くなった。ただ築地だけが光回線の普及が遅く、時代に取り残されていった。その原因は水産部仲卸の4年に一度の全店舗くじ引き店舗移動という制度からもたらされたと思う。扇型の水産仲卸店舗は盛業時のバブル期は1300ほどあって、狭い店舗は電力不足もあってパソコンが置けず、手書き伝票が優先だった。さらに東京都の条例で荷受けのセリ値の改ざんを防ぐため、手書き伝票となっていて、書き損じとか訂正は東京都に提出することとなっていた。膨大な書類が毎日たまっていた。一番先進的な事例は大田花卉市場だった。そこから荷受けの改革が始まり今に至る。マグロのセリ風景は数少ない昔ながらの市場となる。今はセリをする商材が減り、ほぼ全量に近いものがセリ前に搬出される。
 豊洲のマグロのせり方法の画像でも今でも直接パソコンへデ-タを入れていないようだ。これは水産部の移転混乱の名残かもしれない。ふた昔前は株式の取引は手セリだった。
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2006年9月以降の築地市場移転会議2

2020年01月27日 | 築地市場にて
2016オリンピック招致で日本が東京となっても、築地の移転会議の質・回数・真剣さは増したが、水産仲卸の人たちの会議の状況が漏れ聞く限り、青果部より進行状況が遅れていると感じていた。記憶は定かでないが新市場内物流・衛生(ごみ処理)・電話を中心とした通信設備(ほぼNTT)の会議があった。築地を制する仕組みは全国の農林水産系の設備の前例となるので業者の意気込みは真剣である。大田市場の移転時にはWIN95以前でほとんどの青果業者はIBM系のコンピュ-タで支配されていた。政府とデ-タのやり取りしないといけないということと補助金の問題から生じる。農水系はやはり農林水産省の影響が大きく、産地毎(都道府県)金額(消費税は含まない)重量のデ-タのやり取りでそれぞれのコ-ドは全国共通になっているが廃れたものとか新規の商材とかのコ-ドはどう割り当てられているかわからない。こと漬物のコ-ドは少なく、実際は自社コ-ドとJANコ-ドとなる。さらに流通コ-ド(BMS)というものがあって大手量販対応は3種に対応しないと混乱する。
 そのような築地だけの問題から日本全体の青果物の在り方の議論が築地移転会議で展開していた。まるで国会のより真剣な会議であった。議事を記録する速記者もいて、議論から離れそうな問題になると会議主催者の東京都の職員が議事進行を止めることも度々あった。午後2時ころから4時ころまでの会議で前回の議事録確認から始まり当日の会議の総論が始まり、卸業者・仲卸業者代表・買参人から意見を聞く。それぞれの意見を聞いたのち、東京都の職員から疑問点を3者に質問が出る。どの人たちも築地のプライドがあって(江戸時代よりの日本代表という)国会のような議論のための討論とはなっていなかった。
 築地の人たちは日本の農水産業を背負っている意識がいつも感じていて、他の市場とは少し異なる。天下の築地本場と心の中で思っている。
 会議で出された疑問点をそれぞれの部門が持ち帰り、次回の会議に回答することとなる。同じ市場に働きながら、やはり将来をどのように考えているかが異なっていたと感じていた。従って水産部の混乱を横目に見て会議の進展がオリンピック招致の問題が派生するまでゆっくりだった。商売の優先ということだ。
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2006年9月以降の築地市場移転会議

2020年01月26日 | 築地市場にて
築地市場内のプレハブ建物の会議室で青果部の移転検討会の会議が月一回程度で開かれ、傍聴人として参加していた。その時の議事録が東京都の公文書館にあると思うがこの公文書館も芝浦から世田谷玉川の学校の跡地に移転し、さらに水害の恐れもあって間もなく西国分寺の都立多摩図書館の隣に移転するので今は検索できない。
 築地市場が老朽化し再整備が建設途上で中断した(記憶が定かでないが青島知事以前)。築地市場の人たちは築地での再建は総論賛成だがいざ工事が始まると東京都の職員に難癖付け、再建工事が止まってしまった。駐車場などの全体の利益につながる工事は速やかに進むが水産仲卸店舗の移動に伴う工事が始まると止まったようだ。この辺の状況はまとまりのない水産部の話で青果部は大田市場が混雑がなく、低温管理していて、大きな得意先が築地から大田に移動するのをただ見ているだけだった。
 そんな時、2016年のオリンピック招致で東京が日本としての開催地と決定した。当時の日本経済新聞報道では冷ややかで、全国紙3紙は好意的に記事を書いていた。ライバルはアメリカの都市と書いてあった。結果はブラジルのリオとなった。東京オリンピックということで移転準備会議の内容の質・回数・真剣さが増したと感じた。2016招致計画では築地の移転が無ければ道路混雑が解消できない案だった。
 当時の東京都の市場担当の職員を見ていると、ほぼ2から3年ほどで交代していた。市場担当の東京都職員が業者との癒着を恐れ移動する(条例に反する軽微な違反)。市場で働く人は勤務先の移動が簡単で、都の職員の行政指導も効かない法制度無視の雰囲気が蔓延していた。もちろん上層部は農林水産省などの指導があるので市場の法制度に従っているが、現実から離れている法律で仕事はできないと自主的に行動している。
 それが事故が起きた時、いかに法を無視していたかが露見する。市場内を爆走するガソリンタ-レ-は築地市場内にガソリンスタンドがないため、違法だがポリタンクにガソリンを少量備蓄していた。ある時休市前の夜に火事が発生し、消火中に爆発があって、消火が中断した。備蓄ガソリンが引火したと思われる。この後監視されガソリン備蓄縮小のためか築地市場の火事は小規模となった。でも火事は続いた。タバコ・水槽を温める装置の空焚き、ネズミによる漏電・コンセントにたまったほこりによる漏電などであった。ガソリンタ-レ-が減った原因は東京都の電動タ-レ-補助金で新規のガソリンタ-レ-が禁止されたことになる。初期はパワ-がなく交代が進まなくなったが電気代が安いので補助金が出るたび交代が進んだ。築地がら豊洲へ移転した時、すべてのタ-レ-とフォークリフトが電動となった。そのため豊洲市場の建設工事が盛んなとき、ガンセンタ-前の2件あったガソリンスタンドのうち一件が廃業した。このスタンドはタ-レ-用のガソリンスタンドで今は更地となった。
 中央卸売市場法が時代遅れということを感じる。制度自体も消えるかもしれない。ただ毎日同じ食物を食べるということはドックフ-ドのようなものだ。文句の言えない動物と人間は違うのだ。日々変わる刺激が市場の魅力かもしれない。ここは老人力が生かされる数少ないところかもしれない。

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墨田ひきふね図書館でナタマメを調べる

2020年01月25日 | 福神漬
雨天続きでひきふね図書館へ行けなかった。ここは墨田区では新しい図書館で緑図書館より郷土資料は多い。
スカイツリ-のあったところは明治の初めの東京府の物産調査で唯一刀豆が産物として記録に残る。江戸東京博物館1999年3月刊行 (東京府志料)に見る明治初期の物産一覧
なたまめ 上木下川村(121ぺ-ジ)
今の押上1-3丁目、墨田4丁目、京島1-3丁目、文化1-6丁目、東墨田1-3丁目にあたる。
ナタマメ 30荷 9円
このひきふね図書館は京島地域にあるので明治の初めはナタ豆の産地ということになる。他の江東方面の区域で普通に栽培されていた刀豆は明治の物産調査で記録された地区しか区史には出てこない。
戦後に発行された江東の区史では明治の産物調査を引用しているようで刀豆の文献はほとんどない。
 農家の自家使用の本草と考えた方が良いのではないのだろうか。そうすると薬効が気になる。あるいは花の部分なのだろうか。
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2006年8月30日福岡オリンピック招致失敗

2020年01月24日 | 築地市場にて
2006年8月31日の新聞記事を都立中央図書館で集中的に読む。今は忘れ去られたが築地市場関係者は気にしながら結果待ちだった。石原知事が当選してから、築地市場の再建工事が止まっている状況見て、築地での再建を諦め。他の地域に移転することを表明した。その中で2005年にだれが言いだしたかは不明だが2016年東京オリンピック招致という構想が発表され活動が始まった。同時期福岡市も招致活動が始まり、一時期は東京一極集中ということで僅差の争いだったが福岡の不祥事などで最終的に2016年招致失敗でも再招致する東京に支持が集まり、僅差で東京となった。
築地市場移転反対する中央区区長
東京都中央区の矢田美英区長は2019年1月17日、4月の統一地方選で実施される区長選に出馬せず勇退する意向を固めた。1987年に初当選した矢田氏は現在、23区長で最多となる8期目。在任中、同区は臨海部での不動産開発が進み、約7万人まで落ち込んだ人口が16万人台まで回復した。一時は 居住人口がバブル崩壊で減り、他の近隣の区との統合も噂されていて、築地市場で働く人たちが移転に伴い中央区から出る懸念があった。築地市場は午前2時頃から活発に動き始める。この時間の公共交通機関はなく、近隣の居住地からバイク・自転車・徒歩で築地に通うことになる。場内の駐車場は少なく、周辺の駐車料金も高い。7万人まで減った中央区民の中で築地市場で働く人の比率は多かった。区が統合すると公務員・議員も減ることになる。中央区は財政は安定していたので、人口を増やす手段に出て、消滅区から脱出した。
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厩橋1-4

2020年01月23日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

昭和10年頃、発行された漬物・佃煮の同業者名簿で本所区(今の墨田区)の厩橋1-4という住所で黒川屋本店(支配人伊藤寛太郎)がある。父の写真帳に黒川屋本店という名前のある前掛けをしている写真がある。ここに高等小学校を出てから勤めたと思われる。同じく本所区業平橋2-6に黒川屋があって支配人は栗原米次郎という名前があった。父の戸籍を確認すると親戚となる。多分父の親族のつてで漬物業に入ったと思われる。
 厩橋1-1には昔ののライオン歯磨きがあったようだ。墨田区緑図書館で戦前の地図を見るが震災・戦災で当時のことを知っている人物は皆無と思われる。今のライオンは本所1-3で父の勤務していたところは本所1-4にあたる。面影はない。
緑図書館で地所の変遷を知る。昭和31年6月の資料によると。
区画整理につき昭和5年10月15日
外出町と番場町が厩橋1丁目・若宮町が厩橋2丁目・3丁目となり、荒井町が厩橋1丁目に加わったようだ。江戸時代の本所の地図は込み入っていて、関東大震災で区画整理され今に至る。

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時空を超えたスト-カ-かも

2020年01月22日 | 福神漬
歴史の人物の足跡を辿るとそこに子孫などが住んでいると、もしかすると時空を超えたスト-カ-かもしれないとふと思った。西川口の河鍋暁斎記念美術館は子孫が館長をしている。そこへ福神漬の歴史を調べている人が何の脈絡もなく数回訪問している。多分美術研究者でも関連性は知らないだろう。事実河鍋暁斎の研究者は瓜生政和のことは知っているがその河鍋暁斎画伝の評価は低く、飯島虚心の評伝の方が評価が高い。従って瓜生政和の研究が少ない。福神漬を命名した梅亭金鵞は瓜生政和と同一人物で戯作者であった。この戯作者ということで評価が低い。飯島虚心は旧幕臣で
函館戦争に参加し、維新後朝野新聞が支援した(洋々社談)の編集者となった。ここが飯島の学者としての評価が高かった理由だろう。
 読者受けを狙う瓜生と評伝を意識している飯島との差が信頼性の差となった気がする。
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各地の図書館郷土資料のところで

2020年01月21日 | 宅老のグチ
この前、埼玉県朝霞市の中央図書館へ行ってきました。市の中心から外れた運動・文化施設の中にあった。この辺はやはり住宅都市なので車で行き来するように無料の駐車場が広い。さてここで戦前の住所を聞いたが割と苦戦した。偶然出されたゼンリンの住宅地図に番地が書いてあって、それと今の朝霞市の住宅地図と比較し、推測し車のカ-ナビにセットして目的地を探した。朝霞市が村の時代はこの辺りは雑木林と畑の村だっただろう。練馬から西の方は戦災に遭わない都市は昔ながらの道が舗装され生活道路となっているので、昔の地図が役に立つ。特に神社と寺院は移動することが少ないので、検索する目標地となる。埼玉師範学校の生徒の半分は農業の家から出ている。寮生活で学ぶので浦和まで通う必要はない。
 国立大学の再編で埼玉と群馬の統合という話もあるが関東ということで神奈川と東京を除いて統合もあるかもしれない。
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汚染の聞こえない豊洲で

2020年01月20日 | 宅老のグチ
豊洲市場の電気点検ということで打ち合わせのため豊洲へ行く。いろいろな観光客用施設が新たに作られている。JALホテル豊洲が開業してやっと普通のコンビニが市場付近にできた。場内にはヤマザキ系の小さなコンビニがあるが24Hではない。
 あの豊洲の地下空洞問題から次々と出た問題はだれが得したのだろうか。結局4兆円近くの税金が豊洲移転で使われた。豊洲移転で1兆円+オリンピック3兆円ということで。
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記憶の上書きで消える部分

2020年01月19日 | 宅老のグチ
ハ-ドディスクの廃棄で中身の情報漏洩の問題があった。人間の脳も生物学的処分というべき死というもので記憶が消える。コンピュ-タは記憶装置の物理的処分(破壊)でなく、表面上の記憶領域にアクセスできないことでデ-タ消去したとみなされていたが、ソフト等を使えば一部復活できることも知られた。
 人の記憶も似ていて、25年前の神戸の震災がその後の天災によって記憶の上書きされ、はるか昔の天災と感じるようになったという。まだ25年されど25年。当事者の子孫縁者にとってまだ25年では記憶が新しく過去の話として済ますことはできない。
 今年は戦後75年ということで戦争を当事者として記憶していた人は全員80歳を超える。戦後の浮き沈みの記憶が戦争という記憶を薄くする。でも年寄りの脳は最近の記憶を薄くし、過去の濃密な生きる欲望のある記憶を残している。今記録していないと生物学的死によって戦争の前後の記憶が記録されないことになる。75年という月日が都合の悪い記録や記憶を語ることのできる時となったようだ。
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『血戦特攻隊の記録』で確認

2020年01月18日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
『血戦特攻隊の記録』(桝谷健夫編 ツバサ広業 2000) 
埼玉県立熊谷図書館で埼玉師範学校の昭和18年9月30日に繰り上げ卒業し、陸軍と海軍の航空士官の試験に合格し、特攻死したのは陸軍1名、海軍1名と記録されている。叔父は昭和20年5月20日に嘉手納沖の米軍艦船に突入した。、海軍の小堀淳三郎少尉は昭和20年5月24日に沖縄で特攻死した。他の4名の埼玉師範学校卒業生の死去の理由は不明である。陸軍海軍の両方に合格した人は大方海軍に行ったと思われる。従って埼玉師範学校卒業で陸軍特別操縦見習士官に合格した8名と9月8日の毎日新聞埼玉版で記事となっていない叔父を加え9名のうち死去したのが叔父のみである。特操1期生の特攻死は400名近くあって、埼玉師範学校卒業生の死者が1名、海軍において師範学校14名研究科出身の9名を加えて23名のうち特攻死したのは1名だけである。
 全国の師範学校卒業生で特攻で戦死した人が少ないのは埼玉師範学校と思われる。埼玉大学教育学部100年史に学徒出陣時の戦死した学友の記述がないのは戦死者が少ないためなのだろうか。同窓会名簿ではかなりの戦死者の記録がある。
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雨が多い今年の冬

2020年01月17日 | 宅老のグチ
例年なら乾燥した風で冬と感じる。今年の冬は比較的雨が目立つ。月一回の犬の眼圧検診で病院の駐車場で待つ。犬は結構緑内障が多いが飼い主の判断が問われる。治療費用が高い。高級車と犬用の送迎貨物自動車の間で待つ。タクシ-には犬が載れないので余分な費用が掛かることになる。
 眼圧13ということでまた失明の危機は伸びた。すでに片目は見えていない。
 
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