たわ言

思いつくまま

雨で一日を持て余す。

2017-10-16 14:27:52 | 日記
10月16日  今日も雨、早く目が覚めたがどうしょうもない。燃やせるゴミ出し、 何もすることがないので、内科第2へ薬を貰いに行く。

 退屈だなー。 昔の雲助なんかは川開けまで、花札でもやっていたのであろう。  競輪場の送迎バスは今日も走っている。競輪はないけど、場外車券は売っており、中継のテレビは見られるので。 雨で番狂わせを期待して割合混んでいるかも。

 「雨で一日を持て余す」といっても、今暫くの間のこと。  そのうち浄土で毎日は閑か、阿弥陀さんのお話を聞きつつ修行にするのか知らんけれども。長い時間がある。

 私が往く浄土は、4~5世紀に中国の鳩摩羅什〔クマラジュウ〕が訳した『仏説阿弥陀経』によると浄土は金銀七宝で飾られ、真ん中に池があってその底は金沙が敷かれ真ん中に車輪ほどもある青・黄・赤・白色の光に輝いた蓮が咲いて、四辺の階段は金・銀・瑠璃〔青玉〕・玻璃〔水晶〕よりできている。その上には金銀宝石でできた建物が建っているという、  金銀宝石でできたすばらしい世界で、香しいところだと説いている。

 香典にご仏前と書くが、死んだらすぐに仏になるのではない。仏は長い間菩薩としての修行を経て仏になるのであって、お地蔵さんも観音様も二十五菩薩も、いまだに菩薩である。浄土教では、仏になるには大変な修行をしなければならない。それが困難だから、まずは仏〔阿弥陀〕の浄土〔極楽浄土〕に往生して、長い間の菩薩として修行をして仏となる。仏となれば自分の仏国土〔浄土〕をもってその教主になれる。他の宗教と違って、仏教は仏の教えであると同時に、仏になる教えである。 ほかの宗教では、天上にいって神になれるわけではない。神の下部〔僕〕になるだけだ。そこが違う。

 法蔵菩薩は仏となる誓願を考えるだけで5劫という時間を要した。落語の『寿限無・寿限無』に「5劫の思惟」がある。仏教のいう「劫」は盤石劫と芥子劫があって盤石劫では1ユジュンナ〔里と訳されている〕縦・横・高さの岩があって、そこに天女が3年に一回舞い降りてきて衣の袖で掃いていって、その岩がなくなるのが1劫という時間の単位である。計り知れない天文学的な日時を修行してやっと仏になれる。菩薩になるには割合簡単で四弘を誓えばすぐになれるので道が広い。 衆生無辺誓願度 煩悩無辺誓願断 法門無尽誓願知 無上菩提誓願証 いわゆる「度・断・知・証」である。宗派によって後に2・3行ついている。  今日はこの辺でお休み。   まいる

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