つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

外交的敗北日中友好の50年 2

2022-10-18 | Weblog

前日のつづきです。伊勢雅臣氏のメルマガより。

■4.「賠償を放棄するというのも、彼らのやり方なんだよ」

 訪中前に田中が心配していたのは、戦争の賠償問題でした。とてつもない金額を要求されたら、日中国交正常化への国民の期待も一挙に失われ、それを旗印にしていた田中政権が吹き飛ぶことは間違いありませんでした。

 その状況を把握していた周恩来は、公明党の竹入義勝委員長を北京に招待しました。公明党・創価学会は中国がかねてから重点目標として、池田大作・名誉会長には120以上の名誉教授などの称号を贈りつづけ、また竹入委員長も、周恩来首相自ら日中国交の希望を伝えていた人物でした。

 周恩来は竹入と会って、直接、賠償問題を持ち出しました。「毛主席は賠償請求権を放棄すると言っています。賠償を求めれば、日本人民に負担がかかります。そのことは中国人民が身をもって知っています」と言って、日清戦争後に日本に払った賠償の重さを語りました。後に竹入はこう書いています。

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 私は五百億ドル(注=十五兆円以上)は払わなければと思っていたので、全く予想もしない回答に頭がクラクラした。周首相は「田中さんに恥をかかせませんから、安心して中国に来てください」と自信たっぷりにいった。[門田、p160]
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 竹入の帰国後、この報告を受けて、田中は訪中を最終的に決断したのです。

 この点について、佐藤慎一郎・元拓殖大学特任教授は門田氏にこう語っています。佐藤教授は、辛亥革命で孫文を助けた山田良政、純三郎兄弟の甥で、満洲や支那大陸に深く潜行して晩年の純三郎を助け、戦後も内閣調査室で中国情報の分析をおこなって、時々の総理大臣に中国情勢の解説を行った人物です。

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 賠償を放棄するというのも、彼らのやり方なんだよ。これで際限なく日本から資金を引き出せるわけだからね。一度で終わらせるのではなく、延々とつづけさせる。実際、日本が中国に対して出すお金には、かぎりがないでしょ。こういう彼らのやり方を知らないまま田中と大平は中国に乗り込んだ。日本にとって、この交渉は本当に悔やまれる。[門田、p259]


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■5.「中国で千数百万人、二千億ドルの損失を与えながら〝ご迷惑〟とは何事か」

 田中総理一行が北京につき、最初の会談が行われた後、約6百人が参加して周恩来首相主催の歓迎夕食会が開かれました。周恩来の歓迎挨拶の後、田中総理の挨拶が始まりました。

 この時、大きな問題が起こりました。田中が「我が国が中国国民に、多大なご迷惑をおかけしたことについて、私は改めて深い反省の念を表明するものであります」との言葉が、中国語に翻訳された時のことです。

 それまで「角栄」節の一区切り毎に翻訳されて満場の拍手が響き渡っていたのに、この時は急に場内が異様な沈黙に包まれました。その後の会場は明らかに盛り上がりが失われました。

 周恩来はその時は黙っていましたが、宴会が終わり、田中と握手して別れる時に、「田中さん、"ご迷惑をかけました”という日本語は軽すぎます」と抗議をしました。翌日2日目の日中外相会談では、中国側はこの問題を蒸し返しました。

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 日本軍国主義は、中国で千数百万人、二千億ドルの損失を与えながら〝ご迷惑〟とは何事か。言葉が軽すぎるし、誠意がない。これは受け入れるわけにはいかない。[門田、p230]
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 日本側は「あれはきちんとした謝罪だった」としか言えませんでした。この部分の、中国語の翻訳は「添了麻煩」で、誤って女性のスカートに水をこぼしてしまい、「あっ、すいません」という程度の謝罪だといいます。この言葉で、満場の中国人が黙り込んでしまったとは、明かな誤訳です。

 スピーチの翻訳は橋本中国課長に任されており、彼は戦前にハルピンに生まれた、外務省でも一番、優秀な翻訳官に任せていたそうです。そんな翻訳官が、満場の中国人がみな不快に思うような明かな誤訳をする、などと言うことがあるでしょうか? そんな初歩的な誤訳に中国課長が気がつかない、というのも異様です。それも、もっとも日中間の機微に触れる謝罪問題で。

 門田氏は「中国側にとっては、『添了麻煩』問題は『しめた』というものだったろう」と述べて、あくまで不作為のミスと捉えているようですが、筆者個人としては、ここにも森田一秘書官の言った「なにか仕組まれているような気」がするのです。

 二回目の首脳会談でも、周はこの問題を厳しく追及してきました。ここで攻勢に出た中国側は、台湾問題でも日本側を押しまくります。最終的には、台湾との外交関係は解消されること、「二つの中国」の立場はとらないことなど、橋本中国課長が書いた文書を大平外相が読み上げて、なんとか共同声明にこぎ着けました。

 大平は、最後には「これらのことについて中国側のご理解を得たい」と、悪さをして叱られた生徒が先生に謝るような口ぶりになってしまいました。


■6.「日本がこの方面で一歩先んじていくように仕向けていた」

 こうして、本来なら日中国交正常化を急ぐ必要もない日本側が、いつのまにか「中国側のご理解」をいただいて、その後の膨大な援助を「させていただく」という形になってしまいました。

 こうした「史上最悪の外交的敗北」をもたらした責任が、日中国交回復を政権奪取の旗印とした田中角栄の私心だけでなく、橋本中国課長を代表とする外務省の無能、または背信にあったことは明らかです。

 この橋本課長は、1989年の天安門事件の際には、中国大使に出世しています。自国の多くの学生青年たちを戦車で虐殺する残虐さに欧米諸国が一致して対中非難に結束していた中で、橋本大使と、あの慰安婦に関する河野談話で悪名高き河野洋平官房長官が、対中制裁解除に奔走します。そして天皇訪中まで実現して、対中制裁の輪を崩してしまいました。

 当時の中国の外交部長(外相))銭其しん(王へんに深のつくり、せんきしん)は、回想録『外交十記』でこう書いています。

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 日本は西側の対中制裁の連合戦線の最も弱い輪であり、中国が西側の制裁を打破する際におのずと最もよい突破口となった。
 当時、われわれは日本がこの方面で一歩先んじていくように仕向けていた。西側の対中制裁を打ち破るだけではなく、さらに多くの戦略的な配慮があった。すなわち双方のハイレベル往来を通じて、日本の天皇の初めての訪中を実現させるよう促し、中日関係の発展を新たな段階に推し進めることだった。[門田、p283]
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■7.「とてつもない不幸」をもたらした日本外交の失敗

 ここでも日本外交は中国外交に操られていたことが分かります。天安門事件で、モンスター国家はその正体を世界にさらけだしたのです。欧米諸国とともに、日本が対中制裁に加わっていれば、少なくとも率先してその輪を崩したりしなければ、モンスターの成長を止められたチャンスでした。日本外交はそのチャンスも台無しにしてしまったのです。

「賠償を放棄するというのも、彼らのやり方なんだよ」と喝破した佐藤翁はこうも語っていたそうです。

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 日本人は中国人のことを知らなさすぎる。そしてもっと日本人が知らないのは、私たちが思っている中国人と中国共産党の人間がまるで違うことだ。中国共産党が言っていることを信じているレベルでは、日本人は将来、とてつもない不幸を背負うことになる。[門田、p260]
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 外務省の本来の仕事は、この佐藤翁のように交渉相手をよく理解して、我が国の国益のための外交政策を考えることでしょう。それをまったくしていなかった外務省の無能または背信によって、「日中友好50年」が日本人だけでなく、世界にとっても「とてつもない不幸」をもたらしたのです。

写真は頂いた手作りパン

コメント (2)
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