浅利城①の記事はカテゴリの山城ー野州を見てもらえれば最初に載っています。
本丸へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/9d/80c6215e679d7c96b3c4eb728ea41f08.jpg)
東曲輪から東尾根を登ってゆくと
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/38/5863028119a0dd7fb5837d6fa3fd8030.jpg)
東尾根第一腰曲輪、第二腰曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/c5/6b7dd2a9b854f4054601b20ad653e012.jpg)
東尾根をさらに登り
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/cb/b701728273d7e27dcc355567ac873217.jpg)
第三腰曲輪・第四腰曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/db/49f6790cac371dff4b0935b8c1f0ec25.jpg)
本丸城壁が見えてきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/9a/bd0eebe80dfc320b57ed761a5113fc3c.jpg)
浅利城縄張り図「余湖くんのお城のページ」より
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/d7/2e5277852e8067b87a743466d347965b.jpg)
二の郭
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/ba/e5abedd9ada4325d5036308d3397bef1.jpg)
帯曲輪、二の郭から周囲を囲んでいます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/ed/10f4f69f7f681138286bbdadcb210840.jpg)
これを登れば本丸ですが次回とします。
城主
浅利城は宝徳3年(1451)に、佐野氏家臣であった神馬(かんま)忠光によって築かれた城であるという。もっとも、このような高所の城であるから、あくまでも緊急時用の籠城場所といったものであったろう。
「余湖くんのお城のページ」より引用
浅利城跡は閑馬町に残る山城です。当城は宝徳3年(1451)、佐野氏の一族の神馬七郎忠光が築き、天文15年(1546)に廃城になったと伝えられます。山頂本丸周辺には削平地や堀切に加え、石垣なども認められます。331mの山頂からは閑馬一帯ばかりでなく、唐沢山城跡や佐野方面も見渡せます。また、ここから少し西側の尾根の頂からは、須花方面も眼下に望めます。
須花城跡は下彦間町に残る標高約200mの山城で、別名小坂城ともいいます。築城は佐野国綱と伝えられます。本丸周辺には土塁を巡らせた削平地と堀切が認められます。皆様ご存じのように、須花周辺は、佐野宗綱が天正13年(1585)、足利長尾方に討たれた地としても知られています。また、本城の東側には、正光寺城跡も残されています。
浅利城跡、須花城跡(正光寺城跡含む)、更に、これまでに紹介してきた白岩城跡(白岩町)やアド山城跡(仙波町)は、唐沢山城跡からほぼ等距離に位置し、石垣を伴う城跡が多く認められます。この他、蓬山城跡(作原町)や要谷山城跡(飛駒町)でも石垣が認められます。こうした城跡は、唐沢山城の出城として整備された可能性も考えられます 佐野市ホームページより
本丸へ
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東曲輪から東尾根を登ってゆくと
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東尾根第一腰曲輪、第二腰曲輪
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東尾根をさらに登り
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第三腰曲輪・第四腰曲輪
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本丸城壁が見えてきました。
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浅利城縄張り図「余湖くんのお城のページ」より
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/d7/2e5277852e8067b87a743466d347965b.jpg)
二の郭
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/ba/e5abedd9ada4325d5036308d3397bef1.jpg)
帯曲輪、二の郭から周囲を囲んでいます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/ed/10f4f69f7f681138286bbdadcb210840.jpg)
これを登れば本丸ですが次回とします。
城主
浅利城は宝徳3年(1451)に、佐野氏家臣であった神馬(かんま)忠光によって築かれた城であるという。もっとも、このような高所の城であるから、あくまでも緊急時用の籠城場所といったものであったろう。
「余湖くんのお城のページ」より引用
浅利城跡は閑馬町に残る山城です。当城は宝徳3年(1451)、佐野氏の一族の神馬七郎忠光が築き、天文15年(1546)に廃城になったと伝えられます。山頂本丸周辺には削平地や堀切に加え、石垣なども認められます。331mの山頂からは閑馬一帯ばかりでなく、唐沢山城跡や佐野方面も見渡せます。また、ここから少し西側の尾根の頂からは、須花方面も眼下に望めます。
須花城跡は下彦間町に残る標高約200mの山城で、別名小坂城ともいいます。築城は佐野国綱と伝えられます。本丸周辺には土塁を巡らせた削平地と堀切が認められます。皆様ご存じのように、須花周辺は、佐野宗綱が天正13年(1585)、足利長尾方に討たれた地としても知られています。また、本城の東側には、正光寺城跡も残されています。
浅利城跡、須花城跡(正光寺城跡含む)、更に、これまでに紹介してきた白岩城跡(白岩町)やアド山城跡(仙波町)は、唐沢山城跡からほぼ等距離に位置し、石垣を伴う城跡が多く認められます。この他、蓬山城跡(作原町)や要谷山城跡(飛駒町)でも石垣が認められます。こうした城跡は、唐沢山城の出城として整備された可能性も考えられます 佐野市ホームページより