山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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浅利城③

2017-12-07 17:24:53 | 山城ー野州
本丸へ


本丸東城壁

本丸」

東下の曲輪(これが二の丸ではと思います。)

本丸北下の堀切

北斜面は手が入っているような、自然地形なのか見極められません。

下ってきた斜面を見上げています。

腰曲輪

本丸北城壁に戻り、ここからもう一つの尾根

北西尾根の堀切

第一曲輪

第二曲輪

細尾根となって断崖

浅利城の支尾根は必ず歩いて見てください。今回未踏査の北西尾根を見つけることができました。

神馬忠春 かんま ただはる 15??~1546
 遠江守。佐野家臣。浅利城主。
 天文15年(1546年)古河公方らに協力する形で、佐野豊綱とともに家中千名ほどで河越に出陣。はじめ、合戦は優位に進むが、逆転した北条家の攻撃により討死してしまう。
 これにより、佐野家は350名近い死者を出したというが、これは数が多すぎる。実際は出陣した数ももっと少ないと思われる。

 忠春は浅利城主というから、宝徳3年(1451年)浅利城を築城した神馬忠光の子孫か。
 浅利城は他に、阿浅利城、閑馬城とも呼ぶ。サイト「佐野家臣団」より引用 


佐野豊綱について
佐野 豊綱(さの とよつな、永正元年(1504年) - 永禄2年(1559年))は、戦国時代の武将。佐野氏の第14代当主。佐野泰綱の嫡男。弟に昌綱、房綱(天徳寺宝衍)[1]。
古河公方・足利晴氏と足利義氏の父子に仕えた。下野国においては有力な人物で、公方の命を受けて扇谷上杉氏、山内上杉氏と戦った。河越夜戦にも参加するが北条氏康に敗れる。
後に上杉謙信の命で宇都宮氏の配下である多功長朝を攻撃したが敗れ討ち死にした「佐野小太郎」がこの豊綱とされる。ウィキペディアより





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