山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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安土城⑤

2017-12-05 18:14:05 | 滋賀県の山城
天守閣跡から総見寺へ


天守閣の階段を登ると

階段を見下ろしています。

天守閣跡

説明版

戻り本丸を見渡しています。

天守閣を中心にした図

大手を戻り、信忠邸から南西に進むと

総見寺跡への階段

総見寺跡

徳川家康の屋敷に総見寺を移築したとのこと

登ってきた石段、曲輪が虎口を守っています。

南から見ています。

敷地全体を見渡しています。

参道を下り

山門

以上で安土城を終わります。次回は栃木の浅利城です。

信長の遺体はどこへ
異説として、信長が帰依していたとする阿弥陀寺(上立売通大宮)の縁起がある。変が起きた時、大事を聞きつけた玉誉清玉上人は僧20名と共に本能寺に駆けつけたが、門壁で戦闘中であって近寄ることができなかった。しかし裏道堀溝に案内する者があり、裏に回って生垣を破って寺内に入ったが、寺院にはすでに火がかけられ、信長も切腹したと聞いて落胆する。ところが墓の後ろの藪で10名あまりの武士が葉を集めて火をつけていたのを見つけ、彼らに信長のことを尋ねると、遺言で遺骸を敵に奪われて首を敵方に渡すことがないようにと指示されたが、四方を敵に囲まれて遺骸を運び出せそうにもないので、火葬にして隠してその後切腹しようとしているところだと答えた。上人はこれを聞いて生前の恩顧に報いる幸運である、火葬は出家の役目であるから信長の遺骸を渡してくれれば火葬して遺骨を寺に持ち帰り懇ろに弔って法要も欠かさないと約束すると言うと、武士は感謝してこれで表に出て敵を防ぎ心静かに切腹できると立ち去った。上人らは遺骸を荼毘に付して信長の遺灰を法衣に詰め、本能寺の僧衆が立ち退くのを装って運び出し、阿弥陀寺に持ち帰り、塔頭の僧だけで葬儀をして墓を築いたと云う[160]。また二条で亡くなった信忠についても、遺骨(と思しき骨)を上人が集めて信長の墓の傍に信忠の墓を作ったと云う。さら上人は光秀に掛け合って変で亡くなった全ての人々を阿弥陀寺に葬る許可を得たとしている。秀吉が天下人になった後、阿弥陀寺には法事領300石があてられたが、上人はこれを度々拒否したので、秀吉の逆鱗に触れ、大徳寺総見院を織田氏の宗廟としてしまったので、阿弥陀寺は廃れ無縁寺になったという。この縁起「信長公阿弥陀寺由緒之記録」は古い記録が焼けたため、享保16年に記憶を頼りに作り直したと称するもので史料価値は高くはないという説もあるが、この縁で阿弥陀寺には「織田信長公本廟」が現存する。ただし阿弥陀寺と墓は天正15年に上京区鶴山町に移転している。
また別の異説として、作家安部龍太郎と歴史家山口稔によれば、西山本門寺(静岡県富士宮市)寺伝に本能寺の変の時に信長の供をしていた原宗安(志摩守)[注釈 36]が本因坊算砂の指示で信長の首を寺に運んで供養したという記載があるという[161]。
『崇福寺文書』によると、信長の側室の1人である小倉氏(お鍋の方)が、6月6日[注釈 37]、美濃の崇福寺に信長・信忠の霊牌(霊代を祭る木札)を持ち込んだ[162]とあり、同寺にも織田信長公父子廟があるが(前述の非公認を除けば)最初の墓であった。ウィキペディアより

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