古来より、人々は、神の降りる場所として、
大きな岩を神聖視した。
これを磐座(いわくら)と言う。
諏訪系の神社にも、磐座は多くて、
上社本宮にもあるし、駒弓神社にも、大きな磐座がある。
磐に神が降りる、という信仰に対して、
磐自体を神さまと見る信仰もあるのかな、と思う。
戸隠山は、手力雄や如来・菩薩の降臨する岩山であると同時に、
九頭竜さまの頭そのものでもある。
(妙高山が、とぐろを巻く体であり、
尻尾は越後平野の方まで伸びているとか)
九頭竜さまは成道した弁天さまの化身だけれど、
そうでない神々も多いように思う。
***
記紀で、ニニギと結ばれたコノハナサクヤ姫さまの姉は、
イワナガ姫(磐長姫)。
美しいサクヤ姫さまに対して、
醜い女神さまとされる。
名前も“我”の神さまを示しているのだ。
二人の父であるオオヤマヅミさまが、
コノハナだけでなく、イワナガも共にめとるようにと、
まとめて嫁がせたのだけれど、
ニニギは納得せず、イワナガ姫だけを送り返した。
コノハナは美しいけれどはかなく、イワナガは醜いが盤石だという。
その為、ニニギの子孫は、はかなく死ぬ人間の運命を
持つことになったのだとか。
***
この、記紀の物語とは別に、
コノハナとイワナガの伝説が、姨捨に残されている。
コノハナは美しく思いやり深くて、
おばのイワナガは醜く、その上、ひねくれてヒガミっぽかった。
コノハナが真心を尽くして幾ら仕えても、
ことごとく、ひねくれて悪くしか受け取らなかった。
そんなイワナガが、姨捨の月の美しさに打たれ、
神さまになったという話である。
***
地霊、磐霊の類いは、一般に
美しくないと考えられていたのかな、と思う。
けれど、王仁三郎のいう“霊主体従”の考え方によれば、
物質霊も必要、ということになる。
けれど物質霊は、“物質霊も必要”では納得せず、
“物質霊が上”でないと気がすまない事も多々あるように思う。
王仁三郎が“霊界物語”で語った、太古、宇宙から降ってきた禍神。
それを頭にした、地霊、物質霊の類い。
これが“と”の霊系になっているのかな、と思う。
“こ”の霊系とは、ことごとく反対の神示を授ける。
古神道家の荒深道斉という人に降りた神さまは
“イワイヌシ”を名乗ったそうだ。
彼は、石の声に耳を傾けるよう、語った。
だけど、磐自体を神と見なすと、逆に、
石は成道から遠ざかり、自惚れて手に終えなくなるような気がする。
禍神の類いに加わり、
力を得ようとする気がする。
馬鹿にしろという話ではなく。
崇めたてる神ではなく、衆生と同じような存在…
あるいは、仏教でいう“天部”のような存在と見ることが
必要なのだと思う。
月の光で、すんなりと成道していくなら、
美しいけど…
大きな岩を神聖視した。
これを磐座(いわくら)と言う。
諏訪系の神社にも、磐座は多くて、
上社本宮にもあるし、駒弓神社にも、大きな磐座がある。
磐に神が降りる、という信仰に対して、
磐自体を神さまと見る信仰もあるのかな、と思う。
戸隠山は、手力雄や如来・菩薩の降臨する岩山であると同時に、
九頭竜さまの頭そのものでもある。
(妙高山が、とぐろを巻く体であり、
尻尾は越後平野の方まで伸びているとか)
九頭竜さまは成道した弁天さまの化身だけれど、
そうでない神々も多いように思う。
***
記紀で、ニニギと結ばれたコノハナサクヤ姫さまの姉は、
イワナガ姫(磐長姫)。
美しいサクヤ姫さまに対して、
醜い女神さまとされる。
名前も“我”の神さまを示しているのだ。
二人の父であるオオヤマヅミさまが、
コノハナだけでなく、イワナガも共にめとるようにと、
まとめて嫁がせたのだけれど、
ニニギは納得せず、イワナガ姫だけを送り返した。
コノハナは美しいけれどはかなく、イワナガは醜いが盤石だという。
その為、ニニギの子孫は、はかなく死ぬ人間の運命を
持つことになったのだとか。
***
この、記紀の物語とは別に、
コノハナとイワナガの伝説が、姨捨に残されている。
コノハナは美しく思いやり深くて、
おばのイワナガは醜く、その上、ひねくれてヒガミっぽかった。
コノハナが真心を尽くして幾ら仕えても、
ことごとく、ひねくれて悪くしか受け取らなかった。
そんなイワナガが、姨捨の月の美しさに打たれ、
神さまになったという話である。
***
地霊、磐霊の類いは、一般に
美しくないと考えられていたのかな、と思う。
けれど、王仁三郎のいう“霊主体従”の考え方によれば、
物質霊も必要、ということになる。
けれど物質霊は、“物質霊も必要”では納得せず、
“物質霊が上”でないと気がすまない事も多々あるように思う。
王仁三郎が“霊界物語”で語った、太古、宇宙から降ってきた禍神。
それを頭にした、地霊、物質霊の類い。
これが“と”の霊系になっているのかな、と思う。
“こ”の霊系とは、ことごとく反対の神示を授ける。
古神道家の荒深道斉という人に降りた神さまは
“イワイヌシ”を名乗ったそうだ。
彼は、石の声に耳を傾けるよう、語った。
だけど、磐自体を神と見なすと、逆に、
石は成道から遠ざかり、自惚れて手に終えなくなるような気がする。
禍神の類いに加わり、
力を得ようとする気がする。
馬鹿にしろという話ではなく。
崇めたてる神ではなく、衆生と同じような存在…
あるいは、仏教でいう“天部”のような存在と見ることが
必要なのだと思う。
月の光で、すんなりと成道していくなら、
美しいけど…