Oceangreenの思索

主に、古神道、チベット仏教、心理学等に基づく日本精神文化の分析…だったはずなんだけど!

主体的に生きるために

2010-03-26 | こころ
生前に於いて八千魂の放縦に任かせ、

眼魂の欲に耽(ふけ)り、耳魂の欲に耽り、
鼻魂の欲に耽り、舌魂胃魂の欲に耽り、
陰魂陽魂の欲に耽り、或いは筋肉皮膚等の欲に耽りつゝあるの人々は、《中略》

その眼魂、鼻魂、舌魂、胃魂、腸魂、皮膚魂、筋肉魂等は
四方八方に分裂し、各自その欲するところを要求するを以て、

その人常に奔命に疲れ、和霊魂は擾乱せられ、直霊は幽閉せられ、
殆んど主人公なき一家の如く、《中略》

甚だしきものは、眼魂とか胃魂とか皮膚魂とか陽魂とかの
一魂にのみ主として耽りつつあるが故に、

和霊魂は一層多く擾乱せられ、直霊はより深く幽閉せられ、
その耽りつゝあるところの一魂が
全身総べての八千魂を支配せんとしつゝあるよりして、

和霊魂は中に不快を感じつゝあるのみならず、八千魂は
各自分にその耽りつつあるところの一魂に反抗せんとしつゝあれば、

その人全身は全然支離滅裂し、
一日一夜といえども統一するところあることなし。

川面凡児『祖神垂示の道』“日本民族の信仰”より

***

八千魂、というのは、川面凡児の定義で、
荒魂=足魂の別名になります。

微細な原子や分子である霊(ひ)がたまって魂となり、
魂がさらに集合して形を成したものが、肉体=荒魂になるのですが、

その肉体を構成する魂の数限りないことから、
八千魂とも呼ぶのだとか。

この原子、分子は、客観的には原子、分子ですが、
原子、分子が主観すれば霊であり、魂でもある。

肉体=荒魂を構成する八千の魂にも、
それぞれに我があり、欲があるわけで、
そのために、それぞれが常に、自らの欲するところを要求している。

これをそのままにしておくと、身体各部の分裂した欲望に振り回され、
主体的に何かを成し遂げることが不可能な状態にもなるのだそうです。

そうなると、和霊魂にも、直霊にも、出番はない。

このような人には、死後守り続けるべき事業もなければ、
和霊魂の霊力も微弱であって、
荒魂=八千魂も、その欲望の赴くところに走ってしまう。

死後、家族や子孫を守る力など、持てない。

***

チベット仏教では、根源意識の座は、
みぞおちのチャクラにある“不滅のティグレ”であって、

身体の中央を走る、通常は詰まった状態の気の通り道を
修行で開発することにより、

額のチャクラにあり、脳天を経由してみぞおちに至る、父から受けた精液と、
臍のチャクラにある母から受けた精液が、
“不滅のティグレ”に届いて、根源意識=直霊が目覚める、とします。

これに対して川面凡児は、
父から受けた霊を生魂=直霊とし(正確にはメインの直霊にあたり、
和魂にも八千魂にも、入れ小細工のように枝の直霊があるとする)
母から受けた魂を和魂とし、
この二つが合するのは頭部としていたようです。

おそらく、直霊で体霊を統一した
(わたしとしては、“調和させた”という表現にしたいけれど)とき、
川面の場合の主体は奇魂(頭部にあるとされる)にあり、
チベット仏教における主体は、心臓のチャクラ(幸魂の座とわたしは考える)におかれるのだと思います。

わたしとしては、審神(神の正邪の判別)のためにも、
幸魂におく方が安全だと思います。

心臓のチャクラが開き、そこに慈悲の情熱の火が生ずることによって
直覚力が生じたとき、
それは慈悲以外の異質な波動を受け付けないからです。

まず幸魂で正邪を判別し、
奇魂で、情報を分析していくのが確かだと。

けれど、川面の行法でも、
みぞおちのチャクラの覚醒は可能かもしれません。
つまりは、身体観の認識の仕方と、意識の置き場によるのだと思います。

どちらにせよ、肉体に振り回されることなく主体的に生き、
何事かを成し、死後もそれを見守るには、
なんらかの方法が必要なのかもしれません。

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