詩編118編22~28節(日本聖書協会「新共同訳」)
家を建てる者の退けた石が
隅の親石となった。
これは主の御業
わたしたちの目には驚くべきこと。
今日こそ主の御業の日。
今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
どうか主よ、わたしたちに救いを。
どうか主よ、わたしたちに栄えを。
祝福あれ、主の御名によって来る人に。
わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。
祭壇の角のところまで
祭りのいけにえを綱でひいて行け。
あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。
わたしの神よ、あなたをあがめる。
マタイによる福音書21章8~11節(日本聖書協会「新共同訳」)
大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ダビデの子にホサナ。
主の名によって来られる方に、祝福があるように。
いと高きところにホサナ。」
イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。
オリーブ山を越えると、長い旅を続けてきた群衆のすぐ目の前にエルサレムの町がひろがります。疲れが一気に吹っ飛び、下り坂を意気揚々と進んでいきます。ろばに乗った主イエスを取り囲み進む群衆が叫びます。
「ホサナ。主の名によって来られる方に祝福があるように。」
古くから祝祭の礼拝の中で歌われてきた詩篇118編です。
この歌には神殿に入る情景が描かれ、神殿に入っていく人とそれを迎える人々が交互に歌うようになっています。
「ホサナ」という言葉は、詩編118編25節の「どうか主よ、私たちに救いを」です。そして、「どうか主よ、私たちに栄えを」と続いています。この詩編は神の勝利を喜び、神に救われた事への感謝を歌っています。その中で「どうか主よ、私たちに救いを」と歌い、さらに救いと成功を願っているのです。
主イエスと共にエルサレムに入ろうとしている群衆は、平和のために来られる王を迎えるようにして、自分の服や木の枝を道に敷き、この詩編を歌ったことでしょう。その様子は、まことに救い主を迎えるにふさわしいものでした。町に入った時、群衆は「ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と、誇らしげに叫びました。
さて、ホサナが「どうか主よ、私たちに救いを」という意味であることは、既に説明したとおりです。群衆が詩編118編を歌っていた時、さほど深く考えていなかったかも知れません。彼らがエルサレムへ来たのは、過越の祭りを祝うためであり、神の救いを切実に求めての言葉ではなかったかも知れません。しかし、それでも神は、人々を救おうとして、既に働き続けておられたのです。否、まさにその時が目の前に来ているのです。主イエスがエルサレムに来られたのは、過越の祭りを祝うと共に、全ての人々の救いのために十字架にかかろうとしていたのです。そのことは誰一人知りません。三度にわたって受難と復活を弟子たちに予告しておられましたが、その弟子たちもそれを理解できていませんでした。
喜び叫ぶ群衆が、やがて「十字架につけろ」とののしることを、主イエスは知っておりました。しかし、この群衆をも救おうとして、十字架への道を歩まれたのです。「ホサナ。どうか主よ、私たちに救いを」の言葉を、主イエスは誰よりも真剣に受け止められました。福音書は、私たちにも、ホサナと真剣に祈るようにと勧め、主イエスは真の救いを与えてくださったと宣言しているのです。
家を建てる者の退けた石が
隅の親石となった。
これは主の御業
わたしたちの目には驚くべきこと。
今日こそ主の御業の日。
今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
どうか主よ、わたしたちに救いを。
どうか主よ、わたしたちに栄えを。
祝福あれ、主の御名によって来る人に。
わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。
祭壇の角のところまで
祭りのいけにえを綱でひいて行け。
あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。
わたしの神よ、あなたをあがめる。
マタイによる福音書21章8~11節(日本聖書協会「新共同訳」)
大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ダビデの子にホサナ。
主の名によって来られる方に、祝福があるように。
いと高きところにホサナ。」
イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。
オリーブ山を越えると、長い旅を続けてきた群衆のすぐ目の前にエルサレムの町がひろがります。疲れが一気に吹っ飛び、下り坂を意気揚々と進んでいきます。ろばに乗った主イエスを取り囲み進む群衆が叫びます。
「ホサナ。主の名によって来られる方に祝福があるように。」
古くから祝祭の礼拝の中で歌われてきた詩篇118編です。
この歌には神殿に入る情景が描かれ、神殿に入っていく人とそれを迎える人々が交互に歌うようになっています。
「ホサナ」という言葉は、詩編118編25節の「どうか主よ、私たちに救いを」です。そして、「どうか主よ、私たちに栄えを」と続いています。この詩編は神の勝利を喜び、神に救われた事への感謝を歌っています。その中で「どうか主よ、私たちに救いを」と歌い、さらに救いと成功を願っているのです。
主イエスと共にエルサレムに入ろうとしている群衆は、平和のために来られる王を迎えるようにして、自分の服や木の枝を道に敷き、この詩編を歌ったことでしょう。その様子は、まことに救い主を迎えるにふさわしいものでした。町に入った時、群衆は「ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と、誇らしげに叫びました。
さて、ホサナが「どうか主よ、私たちに救いを」という意味であることは、既に説明したとおりです。群衆が詩編118編を歌っていた時、さほど深く考えていなかったかも知れません。彼らがエルサレムへ来たのは、過越の祭りを祝うためであり、神の救いを切実に求めての言葉ではなかったかも知れません。しかし、それでも神は、人々を救おうとして、既に働き続けておられたのです。否、まさにその時が目の前に来ているのです。主イエスがエルサレムに来られたのは、過越の祭りを祝うと共に、全ての人々の救いのために十字架にかかろうとしていたのです。そのことは誰一人知りません。三度にわたって受難と復活を弟子たちに予告しておられましたが、その弟子たちもそれを理解できていませんでした。
喜び叫ぶ群衆が、やがて「十字架につけろ」とののしることを、主イエスは知っておりました。しかし、この群衆をも救おうとして、十字架への道を歩まれたのです。「ホサナ。どうか主よ、私たちに救いを」の言葉を、主イエスは誰よりも真剣に受け止められました。福音書は、私たちにも、ホサナと真剣に祈るようにと勧め、主イエスは真の救いを与えてくださったと宣言しているのです。