イザヤ書42章1~9節(日本聖書協会「新共同訳」)
見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ
彼は国々の裁きを導き出す。
彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく
暗くなってゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。
暗くなることも、傷つき果てることもない
この地に裁きを置くときまでは。
島々は彼の教えを待ち望む。
主である神はこう言われる。
神は天を創造して、これを広げ
地とそこに生ずるものを繰り広げ
その上に住む人々に息を与え
そこを歩く者に霊を与えられる。
主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び
あなたの手を取った。
民の契約、諸国の光として
あなたを形づくり、あなたを立てた。
見ることのできない目を開き
捕らわれ人をその枷から
闇に住む人をその牢獄から救い出すために。
わたしは主、これがわたしの名。
わたしは栄光をほかの神に渡さず
わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。
見よ、初めのことは成就した。
新しいことをわたしは告げよう。
それが芽生えてくる前に
わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。
ヨハネによる福音書1章29~34節(日本聖書協会「新共同訳」)
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
洗礼者ヨハネが主イエスを見かけた時、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いました。この言葉が洗礼者ヨハネを説明する最も重要な特徴と言えます。この言葉によって、イエスが世の罪を取り除くために来られたこと、これまで罪の償いのためにささげられてきた小羊に勝るいけにえであると証しします。このように証しすることこそ、洗礼者ヨハネが神から与えられた使命であり、どの福音書も洗礼者ヨハネを告げる理由なのです。
洗礼者ヨハネがイエスについて語ったもう一つの重要な言葉が、この後出てきます。それが33節にある「聖霊によって洗礼を授ける」という言葉です。この言い方は、洗礼者ヨハネが水で洗礼を授けていることと比較する形で表現されています。
ヨハネ福音書20章22節に「(イエスは)彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」とあります。直接、「聖霊による洗礼」とは言われていませんが、とても重要な出来事です。原文では「息」という言葉は省略されていますが、ギリシア語の「息」は「霊」と同じ言葉で、ヨハネ3章8節で律法学者ニコデモに語ったイエスの「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いてもそれがどこから来て、どこへ行くか知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」にある「風」と「霊」も同じ言葉です。3章では霊は目には見えないけれども確実に働いていることを教えています。
20章22節は、主イエスが息を吹きかける行為で聖霊を弟子たちに与えたと告げているのです。これは使徒言行録2章のペンテコステの出来事を連想させます。そして、20章21節には「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とあります。これはマタイ福音書28章19~20節にある弟子たちを派遣する言葉を連想させます。ヨハネ福音書は、マタイ福音書や使徒言行録とは違う出来事によって、弟子たちの派遣と聖霊の降臨の出来事を記しているのです。
さて、主イエスは弟子たちに聖霊をお与えになったわけですが、私たちはどうなのでしょうか。聖霊を受けるという特別な体験はしていないように見えます。しかし、私たちも聖霊をすでに受けているのです。ヨハネ福音書3章で主イエスが語ったように、聖霊の働きは私たちの目には見えませんし、肌で感じるというのでもありません。しかし、聖霊は確かに私たちに注がれているのです。その確かなしるしが、主イエスを神の子・救い主と信じる信仰です。
使徒パウロはⅠコリント1章18節で「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と語り、「それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした」(2:5)と語ったように、私たちの信仰は神の力によるのであり、聖霊の働きによるのです。それゆえ、パウロは私たちを「聖霊が宿ってくださる神殿」(Ⅰコリント6:19)とも告げているのです。
聖霊の神殿にふさわしく、主イエスへの信仰を守り、その救いを伝え、神の栄光をあらわす者として、歩みましょう
見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ
彼は国々の裁きを導き出す。
彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく
暗くなってゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。
暗くなることも、傷つき果てることもない
この地に裁きを置くときまでは。
島々は彼の教えを待ち望む。
主である神はこう言われる。
神は天を創造して、これを広げ
地とそこに生ずるものを繰り広げ
その上に住む人々に息を与え
そこを歩く者に霊を与えられる。
主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び
あなたの手を取った。
民の契約、諸国の光として
あなたを形づくり、あなたを立てた。
見ることのできない目を開き
捕らわれ人をその枷から
闇に住む人をその牢獄から救い出すために。
わたしは主、これがわたしの名。
わたしは栄光をほかの神に渡さず
わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。
見よ、初めのことは成就した。
新しいことをわたしは告げよう。
それが芽生えてくる前に
わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。
ヨハネによる福音書1章29~34節(日本聖書協会「新共同訳」)
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
洗礼者ヨハネが主イエスを見かけた時、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いました。この言葉が洗礼者ヨハネを説明する最も重要な特徴と言えます。この言葉によって、イエスが世の罪を取り除くために来られたこと、これまで罪の償いのためにささげられてきた小羊に勝るいけにえであると証しします。このように証しすることこそ、洗礼者ヨハネが神から与えられた使命であり、どの福音書も洗礼者ヨハネを告げる理由なのです。
洗礼者ヨハネがイエスについて語ったもう一つの重要な言葉が、この後出てきます。それが33節にある「聖霊によって洗礼を授ける」という言葉です。この言い方は、洗礼者ヨハネが水で洗礼を授けていることと比較する形で表現されています。
ヨハネ福音書20章22節に「(イエスは)彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」とあります。直接、「聖霊による洗礼」とは言われていませんが、とても重要な出来事です。原文では「息」という言葉は省略されていますが、ギリシア語の「息」は「霊」と同じ言葉で、ヨハネ3章8節で律法学者ニコデモに語ったイエスの「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いてもそれがどこから来て、どこへ行くか知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」にある「風」と「霊」も同じ言葉です。3章では霊は目には見えないけれども確実に働いていることを教えています。
20章22節は、主イエスが息を吹きかける行為で聖霊を弟子たちに与えたと告げているのです。これは使徒言行録2章のペンテコステの出来事を連想させます。そして、20章21節には「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とあります。これはマタイ福音書28章19~20節にある弟子たちを派遣する言葉を連想させます。ヨハネ福音書は、マタイ福音書や使徒言行録とは違う出来事によって、弟子たちの派遣と聖霊の降臨の出来事を記しているのです。
さて、主イエスは弟子たちに聖霊をお与えになったわけですが、私たちはどうなのでしょうか。聖霊を受けるという特別な体験はしていないように見えます。しかし、私たちも聖霊をすでに受けているのです。ヨハネ福音書3章で主イエスが語ったように、聖霊の働きは私たちの目には見えませんし、肌で感じるというのでもありません。しかし、聖霊は確かに私たちに注がれているのです。その確かなしるしが、主イエスを神の子・救い主と信じる信仰です。
使徒パウロはⅠコリント1章18節で「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と語り、「それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした」(2:5)と語ったように、私たちの信仰は神の力によるのであり、聖霊の働きによるのです。それゆえ、パウロは私たちを「聖霊が宿ってくださる神殿」(Ⅰコリント6:19)とも告げているのです。
聖霊の神殿にふさわしく、主イエスへの信仰を守り、その救いを伝え、神の栄光をあらわす者として、歩みましょう