山に越して

日々の生活の記録

鷺草(さぎそう) 16-8

2017-07-04 07:49:58 | 中編小説

  八

 

 裕二は一週間の間受験勉強に取り組んでいた。国立大学を目指していたが、受験科目が同じと言うことで教育学部だけではなく、もう少し考えてみることにした。それに、難しいことは分かっていたが、家から通学するのではなく自分だけの生活をしたい欲求もあった。夕飯のとき父親に相談した。

「話があるけれど・・・」

「大学のことか?」

 父親は最近の様子を母から聞いていたのだろう、そんな風に応えた。

「大学を変えたいと思っている。でも、具体的に何処にしようか決まっていない」

「学部は?」

「今までは教育学部のことしか考えていなかった。身体を使った仕事をしてみたい気持ちもある」

「成る程な」

「自分にしか出来ないことがあるのではないかと思う。夏休み中色々調べて、二学期が始まる前には決めたいと思う」

「自分の進みたいようにして構わないが、大学に行く気持ちだけは大丈夫だな、矢張り仕事をするには大学を卒業していなければ何れ辛くなる。公職に就くことが一番だと思っているが、裕二が真剣に考えるなら良いだろう。これまで中途半端のまま潰れた人間を大勢見てきた。ひとつ躓くことで取り返しがつかなくなり、遣ること為すこと次々に失敗する。挙げ句の果て責任を転嫁する。裕二はまだ高校生で、責任を取れとは言わないが、今までのことが無駄にならないようにしなさい」

「分かった。唯、家を出て下宿するようになるかも知れない」

「裕二、家を出て一人で生活するなんて!」

 黙って聞いていたが、母親の心配だった。

「男だから心配しなくても良い。裕二にも、裕二なりの考えがあって言い出したことだ。唯、急なことだし威彦とも相談した方が良いだろう」

「そうする」

 裕二は迷っていた。しかし大学に行くには自分なりの方向性を持って、主体的に決め、将来の手がかりになるようなことを見つけたかった。

 

 正美は将来のことを考え勉強しようと思っていたが、今は自分の出来ることを自分なりにして行くだけだった。夜間大学か、通信大学ならどうにか行くことが出来る。その為には就職先をある程度限定する必要があった。夜間大学なら授業が始まる前に通学出来る所で、仕事は正確に終わる必要があった。しかし幾つか自分だけでは解決出来ない問題が残っていた。

「お母さん」

 母親と二人きりになったとき話をした。

「私、大学に行きたいと思っている」

「そう、でも」

 大学に行って欲しかったが、経済的に余裕がないことは分かり切っていた。

「働きながら行きたいと思う」

「働きながら・・・?」

「これから学校の先生と相談して考えたいと思う」

 母親は暫く考えていた。

「正美が大学に行きたいのなら、お母さん一生懸命働くから頑張りな!」

 と、勇気付けるように言った。何時かは自分の手を放れて行くだろうと思ってはいたが、急に大人になったように感じた。

「有り難う、お母さん」

「でも、大変なこと分かっているだろうね」

「覚悟している」

「お父さんには私から話して置くから心配しないようにね。正美の好きなようにして欲しいけれど、今の経済状態では仕方がない。本当に済まないと思っている」

「ううん、奨学金を貰えるように頑張る」

 正美は充実した日々を送ることが分かり掛けていた。裕二のことを思い、卓球の練習をして、就職と同時に大学を目指そうとしている自分が、前に進んでいることを実感出来た。それは一週間、一ヶ月間の日々を一日と感じるような充足感だった。

 

 朝からどんよりとした雲に覆われ今にも雨が降り出しそうな日だった。来週から合宿も始まり、当分の間会えなくなることを正美は悲しく感じていた。その日、約束の時間に間に合うように夕飯の準備をして家を出た。図書館に着いたとき裕二の姿が見えた。夏休み中だと言うのに自転車置き場は閑散としていた。

「塾の支度してきた?」

「今日から一週間頑張るよ」

「裕二、勉強進んでいる?」

「大丈夫」

「何だか嫌な空模様ね」

「降り出すかも知れないね」

「行こう、芝生の方に」

 二人で公園の方に歩き出したとき、四人乗りの乗用車が図書館の狭い駐車場に入ってきた。四人のうちの一人は車の中で登山ナイフを弄び、車から降りることなく辺りの様子を窺っていた。裕二も正美も車の入ってきたことに気付かなかった。

「裕二、私大学に行くかも知れない。でも、仕事と夜学と掛け持ちになると思う」

「勉強しなくてはならないね」

「教えてくれる?」

「正美の為なら喜んで!」

「裕二、お弁当作ってきたよ」

「有り難う」

「雨が降り出す前に食べよう、少し早いけれど・・・」

 正美が弁当を拡げ終わったとき、二人の後に近付いてきた四人のうちの一人が「旨そうだな」と嘲笑してきた。「俺達にも食わせろよ」「仲の良いとこ見せつけてくれるじゃないか」「この間は逃げられたが今日はそう言う訳にはいかねえぜ」「けりは付けて貰うからな」「女も連れて行くか」と、次々と雑言を吐いた。そして、一人がいきなり裕二に殴り掛かってきた。「女を捕まえていろ」と、年長の一人が言った。裕二は顔を数回殴られ腹を蹴られた。口腔から血が流れ痛みのため腹を押さえていた。しかし尚も代わる代わる殴られ裕二の意識は朦朧としてきた。弁当は踏みつけられ辺りに散乱していた。「やばい人が来る」「逃げろ」「女は連れて行け」と、正美を引きずって行った。

「裕二・・・裕二・・・」

 正美の叫び声が意識を失いかけた裕二の耳元に届いた。

「助けて・・・裕二、裕二、助けて」

 裕二は起き上がるとふらつきながらも四人目掛けて走り、飛び掛かっていった。

「この野郎巫山戯けやがって」

 と、ナイフを持っていた男だった。隠していたナイフを取り出すと裕二に襲い掛かった。裕二は辛うじて身を躱した。裕二は殺されると思った。

「裕二逃げて、逃げて」

 正美は叫び続けた。もみ合っているうちにナイフは裕二の手に渡っていた。嗚呼という叫び声と同時に男が倒れた。裕二の手には血糊の付いたナイフが握られ、その様子を見ていた三人は慌てて逃げた。裕二はナイフを握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。正美は裕二の側に来て足下にしがみついた。

 立ち篭めた暗雲からいきなり激しい雨が降り出した。二人は豪雨の中、身体を動かすことも出来なかった。身体中から滴がひたたり落ちていた。

 

 その日正美は警察の事情聴取を受けたが、興奮状態が収まらず家に帰され事情聴取は翌日に持ち越された。裕二のことを考えていた。朝までまんじりともしないで考えていた。考えていたけれども何も分からなかった。夜が明けようとしていた。しかし、正美のなかで一つの決心が付いていた。『私の命に替えても裕二を守る』と、そう自分に誓った。何があっても、どんな状況になっても裕二を守っていかなくてはならない。そして、それが出来ないときは死んでも良いと思った。

 ともすれば投げ遣り的になりやすい少年少女時代に、自らの知恵と信念を持つことで生きる力を与えられるのだろう。未だ十六歳の少女にとって、これから生きることの苦しみを、生きることの辛さを乗り越えて行く箴言に近い結論だった。

 

 裕二は警察の捜査段階で自分の行動を全面的に認め、少年法の規定により直ちに家庭裁判所に送致された。法的調査及び社会調査が行われ、第一回目の審判が家庭裁判所で開かれた。裁判官の人定質問の後、非行事実を告知し裕二に弁解を求めた。しかし裕二は捜査段階での供述を翻すことはなかった。

  幸いだったのだろう、相手は重傷を負ったが死亡することはなかった。また社会調査に於いて、犯行の背景も偶発的な事件と認定されていた。第二回審判で結審し、判決は六ヶ月の保護処分の結果、中等少年院送致と決定した。週明けに、裕二はN中等少年院に護送されることになった。

 

 夏休みも終わり九月も中旬に入っていた。残暑が続いていたが朝夕はめっきり涼しくなり秋を思わせた。その日、正美は学校を休んで少年鑑別所の見える小高い丘の上に立っていた。裕二が鑑別所からN中等少年院に護送される日だった。

 午前八時丁度に少年鑑別所を一台の車が西に向かい走って行った。音のない、光のない風景が正美の心のなかに拡がっていた。『裕二・・・』と、呟いた正美の頬を涙は伝わり落ちていた。



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