山に越して

日々の生活の記録

疑似短編集冬の霧 三の③(冬の霧)

2019-07-12 09:56:00 | 短編集

冬の霧・三の③(冬の霧)

 

 ・・・山手線だろうか緑色の電車がすれ違った。俺は片手に書類袋を持っている。中を確かめると細かな数字が並び、表紙には見積書と印刷されている。背広姿の身なりと言いサラリーマンらしい。時間は午後だろうか、居眠りをしている乗客、そして空席も目立った。しかし本当にサラリーマンなのか、飯沼産業株式会社宛と書かれた見積書を見ながら必死で考えた。電車は池袋を過ぎ新宿に近付いていた。降りなければと言う思いが過ぎり、新宿、新宿と何度も呟いた。しかし新宿で降り、これから飯沼産業に行くのか、飯沼産業の帰りなのか皆目見当が付かない。

「矢部さん?矢張り矢部さんだ」

「はい」と、俺は慌てて返事をしていた。

「十数年振りになりますか」

「貴方は?」

「私ですよ、柿沢」

「柿沢さん?」

「中学の柿沢喜一、喜び一番の喜一」と、見知らない男が言った瞬間、駅員のいない小さな駅に下りた。

 ・・・左右を見渡してもタクシーの陰さえない田や畑に囲まれた田舎の町だった。さて、如何したものか迷っていると一台のタクシーが通り掛かった。咄嗟に手を挙げた俺はタクシーに乗り込むことが出来た。住所の書いてある紙を運転手に渡すと、「三十分近く掛かりますよ」と言われた。降りた駅を間違えた訳ではなく、それも仕方がないだろうと思った。山間の僅かばかりの透き間に幾つかの集落が点在していた。人々は山を切り開き、一日数時間しか陽の当たらない場所に住み着く。しかし数軒の家は既に廃屋になっていた。子供たちは家を継ぐことはなく都会に出て行ったのだろう。又、僅かばかりの段々畑に腰の曲がった老人が鍬を持って立っていた。

「お客さん何処から?」と運転手は言った。

「秋田から」

「此処が秋田ですよ」

「いや、東京かな?」

「お客さん、大丈夫ですか」と、運転手が言った瞬間、芳醇な香りに包まれていた。

 ・・・着飾った女たちが俺の周りを取り囲み囁いている。

「矢部さん、今日良いわよ」

「意味が分からない」

「今日良いって言っているの、私のこと欲しいのでしょ?」

「言った憶えは無いな」

「矢部さん、りっちゃんが可哀相よ」と、隣の女が言った。

「ご執心だったくせに」と、前の女が言った。しかし俺の周りにいる女たちに何を言ったのか見当が付かない。

「矢部さん、意地悪ね」

「だって、俺は独身じゃない」

「関係ないことよ、今日の矢部さん変ね」

「俺が以前からりっちゃんを誘っていた?」

「今更、何を言っているの」と、怒った口調で言われた瞬間、見上げると雲間から雪が落ち始めていた。

 ・・・身震いするような寒さに俺はコートの襟を立てた。寒い思いをして会社の為に働いている。毎日毎日同じ時間に出勤することで家族を支え、会社を支えていると言う虚しい自負心があった。私立大学を卒業して二十一年、俺の日常は変化すること無く過ぎている。自分自身に対する不安か、有給休暇を取ることもなく、真面目で仕事熱心であったが普通でしかない。それが会社内での評価だった。しかし意に介することはない。可も、不可も無く仕事をこなしていくことの困難さを知っている。

「其処の席、少し空けてくれない」と、若い男が言った。通勤電車を降り会社に向かっていた筈だ。しかし未だ車内に居たのかも知れない。

「もう一杯だよ」と、俺は言った。

「座らせな、この野郎」

「お前に、この野郎と言われる筋合いはない」

「爺さん、殴ってやろうか」

「貴様らみたいな連中が生きている必要はない」

「この野郎」と、男に殴られた瞬間、歌など歌ったこともないのに鼻歌を歌っていた。

 ・・・まったく珍しいことだ。カラオケではなく家の風呂場なのかも知れない。これまで人前で歌など歌ったことなど無かったが湯船で歌っている。しかし俺は背広姿のままだ。何故、服を着たまま風呂に入っているのだろう。

「私のことを愛していると言った」と、女が言った。

「遠い昔のことだろう」

「いいえ、一週間前のことよ」

「覚えていない」

「二人で頑張ろうって」

「忙しくて時間に追われていた」

「言い訳に過ぎない。他に愛した人はいないのに貴方は私を疑っていた。何故、何故なの?」

「疑念は無い」

「嘘、貴方は何時だって一歩離れて私を見ていた。そう、初めて逢った時から変わらない」

「愛しても、その後が分からない」

「何故、そんなことを言うの?私の全てが貴方のものだった。貴方に出逢えたことで私は生きることが出来た。貴方がいなければ生きて行けない」

「これ以上何も出来ない」

「私の愛は終わるの?」

「俺に何が出来ると言うのだ」

「私の何を必要としたの、愛することが出発点だと思っていた。でも、それは終着点に過ぎず、貴方は私のことを心の片隅でしか考えていない」

「俺は背広を着たまま風呂に入っている。此処はどこだ」

「そんなこと関係がない」

「何れ終わりが来る」

「貴方は傲慢よ、単なる浮気だったの?」

「違う」

「貴方は自分を正当化している。未来は、明日は空疎なものだと言って何もしない」と、知らない女が言った瞬間、神奈川に来て巨大な船窓を見ていた。

 ・・・コンビナートに囲まれた街は矢張り赤錆び付いている。俺が降り立った駅は、川の中にあるのか、海の中にあるのか、ホームの真下は一筋の油を引いたような水が流れている。覗くと銀色の魚が流れに逆らって泳いでいる。

「行こう」

「ええ」

「静かだね」

「このまま一緒にいたい」

「今ある時間を大切することが仕合わせだと思う」

「私と貴方だけの時間」と、誰かが囁いた瞬間、古びた街並みが並んでいた。

 ・・・家内工業が発達しているのか、家内工業に依って生きざるを得ないのか、大阪の片隅にあって日本経済の原点のような場所だった。地道な作業が毎日続けられ日々が忘れ去られる。仕事が終われば銭湯に行き一風呂浴びる。冷えたビールを飲みながらテレビを見ている。何処の街にもそんな風景がある。一日の疲れを家族が癒し、小さな家庭を守ることで穏やかな日常を送る。

「貴方、やっと来てくれたのね。何処を彷徨いていたの?」

「俺は一人で生きようとしていた」

「そうね」

「東京に帰らなくてはならない」

「勝手にどうぞ」

「真面目なんだ俺は」と、足掻いている傍らに【墓地分譲中・死後はお任せ下さい】と言う看板が立っていた。死んだ後も骨を埋める為に土地と葬儀が必要である。死後のことを考えなくては生きることが出来ない。死ぬ前に墓地を、墓石を買い、死ぬ準備する。

「縁切れよ」と女が言った瞬間、バスに乗っていた。しかし何処を走っているのか分からない。路地裏に入ると都会の夕方であるにも関わらず人の姿を見掛けなくなる。

「俺は三鷹駅を下りてバスに乗った」

「そう言う嘘は通じない」

「俺にも未来が有って良い筈だ」

「死人に必要なのは棺桶さ」

「棺桶だって」

「深昏睡、瞳孔散大、脳幹反射の消失、脳波の平坦化、自発呼吸停止」終わりだな、と声がした。

「終わりだって」

「人工呼吸器、スイッチオフです」

「外は冬の霧だね」

 

                                                             了



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