山に越して

日々の生活の記録

鷺草(さぎそう) 16-7

2017-06-20 07:59:36 | 中編小説

  七

 

正美は夏期練習の為朝早くから登校していた。昼迄練習があり、帰宅後は昼食の支度、掃除、時間があれば読書をしていた。また夕方になると買い物に行き夕食の準備に追われた。家事をしていても苦痛に思ったことはなく、時間に追われる生活だったが心のなかには余裕があった。それも正美の性格だったのかも知れない。

 二階のベランダから涼しい風が流れ込んでいた。『・・・夏休みが終われば高校生活も丁度半分終わる。来年の今頃は就職が決まっているのだろう。就職か・・・でも、これで良いのだろうか・・・まだ何も知らないのに就職して、大人たちの間に入って埋没するのかも知れない。生きることは私にとって一体何だろう。高校生活の中では見出せないのかも知れない。現実は就職する為の手段を勉強しているのであって、その先にあるものを求めなくてはならない。私にとっての生きる目的を・・・十六歳か・・・たった十六歳なのかも知れない。でも、裕二との出会いが私の青春を決定付けて行くのだろう。多分、仕合わせとか不仕合わせとか関係がないのかも知れない。波瀾万丈の人生であっても充足した生き方がしたい・・・私の求めているものは自分自身に対して正直に生きることだと思う。苦しくても辛くても生きていることが感じられるような生活、何も無くても、これで良かったと思えるような生活をしたい。裕二は分かってくれるだろう。でも、今は高校生であることの意味を、無駄な時間を過ごさない為にも知らなくてはならない。一度きりしかない青春、しかし就職する為、大学に行く為の予備校のようなものかも知れない・・・これから一年半の中で考えて行こう。出来れば大学に行きたい。そこで色んな人達と出会い、私の知らない世界を知りたいと思う・・・』

 正美は家庭のことを考えていた。大学に行けるような経済状態では決してなかった。況して商業科だったので、受験勉強とは程遠い授業内容だった。しかし、現実に流されて方向を見失うようなことはしたくなかった。そうは言っても、何をすれば良いのか正美の知識だけでは乏しかった。

 

 約束の日、正美は図書館への道を急いでいた。途中、この間襲われた連中に出会ったことに気付かなかった。正美の後を白い二人乗りの車はゆっくりと付けて行った。

 正美は図書館に着くと急いで二階に上った。裕二が先に来て待っていた。

「一週間振り、元気だった?」

 会えたことで一週間の時を埋めることが出来る。恋人たちにとって人を思うときは何時でもそうである。

「行こう公園に!!裕二のお弁当作ってきたよ」

「有り難う」

 二人が階段から下りてくる様子を車の中からじっと窺っているものがあった。

「卓球の練習は?」

「下手だから選手になれないかも知れない。でも、頑張っている。裕二は勉強している?」

「学部の変更をするかも知れない」

「急に?」

「うん、学校の先生になろうと思っていたけれど分からなくなってしまった」

「そう、色々考えなくてはね」

「正美は始めから就職する積もりでいた?」

「その為に商業科を選んだけれど、矢張り分からない」

「一緒に大学行けると良いね」

「自分の中に何もないことが不安になる。それに、これから何をして良いのかも分からない。でも、焦っても仕方がないと思う。大学に対する憧れもあるけれど、兎に角働いて、その後で考えようと思う。長い道のりを越えて行かなくてはならない」

「俺の中にも何もない。構築するだけの材料もない。何にもない高校三年生」

「何にもない高校二年生」

「これから先見つかるだろうか?」

「見つけよう!!」

「本質が見つかるときがあるかも知れない」

「本質って」

「何時もそうだけれど、結局表面だけしか見ていない。その内部まで見ることが出来ない。社会的なことも、自分のことも、内面的なことまで捉えられない。表面だけ見ていて、それが何に根差しているのか分からない」

「そうなのかも知れない」

「一があって二があって、そして三がある。でも、マイナス一、二、三は見ようとしない。そんな風にしか生きて来なかったのだと思う。調子よく振る舞うことだけに長けていて、自分に都合の悪いことは切り捨てる」

「上昇志向が悪いってこと?」

「そう言うことではない。本質は隠されていて、その本質が一個の個人を規定しているのに分からない。例えば、本来的に人間は純粋なのかも知れない。しかし、その純粋さを知ることが無いから、いつの間にか汚れている」

「裕二は自分が何であるのか、自分の内部に向かって行こうとしている。何処まで行っても行き着かないかも知れない。それでも後悔しない?」

「行けるところまで行くより仕方がない。果てしない、と言うことが少しだけ分かるような気がする」

「生きることって難しい。唯、生きていることは出来る。でも、納得出来るような生き方って矢張り難しいと思う。何処かで妥協するのかも知れない。妥協したとき自分の大切にしているものを失う。一つ失うと、また一つ失う。そして気付いたときは何も残っていない。何も無くても生きられるけれど、そんなの生きることではない」

「正美、俺達ってどんな生き方が出来るのだろう。一つ一つのことを一生懸命考える必要がある。でも、今日考えたことが本当のことなのか分からない」

「でも、また考える」

「そう、分からなければまた考えれば良い。そして、間違っていることに気付いた時やり直す勇気が必要だと思う。同じことを繰り返しながら段々大切なことが見えてくるのかも知れない」

「若いんだもの大丈夫、そして、そう言う風に考えるなら何時までも青春が続く。失った時間を取り戻すことが出来る。そんな生き方がしたい」

「確かに取り戻すことが出来る」

「裕二、一緒に生きて行けるよね」

「そうだね」

「苦しくたって乗り越えて行けるよね」

「そんな風に生きなければ意味がない」

「裕二が先生になれば、色んなこと一杯教えてくれる先生になると思う」

「そうかな?」

「大学に対する夢とか希望とか始めから持たなくて、何か見つかるかも知れない程度の方が良いと思う。高校と違って、日本中から色んな人達が集まってくるし、そんな人達から学ぶことが沢山あると思う」

「俺、知らないことが多過ぎる。知ろうとしなければそのまま終わる。知る為には、思考力と、忍耐と、真摯な態度がなければ駄目だと思う。これから先、それらが持続出来るような思想を持ちたいと思う」

「裕二は人として生きることが出来る。人が人として生きるには、感じることの出来る感性だけで良いと思う。人の苦しみが、悲しみが、寂しさが共有出来ることが一番大切だと思う。そして、相手の心を感じ取ることに依って理解出来るようになる。そう言うとき、人間として生きている価値があると思う。だって、裕二は瞬間的に私を助けてくれた。裕二の中には、そんな情念のようなものが内在している。それが裕二の人間性になっていると思う。人間性と言うのは何時まで経っても変容しない。変容していくような人間性なら結局嘘でしかない。裕二の人間性を、真摯な思いを信じることが出来る。そして、何があっても失われないと信じている」

「これから先、どんな生を生きて行くのだろう。生きとし、生きることの出来る生を、知ることが出来るのだろうか・・・?」

「出来ると思う」

「辛くても?」

「裕二の為に生きたいと思う」

 裕二も正美も精一杯生きることが、たった一度の人生、自分との闘いであることを感じるようになっていた。若いと言うことは、体力も知力も充実しているときである。そして何よりも自分自身が何者であるのか、何故生きているのか、存在しているのか考えるときである。確固たる概念が形成されることが無くても、諦めることのない情熱を持っている。

「来週も三時丁度に会おう。正美の合宿が始まると会えなくなってしまうね」

「寂しくなる」

「選手になったら応援に行くよ」

「本当!?頑張らなくちゃ」

「送っていかないよ」

「うん」

「じゃ来週!」

 裕二と正美は自転車置き場で別れた。

 二人の会話を直ぐ近くの木陰で聞いていた二人はニタリと笑っていた。



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