七
昭生は東京に帰ろうかと思っていたが苫小牧から札幌行きの列車に乗った。春の気配を間近に感じても、未だ何度も雪に見舞われる札幌の街を当て所無く歩いていた。暫くしてホテルに戻り、降り出した雪を眺めながら義妹の安達和江に会いたいと思った。和江は短大卒業後、札幌市内のデパートで事務員として働いていた。夕方待ち合わせの場所にいると和江の歩いてくるのが遠くから分かった。オーバーコートに身を包んだ姿は、一瞬雪江が近付いて来たのではないかと錯覚した。
「和江ちゃん、元気そうだね」
と、昭生は先に声を掛けた。そうすることで自分を取り戻そうとした。
「義兄さん・・・」
「久し振りだね、それにしてもよく似ている・・・」
「東京を発つ日の朝電話を掛けても繋がらないし、何処に行ってしまったのか・・・管理人さんに連絡して鍵を開けて戴いたけれど、心配させて駄目な義兄さん」
「山梨県の清里にいた」
「告別式の日から?」
「そう、夜明け前にマンションを出て、着いた所が清里だった。今後のことを考えようと思っていたが、無為な時間だけが過ぎていった」
「様似の帰りだと言っていたけれど・・・」
「旅館に泊まっていた。義兄さんの所に行くことが出来なかったので和江ちゃんの所に寄った」
「そう・・・」
和江は昭生の目を見つめ暫く考え込んでいた。
「雪江の思い出が恐かったのかも知れない」
「義兄さん、優しいから・・・」
「様似の町を歩き、エンルム岬から海を見ていた」
「仕事は?」
「退職届を送った。暫くこのままで居ようと思っている」
「辞める積もりでいたんだ・・・姉さん仕合わせだったと思う」
「和江ちゃんにも済まないと思っている」
「待っていても二度と姉さんは戻って来ない・・・義兄さん、分かっていながら待とうとしている。その気持ちは痛いほど分かるけれど・・・でも・・・ご免なさい。生意気なことを言って」
「歩こうか・・・」
「ええ・・・」
暮れてしまった街を二人で歩いた。通りすがりの人から見れば仲の良い恋人同士のように映っていただろう。
「こうしていると、雪江と一緒に居るように感じる」
「元気、出してね・・・」
二人で場末のレストランに入った。軽い食事を摂り、それぞれの思いを噛み締めていた。
「未だ誰にも話していないことがある」
と、昭生は言った。これまで誰にも話さないまま胸の内に仕舞っておいたが和江には知って欲しかった。しかし、昭生は躊躇っていた。窓ガラスに映る姿が幾分震えているのが分かった。
「姉さんのこと?」
「医者に言われた・・・雪江のお腹には子供がいた」
「え・・・ほんとに?・・・」
「医者は誰にも聞こえないように小声で言った。三ヶ月になっていたそうだ。雪江はそのことを内緒にしていた。雪江が亡くなった後も、お腹のなかで生きていたかと思うと、苦しくて、苦しくて仕方がない。俺は雪江と一緒に自分の子を殺してしまった・・・雪江は俺のことを驚かす積もりでいたのだろう、長野に出張するとき、俺の目をまじまじと見つめ、そして、帰ってきたとき『教えて上げる・・・』と、言った。俺は何のことか皆目見当が付かなかった。結婚して四年目に初めての子が出来た。今思えば、そわそわしていたり、にこにこしていたり、普段と違った様子をしていた。しかし雪江の思いにも容態にも気付かなかった・・・幾ら自分を責めても、仕事に追われていたと言い訳をしているのに過ぎない。俺は自分の仕事を勝手に自負していた。しかし一番大切なことを見落としていた」
昭生の両頬に涙が伝わり落ちていた。
「義兄さん・・・」
「雪江は、暗い部屋で俺の帰りを待っていた。必ず帰ってくると信じていた・・・激しい胸痛と闘いながら・・・無念だったと思う・・・今頃になって自責の念に駆られても仕方がないと分かっている。しかし、暗いベッドで耐えていた雪江のことを思うと・・・雪江の骨を拾っていたとき、産まれてくることの無かった子の姿を胸裡に描いていた。融けてしまったのか、未だ骨にもなっていなかったのか、でも、雪江の骨と混ざり合っていたのだろう。俺は名も無い子に済まなかったと侘びていた。しかし幾ら侘びても最早取り返しはつかない。火葬台車を目の当たりにしたとき、赤子が悲しく微笑んで『お父さん、お父さん』と、言っているようだった。骨を拾う俺の指先はブルブルと震えていた。発狂したかのように大声を出したかった。唯、唯、誰にも気付かれないように耐えていた。しかし、何時自分を見失うか分からなかった。自分に対する怒りと、雪江の思いと、小さな子の悲しみが渾然と混ざり合っていた。俺は人間として許されないだろう・・・」
昭生は虚空を見ていた。そして、また話し始めた。
「一日が終わり、眠りに就こうとすると、子供の声が『助けて父さん、助けて父さん』と、言っているように聞こえてくる。俺は手を伸ばして必死で助けようとしているのに、子供は徐々に遠ざかって行く。俺は闇雲に子供の後を追い掛ける。しかし、名も無かった子の姿は忽然と暗闇の中に消え、近くにいた筈の雪江も一緒に消えている。俺は自分の居る場所も分からず呆然としている。そして、時間が経つに連れ誰も居なくなった暗闇で一生懸命出口を探している。でも、出口など始めから何処にも無いことを知る・・・清里での三ヶ月間、これからのことを模索していた。しかし空白を埋めることは出来なかった。仕事も、友人も、家族も、お金も、何もかも必要が無いと思えば本当に要らなくなる。雪江を失ったことは、俺自身を失ったことなのかも知れない・・・」
その日和江と別れると、翌日、札幌支所に戻っていた伊藤友矩と会った。
「先輩、心配していました」
「悪かった」
「本社に電話を入れると退職届が出ていると聞きました・・・直ぐ行きますので待っていて下さい」
伊藤は待ち合わせの場所に十分ほどで来た。
「飲みに行こうか・・・」
「先輩には面倒を懸けて申し訳ないと思っています。それに、色々なことを教えて戴きました」
「札幌市の工事は後を矢崎君に頼んである。準備は進んでいると思うが協力してやってくれ」
「分かりました」
「落ち着いたらこれからのことを考えようと思っているが、今のところ自分でも何をして良いのか分からない」
「北海道に来ませんか?・・・」
「会社では一従業員でしかなかった。既に退職届を出してあるし、そう言う訳にもいかないだろう」
「先輩がこんな風に結論を出すとは思いも寄りませんでした」
「仕方がなかった。しかし終わったとは思っていない。まだ先があるような気がする」
「僕に出来ることがあったら何でも言って下さい」
昭生は久し振りに会話をしながら飲んだ。酔うほどに会社での辛かったこと、楽しかったことが蘇ってきた。しかし、これからのことを考えると不安だった。義妹に会い、伊藤に会い、励まされ、勇気付けられた。生きることの大切さ、仕事に復帰することの必要なことを感じていた。
(貴方、酔っているの?)
(飲み過ぎたのかも知れない)
(気を付けてね)
(分かっているよ)
(北海道には何時まで居るの?)
(東京に帰って出直そうと思う。しかし意識が持続しない。頽廃から抜け出すことは出来ないが、自分に対峙することを恐れている訳ではない)
(そう言う貴方であって欲しい。貴方の生命を支える血は未だ燃え尽きていない。清里から帰る日の朝、貴方は子栗鼠の話をしてくれた。私の好きになった人は溜め息が洩れるほど素敵だった)
(様似に行ったことで安心したのかも知れない。直ぐ近くに雪江を感じていた)
(貴方のこと何時も見守っている・・・)
冷たいベッドで横になっていた。間もなく夜が明けてくる時間だった。昭生は窓を開け、降り出した名残雪の冷たさを感じていた。そして、東京に帰ろうと思った。身の回りを整理して生きる基盤を作らなければと思った。
搭乗手続きをとるまでの間、雪江が立っていた公衆電話を見ていた。その受話器で何人もの女性が電話を掛けていた。しかし、振り向いた人の誰ひとりとして雪江ではなかった。雪江が振り向いたのは五年も前の出来事だった。