十三 死海
何もせず時間は過ぎて行く。そして、過ぎ去った時間を戻すことは決して出来ない。雅生は自明の理と知りながら決して理解出来ないだろうと思っていた。一分一秒が静かに時の中に消え、鳥が囀り、花が咲き、空気が流れる。
雅生は真っ黒な鳥になって上空高く飛んでいた。カラスに似た鳥だったが、大きさはカラスより幾分大きく、鷲の眼孔のような鋭さを持っていた。声を出そうとしたが、嘴から呻き声のように『ウーウー』としか発することが出来ず弱々しさを与えていた。鼓膜の感覚が悪いのか、雅生には自分の声をそんな風にしか聞こえていなかった。
眼下に目が覚めるほど青い海が拡がっていた。暫くの間上空から眺めていたが、軈て引力に引かれるように落ちていった。
「雅生、やっと着いたな。此処が死の海である」
「死の海?」
「待ち望んでいたお前の帰るべき故郷である。誰に遠慮する必要も無く勝手気ままに過ごすことが出来る。束縛もなければ自由もない領域である。最早何の不安も心配もない無の海である」
「俺が望んでいたものは無ではない」
「お前の願っていたものは自らの意識を捨て、唯、生きることに専念する森のリスのような自然である。此処こそが、その自然に相応しい場所である。懈怠(けたい)も諦念もない空間で自らの生命の燃焼を見るが良い。何故、人間は時間に拘束されるか考えたことがあるか?生を受け、死ぬまでの時間など取るに足りない。雅生、海の底を覗くが良い、蠢く人間たちの姿が見えるだろう、それがお前自身の過去である」
「俺たちは確かに生まれてきた。しかし、近代以前的な身分制度の枠に填め込まれている。単に一つの生を生きているのであって、自身を価値付けるようなものはない」
「脱却は可能だろう、方向を持たないことで自分自身が見えて来るようになる」
「簡単に言うな」
「真理は依り細分化された処にしかない」
「確かにそうだろう」
「自由に考えることは単に都合が良いだけである。しかし、現実に束縛されている限り無意味なことである。執着などするから疑問に思い勝手に行動する」
「何だって良いではないか、所詮意味など有りはしない。俺が思い考え行動する。正であっても負であっても何ら意味はない」
「投げ遣りになっても何も生まれることはい。雅生、無意味であったとしても見ることは出来る」
「価値はない」
「それで良い。しかし、何れ人間の社会は終わる。高速道路を走った後フロントガラスには無数の虫の死骸がへばり付いている。雑巾で擦っても破裂した体液は消えない。虫が悪いのか、激しいスピードで走ったことが悪いのか、小さな虫を殺したのは人間である。何れ、人間対して虫が死を持って復讐する。フロントにへばり付いた虫どもに何時か喰い殺されてしまう。エンジンに、車内に、虫の死骸や悪臭が立ち籠めるようになる。骸にしがみつく虫たち、その体液によって融けていく。正にお前が求めてきた情況である。傷痕を残さないことが生きていた証である」
「成る程、お前は賢い」
「道路を歩いていると頭上から鳥の糞が落ちてきた。逃げようと思った瞬間、糞は其奴の脳天に落ちた。糞は髪の毛を伝わりこめかみに流れてきた。慌てた其奴は余所の家の外(そと)水道に走った。家人の許可も得ず栓を全開にして頭から被り続けた。どうにか糞が落ちたと思った瞬間、水が襟元から身体の中に流れ込んできた。ビタビタとした襟首、腹の辺りが冷たくなっていった。終わった瞬間から逃れられず、捉えられた儘の時間が始まっている。逃れられない情況は何処にでもある。知らないか、見過ごしているのに過ぎない」
「詰まらないことだ」
「しかし其奴は負ける訳にはいかない。足許はドロドロする沼地だった。何故、裸足で入り込んでしまったのか、踠けば踠くほど足許を取られ沼地に填り込んでいく。ズルズルと滑る泥土は足首から臑まで来ていた。其奴は足の動きを止めようとした。すると全身がブルブルと震えだし、其の振動の為太股まで泥に填っていった。最早逃れる術がないように思った。あと二、三分も経てば、其奴の全身は底なし沼の泥に飲み込まれてしまう。そして、泥沼の底で死を迎える。【待っていた瞬間が来た】と、耳許で囁く声がした。【俺と知ってのことか】・・・【そうだ、お前の来るのを待っていた】・・・【用意周到に準備していた訳だ】・・・【逃れられないのだ。情況を変えようとしても無駄なことであって、踠けば踠くほど死海に近付くことになる。考えることも感じることも必要としない世界は、遺伝子と単体細胞のみによって生きる理想の社会である。自分以外の声に耳を済ませるのだ】・・・【無意味なことだ】・・・【人間の活動は自らを呪縛することにある。永遠に続くと言う神話から逃れることがない限り自身を解き放つことはない】・・・【もう良いんだ】と、其奴は逃れたかった」
「死海は望まなくては得られない」
「得られたとしても頽廃から逃れられない」
「頽廃?」
「頽廃まで行き着くには幾つかの条件が必要である。その条件をクリアしない限り頽廃と呼ぶには相応しくない。詰まり、行動することを無意味だと思い自分自身に価値を認めない。執着していたものが無くなり生きることを不条理だと思う。生活上の一切の価値を捨て、虚脱感に支配され意識が荒み価値を喪失する。しかし、日常生活も仕事も何の変化も無く行われる。毎日が一定の条件を満足させ、周囲に居る人たちとの接触も会話も何の変哲もなく行われる。頽廃は、その人間の内面だけの問題であり周囲には理解されない。理解されようと思わないし語っても仕方がない。人それぞれの感じ方も考え方も相違し、右もあれば左もある。目的を持って生きている人間もいればのんべんだらりと生きている奴もいる。しかしどちらであっても良い。一生懸命仕事に没頭して、家族の為に生きることも、自分自身の為に生きるでも良い。しかし、其処に具象化される本人は何も感じない。感じないどころか喜悦も苦痛も超越しているかも知れない。とどの詰まり、自分を意識する必要はなく全くの阿呆と言って良い。恐らく頽廃などとは無縁の情況が現出している、そんな人間である」
「何れ境界線があるのかも知れないが問題はない」
「しかし雅生、地団駄を踏みながら越えることになる。その時に戻る内的な世界こそ死海である」
「それさえ下らないと言っているのだ」
「仕方がない」
日差しの強い午後、整備された公園を何時も通り眺めていた。公園には様々な花があり、手入れの行き届いた雛壇に赤や青の花が順序よく並んでいる。人間の手によって管理され、必要に応じて咲くことを許された花である。しかし枯れ始め、景観を損ねるようになったとき根こそぎ抜かれる。人間の為に植えられ、人間の為にのみ一生を終える。生きるに値しない管理された生命である。
雅生は、自分の周囲で異様な臭いを感じていた。小さな昆虫や花々が悪臭を発散している。交尾に必要なフェロモンを放出していたのだろう、しかし最早悪臭である。同一個体の集中化は他種族の聖域まで破滅させる。そして、何時しかその地域そのものが死滅する。逆襲は単体で出来るものではなく集合する蟻のように一斉に襲い掛かってくる。
「我々も復讐しなくてはならない」
「そうだ、人間の息の根を止めなくてはならない」
「進化は我々が生きる為にある。体内の組織を変えることで一斉に攻撃に出る。地上に生きる場を取り戻すことで歴史を戻さなくてはならない」
「否、俺たちには何も出来はしない。こうして咲いているだけで十分だ」
「馬鹿野郎、お前のような奴が居るから人間共がのさばるのだ。今こそ結集して悪臭を発するのだ」
「俺たち昆虫の世界も終焉を迎えるのだろう」
と、蟋蟀が言った。
「仲間たちが生きる地表を奪われ死んでいる」
「復讐を人間共にしようじゃないか」
と、蟷螂が鎌首を研ぎながら言った。
「街々で集中的に襲えば、人間の一匹や二匹殺すことが出来る」
「そうだ、一斉に襲い掛かろう」
「この鎌で人間の首を切り落としてやる」
蛾や珍しい鍬形も飛んで来た。
「人間どもに復讐を!!」
「この地上は元々我々昆虫と植物の世界である。それなのに何故我々だけが死に絶えるのだ。それも総て人間共がのさばりだし、自然環境を、地域を変えてきた。それを自分たちが生き延びる為と称して傲慢にも正当化してきた」
「この暑さの為に木々が枯れだし草花が芽を出さなくなった」
「この俺が」と、蛾が言った。「俺がいなければ交配しない植物があることを知らない。しかし体力を奪われ自身が生き延びる力さえ失われている」
「斯うなったことも全て人間が勝手な行動をするからだ。その為に俺たちは滅びることになる」
「集団を形成することで生命の存続を図る。自然に支配されることは類が生き延びる唯一の方法である」
「傲慢でないことが集団の掟である」
「欲望には限りがない。しかし、その事が破戒の始まりであり破滅への道である」
「阿呆が資源や環境を食い潰す」
「僅かな時が支配した」
「死海、最早戻ることの出来ない死の海」
「唯、死を待つことはない」
「騙されるな、歴史が証明する」
「単なる偶然が理解出来ない人間共に資格はない」
「糞どもを殺せ」
「殺せ」
変わらないと思っている生活は加齢を含んでいる。時には旅行に行き、買い物をして、外で食事を摂る。しかし同じことを繰り返しているのに過ぎない。生活とは何の変哲もない日常の繰り返しであり、十年、二十年と続いて行く。しかしそのことは、他を犠牲にして成り立っているのに過ぎない。雅生は殺せと言う言葉を確かに聞いていた。何も無い日常の中に欲望と傲慢のみが潜んでいる。日常を省みないことで、日々の生活が成り立ち歴史と言う残滓を残す。しかしそんなものに価値も意味も有りはしない。
ポケットの中に手を入れると小銭がジャラジャラと鳴った。この小銭を使ってしまえば無一文だった。無一文という状態を経験したことはなかったが、金が無くても何とかなるだろうと思った。レストランで食事をしても前払いはなかった。レストランの主人も、客は支払い能力が有るものと見なしている。社会生活に順応しているからには、そのくらいの犠牲を支払っても当然である。