冬の霧・三の②(夢の中)
・・・テーブルにお新香とおでん、鳥の煮込みが並び居酒屋の片隅で熱い酒を飲んでいた。屹度俺の好物なのかも知れない。手持ち蓋さにしていた俺は待ち合わせをしていたのか、しかし三十分経ち、一時間経ったが誰も現れない。支払いを済ませ出ようとしたとき一人の女が入ってきた。
「矢部さん」と、後ろ向きの俺に声を掛けてきた。振り向いた顔に見覚えはなかった。
「ご免なさい、遅れてしまって。仕事が捗らなくて、もう帰ったかと思った」
「兎に角お掛け下さい」
「孝之さん、変な言い方?」
矢部孝之、それが俺の名前だった。
「一時間近く遅れたのを怒っているのでしょ?」
「仕事?」
「変な人ね、貴方の為に頑張っていたのに」
「俺が何か頼んだ?」
「貴方が行けないと言うので私が行った。変な人ね」
「有り難う」
「先方は納得してくれ、今後も納品させて貰える」と、女が言った瞬間会社の場面に変わっていた。
・・・こんな筈が無いと怒鳴り立てている。自分の仕事上の失敗を当たり散らしていたのかも知れない。俺の周囲には何人かの背広姿の若者や事務服姿の女の子がいた。
「しっかり伝えておけ」
「申し訳有りませんでした」と、若者が謝った。
「会社がどれ程の損失を被るか考えたことがあるのか。このままでは在庫だけを抱えることになる。営業二課が潰されるかも知れない情況なのだ。何時もそうだが連絡が行き届いていない。言ったことは一回で憶えておけ」
「済みませんでした」
「謝って済むようなら会社は要らない。二度と同じような失敗をすればその場で辞めて貰う。分かったな」
「はい」
「課長、これからのことですが、行って頂けますか?」と、一人の男が俺に向かって言った。
「君、後は頼む」と、言って別の男が去った。上司だったのかも知れない。兎に角連絡をしようと思い受話器を手に取った。ダイヤルを回さなくてはならない。しかし何処に掛けるのか、「営業二課の・・・」俺は言葉に行き詰まった。確か、課長と呼ばれていたが名前が分からない。
「課長、顔色が」と、目の前の女の子が言った瞬間分からなくなっていた。
・・・さっきから何も言わず時々俺の方を盗み見ている。湖のある町、俺は以前此処に来たような気がする。しかし声を掛けようにも名前が分からない。聞く訳にもいかなかったが、何度も一緒に過ごしたような、何れ一緒に暮らしたいと思った女がいた。
「可愛い唇だね」と俺は言い、女の反応で判断しようと思った。
「二人だけで会えて嬉しい」
「キスしても良い?」
「そんなこと言うの、貴方だけよ」
「本当だよ」
「貴方の言うこと信じて良いの?」
「勿論」
「私、未だ恋をしたことがない。でも、結婚している」と、女は意外なことを言った。
「そんなことは関係がない」
「私は悪い女」
「良い女だよ」
「何故、虐めるの」
「好きだ、と思っている」と、名前も知らない女に言った。
「だから、虐めている?」
「君と居るとき、俺の感覚は満たされている」
「私は貴方と居られない」と、女が言った瞬間名前を思い出した。
確か知美と言った。知美、知美、しかし関係が分からない。
「知美?」
「やっと名前を呼んでくれた」
「知美のこと愛している」
「でも、私は」
「応える必要などない。こうして俺と知美は一緒に居られる」
「何故、愛したの?愛される資格がない」
「理由など無い」
「孝之、二人で何時もいられない」
「でも、時々は会っている時間がある」
「孝之に辛い思いをさせる」
「知美、連理という言葉を知っている?」
「教えて」
「知美と俺のこと、枝葉か絡み合うように一体となり結ばれる深い契りのこと」
「孝之と私のこと?」
「そう」
「それで良いの?」
「それで良い。知美には知美の生き方があり、俺には俺の生き方がある。互いに生きる場所や時間が違っていても、二人の間に堅く結ばれた契りがある限り求め合うことが出来る」
「有り難う、孝之」
俺は知美を抱き締めようとした。しかし腕を動かそうとしても、指先を動かそうとしても出来ない。「知美・・・」と、叫んだ声は内に籠もり表出して来ない。
「孝之」と、呼んでいる声がした。
「知美、何処にいる?」
「孝之の隣」
「分からない」
「孝之をこんなに強く抱いている」
「俺のいる所が分からない」
「湖よ、穏やかに湖面が揺れている」
「湖?」
「二人で湖岸にいる」
「姿が見えない。可愛い目許が好きだった。何度も何度もキスした唇が好きだった」
「孝之の私しかいない」
「起きているのか眠っているのか、知美に会ったような気がする」
「今、一緒にいるのよ」
「手紙を書いていたような気がする。封をしてポストに入れようとしていたのかも知れない。違う、机の上に置いたままだ。否、ポストに入れた」
「まだ、受け取っていない」と、言った瞬間知美は消えた。
・・・汗がタラタラと流れている。炎天下での運動会だろうか、子供達がはしゃぎ廻っている。正面に大運動会と、大きな看板が立っている。しかし運動の苦手だった俺は、体育の時間や運動会などなければ良いと思っていた。授業中も窓外に拡がる景色を見て絵を描いていた。
「孝之くん、駄目でしょ」と、未だ若い先生が言った。
「はい」と、慌てて返事をした。
「私かしら?」
「そうです」
「でも、上手ね」
「有り難う御座います」
「今は国語の時間、勉強しなさい」
「でも、教室には先生と俺しかいないよ」
「そうね」
「みんな何処に行ったの?」
「今日は運動会、孝之くんも一緒に行こうね」
「嫌だ、国語が良い」
「孝之くん、先生のこと好き?」
「うん」
「放課後、美術室で待っています」と、耳元で囁かれた瞬間若い先生が消えていた。
目の前を人が通り過ぎ、時々覗き込み、触っているような気がする。しかし何も見えない。過去なのか、現実なのか、俺は子供なのか、大人なのか、もしかして死んでいるのかも知れない。夢の中の出来事を追っているのなら何故目覚めないのだ。
了