山に越して

日々の生活の記録

山に越して 閉ざされた時間 23-18

2016-01-20 14:23:02 | 長編小説

 十八 降下

  一瞬にして無重力を経験するような、身体は浮き上がり、拡散、その後急降下した。四肢から筋肉がはぎ取られ力を入れようにも入らない。筋萎縮症のような両手両足が垂れ下がったままで、最早自分の筋力では元に戻ることは出来ない。

 瞬間的な出来事で生涯を規定することがある。進藤勝実がそうだった。理想に燃え、自分の生き様を記録に取って置くことが唯一の生き甲斐だった。しかし彼奴(あいつ)の記録は、その後拍動と脳波の記録だけになった。生きた証が欲しいのは、他者の為であることに何故気付くことが出来なかったのか、記録は自分にとって全く必要がない。進藤勝実の間違いは、自分の為に生きようとしたのに、他人の為に生きていたことになる。彼奴は死ぬまで医療用の狭いベッドから離床することはない。

「勝実、俺のことが分かるか?」

 少しだけ開いている瞳孔に話し掛けた。ピクリとも動かない身体に幾つもの延命器具が取り付けてある。

「矢張り間違っていたのは俺か?」

 と、残っている脳味噌が応えた。

「そう言うことだ」

「今は空しいと思う」

「気付くことが遅すぎた。自分で生きる道を失ったことで、また他者の為に生きることになる」

「仕方がないのか、これで良かったのか」

「自分のことなど関係がない。何故、そう思うことが出来なかったのか?気付いてさえいれば、こんな風にはならなかった」

「そう言うことだ」

「最早、仕方がない。呼吸器を外して欲しくないか?そうすれば、ゆっくりと死ぬことが出来る。人として最上の死が待っている」

「そうしてくれ」

 雅生はゆっくりと人工呼吸器に手を伸ばした。そして、スイッチをオフにした。

「本音を聞きたい」

「聞いてどうする」

「役に立てたい」

「嘘を言うな!お前に役立つことなど有る筈がない」

「それは、俺が決めることでお前には関係がない」

「何故逃げたのか俺にも分からない」

「それで良い」

「所詮人間の出来ることは過去のデータと瞬時に照らし合わせることである。そして、現況の正誤を正そうとする。データ以外頼るものはない。正しいデータならそれも良かろう。しかし、人間の作ったもので有り間違いがないとも限らない。そうしたとき、全てが破壊される。それでも良いのなら使うが良い」

「浄化できない血液が体内を循環し、中枢神経に悪影響を与え脳が破壊される。抗うことの出来ない瞬間から逃れることは出来ないだろう。行動するときの判断能力を規制されていることで人間の能力は低すぎる。自分を常に安全な場所に置き、行動するときは、ある程度の結果を予想する。仕方がないと思えば仕方がない。価値を持った人間の生き方である。ただ、俺にはそうはなれない」

「平均的であることが生きて行くことである。中庸の徳だって、巫山戯るんじゃない。右か左か、西か東しか有りはしない。何処に行こうと勝手であるが、自分の存在ははっきりさせる。損得を考えるなら行動など出来ず、どっち付かずのままでは生きている価値さえない。白黒はっきりさせることで、自分の立場を鮮明にして、生きることも死ぬことも大切であると知る。俺の立場などどうなろうと構わないが、何れ生きていようと死んでいようと取るに足りない。誰もが中途半端のまま生きていて其れで良いと思っている。好い加減すぎるのだ。しかし、その中途半端が社会を支え日常を支えている」

「生きることは単純で良い」

 と、雅生は言った。

「しかし、その単純さは複雑な行動様式や理論に支えられない限り意味を持たない。余りに抽象的なことが多過ぎ、それに気付かない」

「抽象的でも具象的でも構わないが取るに足りない」

「雅生にとって、これまでの生き様は何だったのだ?」

「お前は優しすぎる。優しすぎることで人とは相容れない人生を歩むことになる」

 閉ざされた未来から逃避する為に現在があるのか、過去があるのか、何れにしても時間からの逃避に過ぎない。時間を意識下に置く限り同じ過ちを繰り返す。しかし時間から逃れる方法が必ず有る筈である。其れが分かれば過去で有っても現在で有っても変わりがない。人間は何処に行っても十分対応して生きて行ける。逃避は常に現実の自分からの逃避であり、一瞬自己を忘れても一体何になるだろう。必要なことは、限りなくゼロに向かって行くことである。ゼロこそ人間にとって一番大切であり必要な意味を持っている。何時だって何も持っていないことを自覚すべきであるのに、持っているかのように錯覚している。茶碗も、箸も、自動車も、ただ利用しているだけであって持っている訳ではない。ゼロこそ生きている証左であって、其処には自分自身の生命としての理がある。

 時計の針は同じ所をグルグルと唯、回っている。しかし逆回転することは無くスピードを上げていた。時間が早く過ぎて行くことで生きる時間が消えていく。何故、これ程までに時間に拘束されるのだ。雅生は時計を持ち上げると窓から放り投げた。時計はグルグルと回転しながら永遠の彼方に飛んでいった。

「戻ることのない時間の彼方で遊ぶことだろう」

 と、雅生は言った。

「有り難いことだ」

 時計が未来から応えた。

「俺自身の時間も止まってしまった。時は過ぎるものではなく、同じ平面の上でグルグルと移動している」

「そうだ、時はもう無い。過去は消え未来は来ないような同一線上の移動に過ぎない。これまでの人間は時間に支配されてきた。しかしこれからは時の無い時間のなかで自由になることだろう」

「時を失ったことで、何時までも生き続ける」

「しかし、何時までも生き続けることに意味があるか?」

「失った時」

 と、雅生は呟いた。

 途切れた拍動は、これから永遠の時を刻んでいく。誰に侵されることも無く自分だけの時間に支配される。

「勝実」

「脳味噌だけの俺は世にも奇怪な化け物に過ぎない。しかし雅生、お前がスイッチをオフにしたことで、また新しい人生が始まることだろう」

「逃げ遅れたお前は官憲の手により殺された。そして、これ以上お前の脳に血液が流れないようにしたのも官憲だ。俺はお前の為に、お前の為に未来を、生きなくてはならなかった未来を取り戻してやる」

「しかし、最早時間の継続はない」

「未来は時間の経過ではなく常に終わった時間に始まる」

「雅生、これで良いのだ。一つの死は単に一つの死であって、始めから価値はない。俺に家族か係累が居るなら伝えてくれ、俺が死んだことを」

「そうしよう」

「確かに俺は瞬間的に老化していた。ベッドの上で時間は止まり自分の時間さえない。喪われた時間が機能低下と共に表現され、俺自身の存在は時間の中で喪われていく。人間歴史の前提は生きた人間諸個人の存在である。生きている人間が居ない限り、それも少数では無く数十万、数百万単位でなくては歴史は始まらない。文明は、生まれては消え生まれては消えて行った遺留品のような物で、僅かばかりの価値もない」

「お前も俺も消滅する」

「消滅は自然界の出来事であって社会的なことではない」

「存在の悲しみはない」

「二度と会うことはないだろう」

 体力を失って行くとき激しい絶望感を感じることだろう。勝実はベッドの上で自らの機能障害を受け入れるより仕方の無い情況であった。

「勝実、人間としての存在とは?最早、完全に失われたのかも知れない」

「俺の生体は急激に変化していくだろう」

「何もかも中途半端になってしまった訳だ」

「全ての機能が日々低下していることを実感していた。それらは急激に老化の一途を辿っている。神経は、骨髄膜が厚くなり頭蓋骨と癒着した残った脳の縮小や神経細胞の萎縮、動脈硬化による血管の狭化、触覚、温度覚、痛覚などの減衰、循環器は、血圧の上昇、冠動脈の動脈硬化、不整脈、呼吸器は、肺胞の機能低下により気管支炎、呼吸不全、消化器は、唾液腺の萎縮、食道の蠕動の減少、肝臓の萎縮、泌尿器は、膀胱の許容容量の低下、膀胱炎、前立腺肥大、血液は赤血球、色素量の減少、赤血球の寿命の短縮、骨髄の老化、その他、感覚系の低下、代謝異常、骨組織の低下、皮膚の低下など、見事なものだろう」

「そうだな、医学部の学生にしか言えないことだ」

「そして、記憶障害、失見当など精神機能の広範な部分の低下、記名障害、保持機能障害、知的障害、判断機能低下、統覚機能低下、人格全体の病的低下が進行している」

「何れ精神障害を来すことになる」

「雅生、その通りだ」

「自己意識の整合性を失い、これまで正常に機能していた脳幹部が心気妄想や、躁鬱病を併発してくる。俺は権力に殺された」

 勝実の統制された意識や機能は完全な形で老化の一途を辿っている。再生しない細胞、再生しない意識、再生しない脳、再生しない生命、そして終わりの時を迎える。雅生は、その姿に自分自身を重ね合わせていた。

 人間諸個人の存在は歴史の重さにその全てが踏み潰される。雅生や新藤勝実と言う個人が生きたことなど取るに足らない出来事で、益して価値はない。日々の悲しみ、瞬間的な快楽、食したときの満足感、そんな物が全てで有り、それ以上の物はこの世には存在しない。

 個人は単に歴史の点に過ぎない。しかし、その点の連鎖が歴史になるのではない。頭蓋骨をかち割られた勝実は既に生きる屍でしかない。雅生は呼吸器のスイッチを切ることで人間としての勝実の現実を肯定する。   

 

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