山に越して

日々の生活の記録

山に越して 遠景の向こうに 12-06

2014-10-25 15:14:01 | 中編小説

 遠景の向こうに

  六

  男や女たちが帰宅を急いでいた。擦れ違っただけの二度と会うことのない人々、共有することのない、関係のない時間に私の意識は凍り付いていた。時間だけが過ぎていた。

 感覚をただ一点に集中するかのように女は立ち尽くしていた。側に行きたかった。しかし、傘の内側に人を寄せ付けない悲しみがあった。雨を見遣りながら、当て所のない未来と幸子への思いが交錯していた。

 

 大きな窓の向こうに拡がる湖・・・夏の賑やかさを迎える前の静かな季節でした。その日、貴方に会う前から緊張していた。だって、初めて二人きりで夜を過ごす日だった。私は未だ何も知らなかったし怖かった。

 鎌倉で待ち合わせをしました。蓮池の木陰のベンチに掛けていた貴方・・・貴方だと分かっても直ぐに近付くことが出来なかった。私は反対側のベンチに行き、暫くの間貴方を見ていた。時々俯き加減に蓮池に目を遣っていた貴方、そんな貴方の姿がたまらなく好きだった。貴方は三十分近くも私のことに気付かなかった。小さな池には小さな魚が飛び跳ねていた。落ちるところを間違えた小魚が葉の上に乗ってまた水の中に落ちていた。

 幾つかの峠を越えた向こうに湖が見えてきた。湖面は夕靄に包まれていた。湖岸に車を停め寄せる波音を聞いていた。辺りはすっかり暗くなり湖には人の影さえなかった。貴方は車から降り星空を見上げていた。でも、すぐに戻って来てくれた。それが貴方の優しさだった。

 二つ並んだベッドを引き寄せ、『おいで』と言った貴方・・・『暗い湖が綺麗』と答えた私・・・湖を見つめている私の肩を抱いて、『好きだよ』と言った貴方・・・私は何時までも貴方の胸のなかで泣いていた。

 夏が過ぎ秋になっていた。夕暮れの海、私は貴方を残したまま汀を走っていた。貴方の足音は聞こえてこなかった。私が振り返るのを待っていたのでしょうか、それとも戻って来るのを待っていたのでしょうか、声を掛けても届かない所で貴方は遠い海を見つめていた。海は静かに波を寄せ砂浜は未だ暖かだった。貴方は私の身体を引き寄せ唇を重ねてきた。あの時が初めてだった。二十一歳で知った初めての口づけだった。『好きだよ』と言った貴方・・・貴方の腕に凭れながら満たされていく私を見ていた。星が輝き始めていた。小さな漁船が通り過ぎていった。海は静かで寄せる波音は優しかった。貴方は何も語らなかった。闇が迫っていた。貴方は遠い海の果てを見ていたのでしょうか、それとも既に行き場のない二人の姿を見ていたのでしょうか、星明かりの許、時だけが過ぎていた。朝まで波音に抱かれていたかった。貴方に凭れたまま、その腕のなかで温もりを感じていたかった。私の思いも感覚も貴方のなかに吸収されていた。

 東京に戻る時間が迫っていた。でもこのまま一緒に、波音に抱かれるように時間が止まって欲しかった。愛することは、愛する人のなかに全てを吸収されてしまうこと。何時も何時までも変わらない思い、持続していく思い、それが愛なのでしょう。貴方と私のなかに、一日一日と創り出され、身体のなかに蓄積されていくもの、それが愛なのでしょう。貴方を感じることで、少しずつ自分のことが見えるようになっていた。愛することの意味も苦しみも知らなかったけれど、確かに貴方を感じていた。

 湖に行った日から五箇月が過ぎていた。夜明けまで湖を見ていた私・・・貴方の腕のなかで涙に濡れていた私・・・切ない愛だった。その日から今日迄待っていた。待っていることしか出来なかった。でも、辛くなかった。待つことは、待っている私のなかに貴方が居ることと同じだった。二十一歳まで愛することを知らず、何時も独りぼっちの私がいた。でも、もう独りではないことで仕合わせを感じることが出来た。

 湘南の海を離れ雑踏の街に戻ってきた。でも、貴方と離れることが厭だった。『一緒にいても良い?』と言った私・・・窓外にビルの照明や小さな公園の見えていた部屋・・・ベッドと小さな机で一杯になってしまう部屋・・・暗い部屋のなかで初めて素肌を寄せあった。貴方は私の濡れた瞼に何時までも唇を当てていた。唇が首筋を這い私の乳首に触れたとき、身体中を戦慄が走っていった。『幸子』と、呟いた声に少しだけ首を振ってしまった私・・・貴方の唇が、指先が、少しだけ躊躇い、指先は乳首の上に置かれたままになっていた。私の身体は小刻みに震えていた。『抱いて』と、言えなかった私・・・躊躇っていた貴方・・・。

 私が初めて口づけをして素肌を寄せあった日だった。貴方のものになりたかった。愛しているのに、貴方に愛されることを願っていたのに・・・何故あの時、私を、私の全てを貴方のものにしてしまわなかったのでしょう。優しすぎた貴方・・・その腕のなかで涙を流していた私、止まることのない涙だった。眠ってしまった貴方の唇に触れ、心の中で、『抱いて下さい』と言っていた私・・・時間だけが過ぎていった。既に東の空が白み始めていた。


山に越して 遠景の向こうに 12-05

2014-10-25 15:00:11 | 中編小説

遠景の向こうに  

  雨足は行き交う人々を一瞬立ち止まらせていたが、後から後から押し出されるように駅前から離れていった。私は女に近付いて声を掛けたい衝動に駆られていた。幸子かも知れない。幸子であることを心の何処かで願っていた。

 二度と会うことのない幸子、もしも幸子であれば、失われた時を取り戻すことが出来るのかも知れない。平々凡々とした生活から抜け出せるのかも知れない。そんな浅はかな思いで女を見ていた。

  長い手紙だった。大学ノートに埋め尽くされた細かな文字に込められた一つ一つの別れの言葉・・・日々の記憶は薄れていくのに、時を経るに従って細部まで思い出すことが多くなっていた。忘れようと思っても、脳裡の奥深い所に残土のように残っていた。

 その日、廊下の長椅子に座り煙草を吸っていた私は、玄関から入って来る三人の姿に気付いた。二人の後に隠れるように付いてきたのが幸子だった。俯き加減に歩いていた幸子の姿に、眠らない子だな・・・と、そう感じた。和毛の可愛い壊れてしまいそうな子だった。幸子の全身に漂う雰囲気を一瞬にして知った私は、私のなかの忘れられていた憂鬱さを感じていた。

 幸子に何を求めようとしていたのだろう。失った青春の翳りを、熱情を取り戻したかったのか・・・教育実習の終了日だった。場所と日付の書いたメモを渡していた。幸子は何も言わず受け取った。その数日前のことだった。三人を前にして、『人を愛さなくてはいけない』と言った私は、『貴女を愛したい』と言い換えていた。幸子は直感的に感じていた。

 私は東京での学生生活も終わり、郷里の高校の教諭になり四年目が過ぎていた。何も必要としない生活、感情も感性も捨て、日常の中に埋没していた。そして、私の亡骸は仕事の中に捨てていた。考えることを止め感じることを止めた生活だった。既に幼い子がいた。幼い子と遊ぶことで良い父親だったのだろう。しかし日々が惰性だった。そして、惰性を変える必要はなかった。生きることを捨てたことで老いていく私を見ていた。

 愛することは、その人を永遠に許容する。その人のなかで生きることが、仮令悲しみの内に終わろうともそれが愛なのだろう。しかし人は愛することに疲れていく。愛する思いが薄れるのではなく、唯、疲れていく。そして、その人への愛を終わろうとする。しかし愛は深淵の底に、永遠の水圧に閉じ込められるように感じなくてはならない。愛することの辛さも、待つことの苦しみも、沈み行く過程で浄化される。瞬間が永遠となり、永遠は瞬間に凝縮されるように愛さなくてはならない。

 何故生きているのか、何故生きなければならないのか、私には分からない。しかし愛することはその一つの答えなのかも知れない。愛することに依って生きていることを感じていられる。しかし私の感性は仕事に情熱を感じることも生活に明日を感じることもなく摩滅していた。身体中を虚しい風が吹き抜けていた。この虚しさを癒してくれるのは幸子に会う時だけだった。一緒に眺めた景色、歩いた街、その一瞬一瞬のなかに幸子を感じ、生きていることを感じていた。幸子との、二人の生活を考えていたと言えば嘘になるのだろうか・・・家族を捨て、家を捨て、仕事を捨てる。そうすることで幸子の愛を得ることが出来たのだろうか・・・恐らく幸子は私を許すことはなかったのだろう。失われた生活の向こう側に愛があり、基盤を持たないことで愛の幻想に突き進んでいく。それは、内面を制する規範を持たないことや、錯綜する思いを押し遣ることで愛していると錯覚する。

 幸子への愛は出口のない泥濘に陥っていた。しかし私は単に臆病で、自分自身を鍛えるような確固とした思念を持つことが出来なかった。そして、愚昧な日常から抜け出すことをしなかった。幼い子のことを考え、仕事、家庭、幸子と現象面のみに捉えられ、その過程で堂々巡りをしていたのに過ぎない。幸子を苦しませることも、自分が苦しむことも怖れ、曖昧で無為な日常を送ることで確定的なことから逃げていた。幸子は、私の不明瞭な態度に不安定になっていたのだろう。そして、私の愛し方は幸子を執拗に追い詰め、青春を徒に浪費させたのに過ぎなかった。

 加速度的に過ぎていく青春を、内面の激しい葛藤を、最早摩滅した感性で捉えきることが出来なく、私の日常は煩わしい諸事に明け暮れていた。幸子の清純さは、妥協することも迎合することも許容しない。有らん限りの努力は始めから徒労に過ぎなかったのかも知れない。そして、そんな風にしか愛せない私の躊躇いを幸子は知っていた。何故、愛したのかと問われても今では分からない。生きることに疲れていた私は夢中になれるものが欲しかった。そこに偶々幸子が現れた。しかし私に残された最後の機会ではなく、幸子に出会えたことが始まりだったと気付くことはなく、真摯に自己に問い掛けていくことが、幸子に対する答えだったと、そのことに気付かないまま時が過ぎていた。

 実習が終わり幸子は帰っていった。私が渡した小さな紙片を握り締めていたのに違いない。それが幸子の生きる糧になり、私と出会ったことの証だった。幸子は私の愛を受け入れ、既に激しく葛藤していたのだろう。松本を去るとき、学校の方角を一瞬見たのかも知れない。花を語り、木々を語り、生きることの悲しみや寂しさを語っていた幸子だった。そんな幸子に私は苦しみだけしか残さなかった。


山に越して 遠景の向こうに 12-04

2014-10-23 12:42:51 | 中編小説

 遠景の向こうに

  四

 

 女の身体は確りと雨に包まれていた。飛沫で濡れている女に同情ではなく愛情を感じ始めていた。そして、現れない相手に憎しみと嫉妬を感じていた。

 幸子と松本で待ち合わせをしたことがあった。雪の舞い散る日だった。駅前の喫茶店で会うことになっていたが、幸子はその店の入り口で立ち竦んでいた。コートの先に雪が絡みつき、指先は凍えるように冷たくなっていた。喫茶店に入れなかった幸子への思いと、立ち尽くしている女の像が重なっていた。

 

 虚無感の漂う日々届く筈のない手紙を待っていた。秋が過ぎ冬も終わろうとしていた。二月の末、雪の降る日があった。夜遅くに降り始めた雪は翌日の明け方まで続いた。窓を開け、まんじりともしないで眺めていた。そして、雪明かりの向こうに貴方の姿を探していた。『愛しています・・・』と、呟いた言葉は降る雪のなかに消え、貴方の許に届くことはなかった。

 春が来ていた。四月からOLとして働いていた。毎日毎日家と会社の往復の生活だった。学生時代の友人たちは、それぞれ故郷に帰り会う機会がなくなっていた。単調な日々、遣り切れない虚しさと寂しさが続いていた。貴方を忘れようとしていた。そして、何時しか春も終わり初夏になっていた。この夏さえ乗り切ることが出来れば、貴方がいなくても独りで生きられるだろうと思っていた。そんなことを考えていた日々、貴方からの手紙が届いた。黒いインクで書かれた細目の見慣れた文字が何通かの封書の間に見えた時、体内からスーッと血の気が引いていくのが分かった。直ぐ開封することも出来なく厚めの封書を何時までも見つめていた。

 会うことのなかった日々、私への思いが記されていた。嬉しかった。貴方の思いを知り待っていた苦しみは消えていった。私の愛は終わっていなかった。貴方に会うことで愛することが生きることが出来る。甘え、その腕に抱かれることを願った。再会の日まで後数日だった。待つことがどんなに嬉しいことでしょう。貴方の為に可愛くなりたかった。鏡を覗いたり、洋服に迷ったり、私のなかに別な女の子が住んでいるようだった。そして再会の日、甘え抱かれてさえいれば・・・。愛する人に抱かれることを躊躇ってしまった私・・・あの日、二人の身体が触れ合い、思いを、愛する思いを確かめ合うことが出来ていれば・・・何故、躊躇ってしまったのでしょう、決して厭だった訳ではない。接吻も、触れる指先も好きだった。貴方の愛を受け入れ身を任せていた筈だった・・・貴方はとても苦しい顔をしていた。私に対してなのか、貴方自身に対してなのか、その時には分からなかった。でも、あの時の貴方は自分自身に対してあれ程暗く辛い顔をしていたのですね。

 貴方に私の全てを預けることで、屹度、苦しくても辛くても二人で生きることが出来たのでしょう。二十三歳になっていながら私は未だ未熟だった。何も分からない私は、貴方の腕の中にいることで仕合わせだった。それだけで嬉しいと思っていた。でも、あの時の一瞬の躊躇いが、今貴方への別れの手紙になっているのですね。愛しています。こんなに愛しているのに、何故別れの手紙を書いているのでしょう・・・優しい貴方は、別れの言葉さえ受け入れてしまう人・・・何時も私を許してしまう人・・・。

 

 再会の日から一年が過ぎました。貴方の腕の中にいることで毎日が仕合わせだった。そして、貴方の優しさに触れることで私も優しくなれた。二人だけの時間、二人だけの思い、二人だけの会話、何時も二人きりだった。でもそれは、ひとときのことでしかなかった。ひとときの中に凝縮された愛だった。貴方の眼差しに映る私は、その眸の中で何時も小さく震えていた。そして、『幸子』と呟く貴方の声に私の全身が応えていた。優しい貴方、会う度に私は自分が変わっていくことを知っていた。貴方と歩いた街、貴方と乗った列車、貴方と走った汀、小さな湖が見える部屋、漁船の明かりが見え隠れする海辺の部屋、山間の白樺林に囲まれた静寂の部屋、貴方との思い出が脳裡を過ぎっていきます。

 貴方は私の為に何時も一冊の本を用意してくれた。貴方は目を閉じたまま語っていた。詩を朗読してくれた。童話を語ってくれた。貴方の語らいに私の胸は満たされていた。でも、貴方の優しさが怖かった。消え入りそうな優しさが悲しかった。貴方の、心の透き間を私に埋めることが出来るのか不安だった。

 私は貴方を求め貴方に会えることで生き返ることが出来た。しかし会えない日々少しずつ乾いていた。逢瀬はそんなことの繰り返しだった。でも、時々貴方は悲しそうな顔をしていた。私の手の届かないところで苦しみに耐えていた。何も出来ない私は、貴方に意地悪をして甘えるしかなかった。でも、貴方は怒りもしないで笑って遠くを見ていた。何時も会えない貴方だったけれど、共に苦しみ困難を乗り越えていきたかった。でも本当は、私のものに、私以外の誰にも渡したくなかった。そんな私の思いに貴方は気付いていなかった。私の張り裂けるような叫び声が聞こえていなかった。


山に越して 遠景の向こうに 12-03

2014-10-22 18:41:55 | 中編小説

遠景の向こうに

  三

  私は女を見ていた。降り頻る雨の中、その場に居なくても良いのではないかと思った。恋人を待っていたのだろうか、それとも行き場を失ってしまったのか、不可解な様子に不安が募っていた。行き交う男たちがまじまじと女を見遣っていた。私の前を通り過ぎながら、「良い女だな」と言う声が聞こえ、私の内面は無性に苛立っていた。

 

 貴方と私は漸く会うことが出来ました。私の探していた人がいたのです。貴方は、出会いの瞬間から私の内面を見抜いていた。そして、心のなか深く入ってきた。

 松本駅に降り立った日、実習が無事出来るのか不安だった。教育関係に向いていないのは分かっていた。でも、違う自分が見つかるのではないかと思い望んだ実習でした。それまでの私は、闊達で笑顔を作って元気な子を演じていた。嘘で身を固め、殻のなかに閉じ隠って、心のなかを人に知られないようにしていた。でも本当は、何時も何時でも悲しくて寂しい毎日だった。人と一緒に過ごすことが出来なく、中学生の時も、高校生の時も、そして大学に入ってからも、草花を眺めていることや詩や本を読んでいることが好きだった。

 教育実習も後数日を残していた。その日、クラブ活動が終わり掛けていた頃、貴方は、見学していた私たちに教育のこと学生生活のことを少しだけ語った。そして、最後に小さな声でひとこと言った。『人を愛さなくてはいけない・・・』と、その言葉は私に向けられていたと直感した。何故私に、と思いながら、心が微かに震えていたのが分かった。そして私は、これから先貴方のことを愛して行くのだろうと、その瞬間感じていた。これまで人を好きになったことや、人から愛されているのではないかと思うときが何度かあった。でも、その時の感覚は未だ経験したことのないものだった。微かな震えは振幅を繰り返し、私の心は何時までも震えが止まらなかった。

 二人が初めて東京で会った日、貴方の内面に、愛に触れていた。月に一度か、二箇月に一度しか会えなかったけれど、貴方を知って行く度に、これまで満たされることのなかった思いが充足されていくのが分かった。愛されていることが嬉しかった。愛されていることで日々の苦しみを乗り越えることが出来た。

 

 冬の初めの出会いから春が過ぎ夏も終わろうとしていた。私は未だ迷っていた。しかし就職先を決め、自分の道を歩いて行くしかなかった。そんな苦しい日々を送っていたとき貴方からの手紙が届いた。別れの言葉は一言も無かったけれど、読み終えたとき別離を感じていた。胸のなかに拡がる虚しさは悲しみと混じり合い凍り付いていった。頬を伝わる涙は枯れるまでそのままにしていた。そして、皮膚は水分を失ってしまったのか、夏の暑さも感じなくなっていた。この夏を境に貴方との距離を拡げてしまったのは私だった。出会った時から貴方の許で生きることを願っていたのに、何故、貴方の許に行くと言えなかったのでしょう・・・。

 会えない日々、貴方を求め貴方のことを考えていた。愛することを教えてくれたのも、愛されることを教えてくれたのも貴方だった。貴方以上に私は、私は・・・愛していた。でも、もう会えなくなってしまった。私を東京の片隅に残したまま、今まで以上遠くに行ってしまった貴方だった。

 何が二人の間を遠ざけてしまったのでしょう。貴方の家族が住む松本の街・・・私の入り込む透き間がないのか、入り込むことで、貴方との関係を壊すことを怖れていたのか、何れにしても既に貴方を失っていた。貴方を知ってまだ一年も経っていないのに、何故、別れの手紙など送ってきたのでしょう。

 愛することの行き着く先は何時しか虚しさに変わる。いえ、そんな筈はない。愛することは何も望まないこと、何も得ないこと、貴方と私の関係は純粋に二人だけのことだった。会えない日々何を考えて良いのか、何をして良いのか分からなかった。唯、貴方のいないことに慣れて行くしかなかった。何時でも、何時までも貴方のことを考えているのでしょう。そして、貴方が考えたように考え、行動したように行動するのでしょう。貴方の思惟から逃れられないのではなく、貴方と共にしか生きられないことを知っていた。私が望んだことは、貴方の許に居ることだった。でもそれは、貴方を苦しめ、距離を縮めるのではなく依り拡げてしまうことだった。貴方と私は、離れていても時々会うことが出来ればそれで良かった。でも、もう戻って来ない。私は毎日毎日郵便受けを覗いては微かな溜め息を付いていた。

 夏休みが終わりかけた頃友人と大学生最後の旅行に行った。そう、松本の近くの小さなホテルで三日間を過ごした。日中は高原を散歩して、夜は貴方への思いを一冊のノートに綴っていた。思いを込め、ペン先の向こうに見える寂しげな眼差しに語り掛けていた。貴方の思いも、私への思いも変わっていないことを信じていた。貴方への愛は永遠であり、私への愛も永遠だと知っていた。何時も、何時だって変わることのない愛を知っていた。それが二人の愛だった。ノートに文字を埋め乍ら、また会えると信じていた。でも、そのノートも貴方の手許に届くことはなかった。

 私が生きることは、日々のなかに自分自身を溶解させるような生き方だった。自然に溶け込む風や日差しのように一体となることを望んでいた。そして、日常から、肉体的にも精神的にも解放されることを願っていた。