遠景の向こうに
六
男や女たちが帰宅を急いでいた。擦れ違っただけの二度と会うことのない人々、共有することのない、関係のない時間に私の意識は凍り付いていた。時間だけが過ぎていた。
感覚をただ一点に集中するかのように女は立ち尽くしていた。側に行きたかった。しかし、傘の内側に人を寄せ付けない悲しみがあった。雨を見遣りながら、当て所のない未来と幸子への思いが交錯していた。
大きな窓の向こうに拡がる湖・・・夏の賑やかさを迎える前の静かな季節でした。その日、貴方に会う前から緊張していた。だって、初めて二人きりで夜を過ごす日だった。私は未だ何も知らなかったし怖かった。
鎌倉で待ち合わせをしました。蓮池の木陰のベンチに掛けていた貴方・・・貴方だと分かっても直ぐに近付くことが出来なかった。私は反対側のベンチに行き、暫くの間貴方を見ていた。時々俯き加減に蓮池に目を遣っていた貴方、そんな貴方の姿がたまらなく好きだった。貴方は三十分近くも私のことに気付かなかった。小さな池には小さな魚が飛び跳ねていた。落ちるところを間違えた小魚が葉の上に乗ってまた水の中に落ちていた。
幾つかの峠を越えた向こうに湖が見えてきた。湖面は夕靄に包まれていた。湖岸に車を停め寄せる波音を聞いていた。辺りはすっかり暗くなり湖には人の影さえなかった。貴方は車から降り星空を見上げていた。でも、すぐに戻って来てくれた。それが貴方の優しさだった。
二つ並んだベッドを引き寄せ、『おいで』と言った貴方・・・『暗い湖が綺麗』と答えた私・・・湖を見つめている私の肩を抱いて、『好きだよ』と言った貴方・・・私は何時までも貴方の胸のなかで泣いていた。
夏が過ぎ秋になっていた。夕暮れの海、私は貴方を残したまま汀を走っていた。貴方の足音は聞こえてこなかった。私が振り返るのを待っていたのでしょうか、それとも戻って来るのを待っていたのでしょうか、声を掛けても届かない所で貴方は遠い海を見つめていた。海は静かに波を寄せ砂浜は未だ暖かだった。貴方は私の身体を引き寄せ唇を重ねてきた。あの時が初めてだった。二十一歳で知った初めての口づけだった。『好きだよ』と言った貴方・・・貴方の腕に凭れながら満たされていく私を見ていた。星が輝き始めていた。小さな漁船が通り過ぎていった。海は静かで寄せる波音は優しかった。貴方は何も語らなかった。闇が迫っていた。貴方は遠い海の果てを見ていたのでしょうか、それとも既に行き場のない二人の姿を見ていたのでしょうか、星明かりの許、時だけが過ぎていた。朝まで波音に抱かれていたかった。貴方に凭れたまま、その腕のなかで温もりを感じていたかった。私の思いも感覚も貴方のなかに吸収されていた。
東京に戻る時間が迫っていた。でもこのまま一緒に、波音に抱かれるように時間が止まって欲しかった。愛することは、愛する人のなかに全てを吸収されてしまうこと。何時も何時までも変わらない思い、持続していく思い、それが愛なのでしょう。貴方と私のなかに、一日一日と創り出され、身体のなかに蓄積されていくもの、それが愛なのでしょう。貴方を感じることで、少しずつ自分のことが見えるようになっていた。愛することの意味も苦しみも知らなかったけれど、確かに貴方を感じていた。
湖に行った日から五箇月が過ぎていた。夜明けまで湖を見ていた私・・・貴方の腕のなかで涙に濡れていた私・・・切ない愛だった。その日から今日迄待っていた。待っていることしか出来なかった。でも、辛くなかった。待つことは、待っている私のなかに貴方が居ることと同じだった。二十一歳まで愛することを知らず、何時も独りぼっちの私がいた。でも、もう独りではないことで仕合わせを感じることが出来た。
湘南の海を離れ雑踏の街に戻ってきた。でも、貴方と離れることが厭だった。『一緒にいても良い?』と言った私・・・窓外にビルの照明や小さな公園の見えていた部屋・・・ベッドと小さな机で一杯になってしまう部屋・・・暗い部屋のなかで初めて素肌を寄せあった。貴方は私の濡れた瞼に何時までも唇を当てていた。唇が首筋を這い私の乳首に触れたとき、身体中を戦慄が走っていった。『幸子』と、呟いた声に少しだけ首を振ってしまった私・・・貴方の唇が、指先が、少しだけ躊躇い、指先は乳首の上に置かれたままになっていた。私の身体は小刻みに震えていた。『抱いて』と、言えなかった私・・・躊躇っていた貴方・・・。
私が初めて口づけをして素肌を寄せあった日だった。貴方のものになりたかった。愛しているのに、貴方に愛されることを願っていたのに・・・何故あの時、私を、私の全てを貴方のものにしてしまわなかったのでしょう。優しすぎた貴方・・・その腕のなかで涙を流していた私、止まることのない涙だった。眠ってしまった貴方の唇に触れ、心の中で、『抱いて下さい』と言っていた私・・・時間だけが過ぎていった。既に東の空が白み始めていた。