二 酒場の女
刺激するような香水を付けた女達に囲まれていた。接待以外クラブで飲むことは無かったが、安看板が目に入った。金は給料日の後下ろしていたので心配なかった。
会社に戻るにしても時間が遅過ぎ直接帰る旨の連絡を入れた。
「河埜ですけれど、部長はいますか?・・・」
「お疲れさまです。先ほどお帰りになりました」
電話には佐知子が出た。
「分かりました。報告は明日にして帰ることにします」
「河埜さん、待って下さい」
「何か」
佐知子は何も言わず受話器を握りしめていた。
「もしもし?」
「御免なさい。疲れているのに・・・」
「電話切っても良い?」
「はい、お気を付けて」
慎一には人を寄せ付けない感じがあった。佐知子は慎一の優しさを知っていても、それが深過ぎるように思っていた。
その日の午後、慎一は八王子に来ていた。閉店の相談だったが、部長から兎に角引き延ばすように言われていた。しかし話を聞いているうちに面倒臭くなり、これ以上話しても仕方がないと思い引き上げた。
「お名前教えて?」
「河埜」
「何をしているの?」
「サラリーマン」
「無愛想な人ね・・・」
と、女は優しく絡んできた。
「会社で辛いことでもあったの?甘えて良いのよ」
と、別の女が言った。時間が早かったのか、店内には殆ど客がいなかった。
「ねえ、斯ういう所初めて?」
「此処では楽しまなくちゃだめよ!」
「好きな子を選んで!」
「二人きりにさせて上げるから」
次々と慎一の耳元で囁いた。
「では、あの子を」
と言って、入り口付近で手持ち無沙汰に立っていた子を指した。小柄で高校生のような感じの子だった。
「淳子ちゃん、此方のお客さま、お願い!」
淳子は指名されたことが嬉しかったのか、ニコニコしながら慎一の席にやってきた。
「お願いね、淳子ちゃん。此方のお客さま色気が強いと駄目みたいなの」
「いらっしゃいませ。お飲み物は何に致しましょうか?」
「ビールで良いよ」
「お名前教えて?」
「河埜」
「こうの?」
「そう、河埜慎一って言う」
「河埜さんって、初めて?」
「何度か接待で来たことはあるけれど一人ではない」
「正直な方ね」
「嘘を言っても仕方がないだろう」
「いいえ、みんな嘘の固まり」
「そうかな?」
「この世界は嘘ばかりで本当のことは何もない。例えば私、淳子って言われているけれど、本当は希実って言う名前、変でしょ?希望の希に、実るって書いて希実」
「希実の方が素敵だね」
「ほら、嘘を付いている。本当は変だと思っている」
「何歳?」
「二十二歳、でも、それも嘘!!本当は二十七歳」
「二十二、三歳に見えるけれど!」
「私って馬鹿でしょ、若く見えるだけ」
「淳子ちゃん、触らせて上げた?」
通りがけに先ほどのホステスが声を掛けた。
「御免なさい。余計なことばかり喋っていて」
「偶には斯う言うところで飲むのも良いだろうと思って、触りに来た訳ではない」
「変わっているのね。だって此処に来るお客様って、それが目当てでしょ?」
「良いんだ、ゆっくり出来れば!」
「そんなこと言っていると財布の中身が空っぽになってしまうわ。それでも良いの?」
「何時もは赤提灯でしか飲まないが、ついフラフラと入ってしまった。人恋しくなったのかも知れない」
「私って詰まらない女でしょ?」
「そんなことはない」
「だって、男の人の気持ちなんて分からない」
「男は助平で女に触りたいって?」
「そう、男なんて嫌な生き物」
「なのに、男の酌をしている」
「こんな所早く抜け出したい。稼いで、貢いで、捨てられる。女って馬鹿ね」
「彼氏、いるんだ」
「嫌な奴」
「別れてしまえば良いじゃないか?」
「そうしたいけれど、女って駄目ね。ねえ飲みましょ、楽しみましょ、高いお金出すんだもの」
そう言って希実はビールを注いだ。
慎一は希実が何を言いたいのか考えていた。何れにしても男と女しかいなかった。それぞれの生き方があり、他人には入り込むことの出来ない生活を持っていた。
「ねえ、何考えているの?」
「俺は何を求めているんだろうって!」
「貴方って変な人ね」
「そして結論は、求めても必要な物はこの世にはない」
「そうかな?」
「俺も、希実ちゃんも、この建物も、飲んでいるビールも全て幻かも知れない。例えば現在を一九九九年と仮定する。しかしタイムスリップした時代で、本当は二〇五〇年であっても良い。そうすると希実ちゃんは後三年で八十歳になる」
「幻なの?そして、私は八十歳で水商売しているの?」
「八十歳のお爺さんとお婆さんが乾杯している」
「その間の五十年はどうなるの?」
「必要がないことになる」
「分からない」
「必要な時間ではないし、何をして生きていたのかも必要でない。必要な物は何処にも無かったことになる」
「みんな必要なことじゃない。お金が必要だし、洋服が必要だし、家が必要だし、子供だって必要でしょ。食べることも、仕事も、生きていることも必要なことよ」
「必要だと思っても何も残っていない。みんな消えてしまう」
「だから幻なの?」
「そう、幻の時間を生きている」
「幻なら、私の苦しみも悲しみも無かったことになるの?逃げ出したいと思っても耐えられるの?」
「逃げ出しても良いし、このままでも良い。どちらにしても必要なことではない」
「ねえ、逃げ出した私のこと面倒見てくれる?」
「良いよ」
「信じても良いのね」
慎一は本当にそう思っていた。
・・・それにしても、あの酒店は今頃になって何故廃業しようと思ったのだろう。得意先を何件も持ち、順調な売上高を確保していた。廃業すると言っている限り、他の問屋が横やりを入れていることはないだろう。予期しないことで土地を手放し、家を手放し、生活の基盤を変えなくてはならない。誰の責任でも何が悪い訳でもない。何時までも同じ儘でいられないと分かっていても、あの家族は一瞬にして八王子の街から消えるだろう。所詮、人間は消滅と再生を繰り返してきた。地球誕生から四十六億年、人類が誕生して三百五十万年、紀元前四千年に始めて地上にシュメール文明が生じた。けれども、その文明さえも一瞬にして砂丘の下に埋もれてしまった。その後アッシリア文明は戦いに敗れて滅亡し、バビロニア文明は興隆と没落を繰り返して滅びた。それから六千年後に俺が生きている。生まれては消滅を繰り返し、数え切れない人間が死んだことになる。戦いに駆り出され伐たれて死んだ人間、自ら命を絶った人間、病で死んだ人間、何れにせよ偶然に生まれ必然的に死んでいった。歴史は学者や学問にとって必要であったかも知れないが、個々の人間の死には必要でない。文明が滅んでも何も変わらなかったように、一軒の酒店が滅んでも何も変わらないだろう・・・
「ねえ、何考えているの?黙り込んでしまって!」
「アッシリア文明は何故滅んだのか考えていた」
「なあに、それ?」
「今から六千年前の女たちは美人だった。希実ちゃんに負けないほどの美人が多かった」
「私って美人かな?」
「可愛いよ」
「嘘ばっかり」
「君となら結婚しても良いと思う」
「貴方って可愛いのね」
「何が?」
「だって、真面目な顔して言うんだもの」
「俺のこと、信用しても良いと思えば電話をくれ。もう帰るよ」
と言って、慎一は名刺を渡した。渡しながら「待っているよ」と耳元で囁いた。希実は、「屹度」と言って送ってきた。
夜の街は九月の中旬だと言うのに風が冷たくなっていた。慎一は駅まで歩きながら希実のことを考えていた。酒には酔っていなかったが内面は酩酊していた。この地上に何億という人間が生まれ、何も知らず歳を重ねる人生であっても、享楽の人生であっても、苦痛だけに苛まれる人生であっても、何れ死に絶えていく。温度が沸点に達すれば後は冷えていくより仕方がないように、多くの民族が栄華衰退を繰り返してきた。生まれては消滅し、何れは何も残らない廃墟と為す。全てが地上から消え、無の世界に帰すれば、人間の意味は無くなり歴史の終焉を迎える。そして、慎一自身の歴史は慎一の中で閉じられることになる。
次回 三 同僚