山に越して

日々の生活の記録

鷺草(さぎそう) 16-14

2017-12-05 08:56:37 | 中編小説

 十四

 

 裕二は図書室にいた。読書することの楽しみを少しずつ身体で感じ始めていた。土曜日や日曜日、独居にいるとき、読書することで自分自身を変えようとしていた。

「裕二、腕章の色が変わったな」

 と、齋藤が言った。

「お前もな」

「このまま行けば年度内に出られるかも知れない」

「そう言う訳にはいかないだろう」

「さにあらずだ」

「退院出来れば良いが!」

「二段階特進がある」

「どう言うことだ」

「成績が良ければ今年中に上下と進む。此処を出院して家族のところに帰れると言う訳だ。次から次ぎへと入院してくる。何時までもいたのでは直ぐ一杯になってしまう。トコロテンじゃないが押し出されるって訳だ」

「成績か・・・」

 と、裕二は溜め息を吐いた。

「大人しくしていれば兎に角出られる。誰とももめ事を起こすな。一度起こせば一ヶ月ずつ延びる。此方には権利も自由もない。それを忘れるな」

「権利も自由もないか」

「塀は外から眺めるものであって内側から見るものではない。此処を出なければ何も始まらない」

「齋藤はいつ頃出院出来る?」

「三月中だろう」

「一緒に大検受けようぜ」

「そうしよう」

「俺は農工学部を受ける。卒業した後北海道に行きたい。隣の家まで車でなければ行けないようなところに住みたい。屹度、修学旅行の印象が残っているのかも知れない」

「北海道か、良いところだろうな!しかし世の中、何処に住んでも生きる喜びがなければ生きられない。俺は地道に生きる。地道さのなかに、地に根差した生き方をしたい。黙々と働きながらも人間としての矜持を忘れないようにする」

「支えになるものは一体何だろう?」

「俺は、俺自身に負けたくない。その為にも一生懸命勉強をする。そして、何年掛かろうとも必ず建築関係の大学に行く。早く気付くべきだった」

「何も考えないように教育されている。考えないことで生きていられる。個の主体性とか存在とかは無意味になり、日常は雁字搦めにされていることが分からない」

「錠を下ろされた独居房のような生き方しか残されていない。四方八方塞がっていて出口がない。しかし三度の飯は保証される。日常生活用具はある。風呂に入れる。ラジオを聴くことができる。便所はある。必要な物が手に入ることで、それ以上の欲求はない。単純なことは素晴らしいだろう。蓋し、単純過ぎることは人間を馬鹿にしている。少年院は無能な人間を送り出すことに専念している。自由への道は、人間への道ではなく鈍磨した不毛の道でしかない」

「そうだろうな」

「生きるに値しない生を生きている」

「少年院って何だろう?」

「矯正教育されたという事実を、その個人の意識の中に植え付けるものだ。環境が変わり、生活が変わり、俺を知らない人間たちの間にいても、俺の意識の中からは決して消滅することはない。ガチャリと下ろされた施錠の音、食器の擦れる音、定時毎に廊下に響く看守の足音、シーンと静まり返った独居の何処からか聞こえてくる排尿の音、毎朝流されるラジオ体操のピアノの音、拘禁に耐え切れず啜り泣く声、独り考えているのか時々漏れる溜め息、看守の目を掠め檻の中でする自慰、視姦されながら入る入浴、号令を掛けながら歩く廊下、それらは決して消えることはなく、秘め事のように引きずりながら生きて行く。そして、脳髄の深部に埋め込まれた事実は、時と共に消滅するのではなく膨らみを増して行く。一つ一つの映像が夜な夜な夢に出現するだろう。そして、おぞましさに魘され目覚める。手を休めたときなど、日常の何気ない生活に影を落とす。俺は此処を呪うだろう。救いは死刑囚ではなく有期刑に過ぎない。看守一人一人の相貌を、収容者一人一人の視線を忘れることなく、俺は其奴等の毒を浴びながら踠いている。そして、少年院の内部構造の細部まで思い出すだろう。何れ結婚して子供が産まれる。その子にまた子供が産まれる。歳老いた俺は孫と河原で石投げをしている。『おじいちゃんは何をしていたの?』『僕、おじいちゃんのようになりたい』と、孫が無邪気に訊いたとき、俺は何と答えられるだろう。それに、此処で一緒だった奴らに何時何処で出会うか分からない。しかし仲間ではない。仲間ではないが同じ釜の飯を食った仲となる。少年院にいたと言う事実は刻印のように消えることはない」

「一生の足枷になるのだろう」

「俺にも何時か恋人が出来るかも知れない。でも、その時に少年院にいたことを素直に言えるか分からない。多分言えないだろう。心の何処かで隠そうとする。そして、意識の奥底で葛藤する。好きな女が出来たら辛いだろうな」

「言って、離れて行くような女だったら諦めるしかない」

「そんなことを何度も繰り返していたら絶望だ」

「絶望もまたよし」

「色んな場面に打ち当たり冷静でいられるか不安になる」

「関係ないと思っても相手が絡んでくる」

「仮退院の身ですと言う訳にもいかない」

「もめ事を起こせば直ぐ連れ戻される」

「何かあれば、また彼奴かも知れないと疑われる」

「それでも生きなくてはならないし、生きる目的を持たなくてはならない」

「そう、一生懸命生きて行こうや」

「俺が早く出てしまうと光ちゃん寂しくなるな」

「年季が入っているから大丈夫だ」

「そうだな」

「ところで裕二、彼女に連絡しているのか?」

「していない」

「そうか」

「検閲のことを考えると書く訳にはいかない」

「囚われの身だから秘密保持は有り得ない。しかし手紙を書こうとする相手がいるだけでも裕二は仕合わせだ」

「光ちゃん、好きな人はいないのか?」

「いない。それどころではない。話は変わるが、囚われていることを考えたことがあるか?拘束とか束縛とか違う意味で」

「考えてはいたが良く分からない」

「囚われていることは山下裕二ではない。生殺与奪は彼方次第であり、生きる権利の保証はない。何があっても闇から闇に葬り去られる。飼われた動物と同じで、退院するまで生きて帰れるのか棺桶に入っているのか分からない。何れ、どちらにしても構わないことである。それに、意識が衰退して行くのが分かる。長くいればいるだけ廃人になる。出院したとき、外の風景を見て負けないだけの力を蓄えているのか直ぐ試される。以前、外科手術で三ヶ月以上寝ていた奴がいた。ベッドから下り、歩こうとしたが足を上げることが出来なかった。筋肉は三ヶ月の間に弛緩していた。此処でも全く同じで、意識は知らない間に慣らされ正常だと錯覚する」

「自我が目覚めなければ自分を捉えられない」

「そう言うことだ」

「検閲のことだが、矯正教育に害がある場合は検閲しても認めないとなっているが、そんなことが許されるのだろうか?」

「害がある、ないの基準は一体誰が決めるのか分かりはしない。回し読みをされたのでは堪らん」

「価値基準は国によって違うだろう?」

「価値は歴史と共に移り変わって行くが、此処では有り得ない。人間にとって最低の場所が俺達のいるN中等少年院だ。拘禁状態の俺達には何も認められない。生きるに値しない場所であることを知らなくてはならない。それなのに此処を生きる場所だと錯覚している奴もいる。娑婆に出ても適応出来ないだろう。そのことに気付かなければ俺のように舞い戻ってくる」

「少年院を対象化しなくてはならない。現実は客観と主観が入り乱れている」

「そう言うことだ。主体は己であり客体は己である。己を見失ったとき惰性のみが支配する」

 独居に戻る時間だった。

 裕二にとって光男だけが話し相手だった。週に一回図書室で話をしていることで精神的に救われていた。単調な生活と、拘束されていることで意識の変調を来す者がいる。勉強も、働くことも、生きる為の目的が必要だった。正常な意識を取り戻せないまま医療少年院に移送される入院者もいた。罪を犯した者が悪いのだろう、けれども一度犯した罪は、その個人によって測ることの出来る基準など何処にも有りはしない。犯した罪によって入院期間が決められるべきものではない。再犯があり、再々犯がある限り矯正教育だけでは解決出来ないところに来ている。