冬の霧・四の③(八丈島)
たまさか八丈島の出身者は居ないものと思っていたが、さに非ず、従業員が二千人もいれば不思議のないことである。何れにしても八丈島は東京都下であるが、ジェット機で一時間も掛からない所に、こんなに綺麗な海が拡がっていようとは思わなかった。日帰りの予定ではなかったのでレンタカーを借り、取り敢えず島内を一周することにした。今日の通夜、明日の告別式以外予定はなかった。海は何処までも蒼く水平線は透き通って見えた。
「何処に行ってきたの?」と、ビールを注ぎながら京子は言った。
「八丈島」
「素敵ね」
「海が良かった」
「連れていって欲しかったな・・・」と、京子は意外なことを言った。しかし俺は冷静に受け止めた。京子の真意はともかく一応は客に対する礼儀だろう。
「港の出入り口では釣り糸を垂れていた。静かだった。むろ鰺が水面下で右に左に動き回っていた。それに、鯖や南の海に住む色鮮やかな魚もいた」
「同じ東京なのに随分と違うわね」
「東京とは違うだろう」
「東京都八丈町でしょ?」
「そう言うことではなく」と、俺は些か不機嫌な顔をした。
「どう言うこと?」
「小さな岬の先端に灯台がある。眼下に拡がる藍色の海は何処までも拡がり、真下には波飛沫が立っている。俺は小雨に煙る海岸に立っていた。静かにしていると、何処からか鳥の鳴き声が聞こえ砕ける波音に共鳴している。此処に住みたいと思った。車で三時間あれば島内を一周出来るが、住居が密集していない場所も所々あった。そんな場所で海を眺めて暮らしたい。そうなるときが来るかも知れない」
「私も一緒に?」
「そうなるかも知れない。でも、一人でのんびりと暮らしたいのかも知れない」
「知らないもん」
「京子は可愛いね」
「知らないもん」それは、京子の口癖のようになっていた。でも、それを言うとき少しだけ寂しそうな感じがした。
「京子の全てを知っている訳ではない。知りたいのか、知りたくないのか、俺にとってはどちらも関係がない。何が有ったとしても京子を失うようなことはない」
「貴方のことが堪らなく好きになっていく。でも・・・貴方を傷付けるようになるかも知れない」
「京子の良さは俺にしか分からない」
「それで良いの?」
「良い」
「私の過去には色々あった」
「俺とは関係がない」
「でも・・・」
「後悔することが人間の生き方かも知れない。それは、そんな風にしか生きられないことから来ている。しかし短い人生、後悔だけはしたくない。京子との出会いに依って正しいことが証明された」
「そんなに良い女ではないよ」
「俺が決めることだと思う」
「何故?」
「後にも、先にも、何も無い。何時まで意識的に自己との対応が出来るか分からない。充足した一瞬が有っても、捉えることが出来なければ唯の浪費に過ぎない。人生がそんなもので有るなら京子との出会いも必要がない」
「今日、この瞬間が貴方と私のもの?」
「そう」
「八丈島から帰って、上司の前で溜め息を吐いてしまった」
「何か有ったの?」
「会社は儲けることを目標にしている。しかし方法や手段が有り何でも良い訳ではない。大手の会社が中小企業を潰す。弱肉強食の今の社会では当たり前のことかも知れない。しかし俺には許せない。その為に何十人かの下請け会社の従業員は路頭に迷う」
「会社でも私のような小さな店でも同じ事だと思う」
「目の当たりにして、こんな風に仕事をしている自分が許せない。しかし食う為に会社にへばり付いている」
「生きる為には仕方がないと思う」
「そうかな?そんな風に生きるなら、俺は生きるに値しない社会に生きている。唯得ることのみに集中している俺を許すことは出来ない」
「貴方が理想論を言っているのではないと思う。でも、それだと自分を失うことになる」
「既に四十年以上も生き、これ以上望むことはない。もしも京子と一緒に住むようになって、子供が産まれたとしても、京子と二人の子供に対してはそれなりの物を残して上げたい。しかしそれ以上何が出来るだろう」
「有り難う、そんなことまで考えていたんだ」
「信じている」と、俺は言った。
「私のこと?」
「そう、京子のこと」
「私は信じられるような人間ではない」
「日常や過去ではない。そう、京子が自分を見つけた頃のことだと思う。十五歳か十六歳の頃かも知れない。一生懸命自転車を漕いで学校に行っていた姿、机に向かい試験勉強をしている姿、一冊の小説を夢中になって朝方まで読んでいる姿、数学の宿題が解けなくて難しい顔をしている姿、そんな情景が手に取るように見える。そして、そのときの姿勢が現在の京子に繋がっている。俺の信じている京子はその時と少しも変わっていない」
「優し過ぎる」
「違うね」
「でも、貴方は私の本当の姿を知らない」
「そうかな?違うと思う。人は何時も自分を乗り越えて行く。俺の好きな京子はそれが出来る人だと思う。そして、現在此処に居る藤嶋京子が俺の愛している京子でしかない。京子に何が有ったのか、京子を規定しているものが何なのか知らない。でも、既に過去の京子とは関係がない」
「接吻して」
「始めて言ったね」
「うん」
「好きだよ、京子」
「一つだけ訊きたい。私に女の子がいること。その事について貴方は未だ何も言わない」
「三歳だね」
「そう」
「可愛い子だ」
「それだけ?」
「それだけだよ」
「変よ」
「何が?」
「だって、私は離婚していて子供もいるのよ」
「だから?」
「子供がいて、飲み屋をしているのよ」
「関係がない」
「変よ、全く」
「京子のことが好きで側に居たい。変だと思う?京子が居て俺が居て、それだけで良い」
「貴方って変わっている」
「好きになるのに理由はいらない」
「そうかな?でも、嫌いになるときもあると思う」
「矢張り理由はない。好きになるとき、その人そのものが好きになる。嫌いな奴は少しばかり良いところが有ろうと無かろうと関係なく嫌いだと思う」
「生きていくことが大変だと思う」
「仕方がない。こんな生き方しか出来ない」
「でも、そんな貴方が好きになってしまった」
「毎日会っているね」と、俺は言った。
「電話を掛けてくるのは誰?」
「俺かな?」
「そうよ」
「会社にいても何をして良いのか分からないときがある」
「駄目な会社員さん」
「俺のこと?」
「そうよ」と、京子は笑いながら言った。
「だって、夜遅いから疲れてしまう」
「何をしているの?」
「相変わらず書いたり読んだりしている」
「何時から?」
「五年前から」
「ふふううん」
「京子の、その声が好きだな」
「読みたいな」
「良いよ。でも、出来は良くない」
「貴方のこと知りたい」
「有り難う」
「貴方って時々分からなくなる。色んなこと知っていて、大人だって思うときも有れば子供みたいに思うときがある」
「大人だよ」
「違うと思う。大人に成りきれない大人って言うか、中途半端のまま大人になってしまったような感じがする」
「馬鹿にしているな、そんなこと言うと食べちゃうぞ!」
「それが貴方の優しさかも知れない」
「京子と出会って嬉しいと思う」
「私も!」
「不思議だね、出会いなんて幾つもの偶然が重ならない限り有り得ない。しかしその偶然さえ捉えることが出来ずに終わってしまう。偶然を逃さなかった俺は鋭い」
「変な言い方」
「二人の関係が何時まで続くのか、行くところまで行くより仕方がない」
「別れる為に?」
「そうなるかも知れない」
「嫌だもん」
「日々を重ね、思いを重ねることで生きたいね」
「うん」と、京子は少し甘えた声を出した。京子と居るときの安らぎを知るようになって、逃げ出したい不安から逃れることが出来た。しかし未だ構築すべき信念や生活の基盤が欠けていた。
それから二週間経った頃だった。
「疲れた」と、俺は言った。
「一体どうなさったの?」
「嫌な葬式だった。誰も彼もが嫌な顔付きをしていた。死にたくて死んだ訳では無いと思うが、あれでは仏さんも浮かばれない。仮に自殺であっても同じで、しかし周囲は自殺の原因が何であれ、許容出来るほどの豊かさを持っていない。早く終われば良い、関わりたくない、それらが隠すことなく顔付きに現れていた」
「疲れたね」
「帰りの電車の中で京子に会いと思った」
「待っていたよ」
「何をしていた?」
「貴方のことを考えていた」
「有り難う」
「そんなこと言うのは可笑しい」
「でも、やっと会えたね」
「近くにいても会う機会が無いもん」と、京子は微笑んだ。
「無為な時間の中に埋もれ這い出そうとしても出来ない。脆弱な意思しかないことは分かっている。しかし停滞したまま抜けだそうとしない。きっと助けて欲しいのかも知れない」
「でも、そんな力も知識も無いよ」
「京子を抱いていると安心していられる」
「男と女の関係って何かしら?」
「男は狡くて女は悲しみを知っている。男は道を残して女は断崖から飛び降りる。そんなことを繰り返して知らぬ間に歳を取る」
「歳を取りたくないもん」と、京子は言った。
苦にもせず葬式屋が出来たのは、死者との対話、対象として捉えることが出来たからに過ぎない。しかし未来を、現在を問うことではなかった。俺は京子と会う度に葬式の様子を話す。淡々と話すことで俺の内面を流れる空虚感を知る。しかしそのことが、何れ二人の間に齟齬を齎すのかも知れない。
了