山に越して

日々の生活の記録

疑似短編集冬の霧 二の①(武蔵野)

2019-10-16 15:56:15 | 短編集

冬の霧・二の①(武蔵野)

 

 JR中央線立川駅から武蔵野線で約四十分武蔵五日市駅に到着する。拝島を過ぎる辺りから少しずつ緑が多くなり武蔵野の自然が拡がる。東京都で有りながら都会の風情とは異なりそれは不可思議な感覚になる。

 平成十五年四月十二日の午前十時になろうとしていた。山本フミは福祉事務所の伊藤主事と、長女の斉藤圭子に連れられて武蔵五日市駅に降りた。此処まで来ると風は未だ冷たかったが、穏やかな日和で、北側の方角には奥多摩の山々が拡がり爽やかな空気を運んでいる。フミは辺りの様子を暫く伺っていたが伊藤主事に促されホームの階段をゆっくり降り駅前のタクシーに乗った。

 檜原村は東京都の北西部に位置している人口三千五百人余り、山梨県と県境を接した山間の地にある。バスの終点、藤倉から陣場尾根伝いに三時間程歩くと奥多摩湖に着く。夏から秋に掛け奥多摩の自然を求め、都内から家族連れやハイキング客が訪れ賑わいを見せるが冬は厳しい寒さに人影さえ疎らになる。また、居住者の多くは武蔵野線で都会に働きに出ている。

 本宿の檜原村役場から北秋川へ十分程で盲養護老人ホームに着いた。正面玄関から左右に居室が並び、北秋川に近い左側に四人部屋が九部屋、山側に二人部屋が七部屋並び、四人部屋居室の中央に談話室、娯楽室、その奥に特別養護老人ホームが併設されている。正面左側に事務室が有り、寮母室、医務室、静養室などは四人部屋の前、また中庭に接する場所に食堂が位置している。養護老人ホームは定員数五十名、東京都の委託運営であったが、経営主体は社会福祉法人北秋川福祉会が行う民間社会福祉法人である。

 フミはタクシーを降りると大きく溜め息を吐いた。玄関に立ち、左右に拡がるコンクリートの平屋建ての建物を霞む目で眺めた。蒲田の家を引き払い、此処がこれから先、終の棲家となることに不安と悲しみを覚えた。

 網膜色素変性症と診断されたのは今から二〇年程前のことだった。診察を終えた眼科医師はおもむろに話し始めた。

「網膜色素変性症に間違いありません」

「見えるようになりますか?」

「発病時期が遅いので全く見えなくなることはないと思いますが、何れ少しずつ見えなくなります」

「日中は眩しくて、夕方になると周囲が霞んでしまって見えなくなります」

「ええ、それが徐々に中心部にやってくる。しかし突発性では無いので予後は良いと思います」

「予後が良いと言いますと?」

「全く見えなくなることはない。そう言うことです」

「これから先、私の目は見えなくなってしまうのでしょうか?」

 と、フミは繰り返した。

「いいえ、今は少し暗く感じていると思います。見える範囲が少しずつ狭まってきて、視野の中心部は恐らく六十五歳位までは大丈夫でしょう。その後、中心視野、黄斑部と言いますが、徐々に見えなくなります。でも、光だけは分かりますので全く失明することはありません」

「そうですか」

「アダプチノール、ビタメジン、ユベラニコチネートと言う三種類の薬が出ますので、食後三回飲むようにして下さい」

「毎日三回飲んでいれば見えると言うことですね?」

 不安が先走るのだろう、フミは尚も同じことを訊いた。

「忘れないようにして下さい。それから、二ヶ月に一度は診察をしますので必ず来て下さい」

 フミは理解しようにも言葉が難しくて分からなかった。一日三回薬を飲んでいれば見ることに不自由は無いだろうと思った。それから二十五年が過ぎた。今では黄斑部まで犯されてきたのだろう、薄ぼんやり明暗が分かる程度で、しっかり物を捉えることが出来なくなっていた。

  フミは玄関でスリッパに履き替えると入所手続きのため面接室に通された。程なく、看護師、主任寮母、相談員による入所面接が始まった。

「こんにちは」

 と、生活相談員の飯島が口火を切った。

「今日からホームでの生活が始まりますが、初めに入所の手続きを済ませ、次に此処での生活の内容を寮母から、そして、医療の事など看護師から話して貰います。時間は三十分位掛かると思いますが宜しくお願いします。伊藤さんから、入所に付いての説明を何度か聞いていると思いますが、改めて入所指導をお願いします」

「私からは特別に有りませんが、施設に支払われる生活費、事務費など措置費は月額二十万円以上になりますが、東京都、蒲田区、国の費用で賄われます。また、山本さんは国民年金老齢年金を受給していますので負担金を区に支払わなければなりません。現在年間七十六万円ですので月々の負担金は二万二千円になります」

 養護老人ホームへ入所する場合、その収入によって、入所者個人の負担金の額は三十九段階になっている。負担金額〇円から最高十四万円で、本人の収入金額に依って決まる。但し四人部屋の場合二割減、三人部屋で一割減、五人、六人部屋は三割減、七人部屋以上は四割減で、二人部屋、一人部屋は割引の対象になっていない。国民年金障害基礎年金、厚生年金障害年金、その他の収入の中から入所者負担金として市町村に支払う。フミの場合、国民年金老齢年金から支払うことになるが入室する居室は四人部屋だったので二割減だった。

 相談員の飯島は入所決定通知書、身元引受書、措置費決定書、住民異動届、障害者手帳など必要な書類を順次受け取りその場を離れた。入所受諾書、預り金等預り証など書類を作る為だった。入所には、国民健康保険証、年金証書、印鑑、貯金通帳、その他衣類、小物類など施設で生活する為に最低限の物品が必要だった。また養護老人施設の場合、本人の住所は施設の住所地に移すこととされている。住み慣れた場所を離れ新住所地の住人になる。

 福祉事務所の伊藤主事は一通り手続きが終わると引き上げていった。今後老人ホームを福祉事務所職員が訪れるのは歳末慰問、訪問調査など年に一から二回程度である。訪問調査により養護老人ホームの対象者か、施設内の生活が正常に行われているか、本人と直接面接することで調査する。しかし今後は介護保険導入により訪問調査の意味合いは失われる。養護老人ホームの場合、居住地に住民届けを提出することになり、介護保険の認定は居住地の市町村が行うことになるので、出身市町村との直接的な関係はなくなる。又、老人福祉法の規定により施設を概ね三ヶ月以上離れるような場合(入院・行方不明)は退所の対象にとなる。フミは前居住地の手を放れ住民移動することで老人ホームの中で単独世帯となる。又、介護保険制度が始まった現状から養護老人ホームでの生活が困難になった入所者は、以前なら市町村に措置変更願いを提出することで、市町村の責任において今後の措置を必要としたが、現在は住民票の置かれている市町村に要介護認定の申請をする。そして、要介護認定された時点で施設の介護支援専門員、乃至地域の介護支援センターなどの介護支援専門員が特別養護老人ホーム、療養型病床群、老人保健施設などへの入所の手続きをすることになる。要するに市町村は養護老人ホームへの入所措置はするが、その後については仕事上の責務を負わないことになる。養護老人ホームから市町村に退所届けを提出することで全てが終わる。

 フミは娘の圭子と寮母に連れられ居室に入り、前日到着している衣類や湯茶用具などの整理を始めた。四人部屋は十二畳の広さに、押入、物入れ、幅三十センチほどの板の間が付いていた。一人当たりの広さは三畳であるが押入の出し入れや通路に使う為、実際は二畳程度しかなかった。狭い場所であるが、それぞれが自分の場所を畳の縁などで確認している。

 荷物を片付けながら、フミの心の中にどう処理して良いのか分からない感情が込み上げてきた。集団生活は尋常小学校以来のことである。管理され、拘束された他人同士の集団生活である。老人ホームに来るまでの数ヶ月の間、仕方が無いと諦めていたが、実際、他人と一緒の部屋に入って生活を始めることが遣る瀬無かった。娘の圭子はその日の夕方に帰った。施設にゲストルームは無く、せめて一日位一緒に居たかったがそれも仕方がなかった。自分の子供と雖(いえど)もそれぞれ家庭が有り必要な日常が待っていた。また地方から来る家族でさえ慌ただしく帰えるのが現実である。

 フミは部屋の人たちに訊きながら七時には布団を敷いた。しかし時間も早くなかなか寝付くことが出来ず残してきた借家のことが心配だった。夫の山本堅太郎と結婚してから何度か引っ越しをしたが、最後の二十年近く住んだ家だった。堅太郎の位牌だけは持ってきたので中段の押入にしまった。その他の荷物は蜜柑箱三箱に収まる程度のもので、フミは寝る前に位牌に手を合わせ横になった。朝から慌ただしく一日が過ぎた。しかし、それが社会的生活最後の日であると気付くのは随分後のことだった。

 横になり一時間二時間と過ぎていた。矢張り興奮していたのだろう、目を閉じていたが眠れず自分の生まれ育った家のことが記憶の底から蘇ってきた。嫁に行くまで二十年間住んだ家だった。フミは三人兄弟の三番目に生まれ、長男の野田順一郎が家を継いだがその兄も既に他界していた。姉のよし乃とは七歳違いで、同じ東京に住みながら最近は会うこともなく何をしているのか定かでなかった。子供の頃は姉とも年が離れていたので遊び相手にならなかったのか、一人で留守番をしていることが多く寂しい思いをした。昭和六年生まれのフミは太平洋戦争が終わったとき十六歳になっていた。昭和二十七年に山本賢太郎と結婚したが、町工場で働く賢太郎の月給はその頃五千円程で、家賃に千円掛かったが贅沢を慎み少しずつ貯蓄もしていた。豆腐が一丁十二円、味噌が一キロ六十六円の時代である。二人の子供を育て上げるのに苦労してきたことが思い出された。しかし二人の女の子は高校卒業後、就職、結婚と順調に進んだ。やがて孫も産まれ、今でも二組の家族は幸せに暮らしている。

 

 フミが入所して九ヶ月が過ぎた。施設内では一人の死亡者があり新しく一人の入所者があった。フミの入所している施設の平均在所期間は八十七ヶ月、七年強で、平均年齢は七十三歳である。入所後在宅復帰になることは殆ど無く施設で生涯を終えることになる。脳梗塞などで生活が出来なくなったような場合、特別養護老人ホームへの措置変更になるが、介護保険制度になった場合など速やかに移行が出来るのか分からない現状で、それでなくても特別養護老人ホーム、老人介護保健施設、療養型病床群も定員一杯の状況である。痴呆状態になった老人を受け入れてくれることも、その施設の運営情況によっては、介護保険制度の元では矢張り経営が優先される訳である。入所したくても出来ない状態が続き養護老人ホームに残されるか長期入院を余儀なくされる。在宅ケア優先で市町村の公的援助が後退する介護保険制度は、入所者にとっても現場で働く職員にとっても不安材料を抱えることになる。また、在宅ケアと言っても少子化高齢社会を反映する限り、介護保険制度が目指す在宅での自立した生活を望めるのは一部の経済的に恵まれた家庭であり、要介護区分以上のサービスを上乗せして受けるには費用を要する。費用を支払うことが出来る家庭のみがより以上の利益を得ることになる。

 養護老人ホームの場合、介護保険が導入されることはないが福祉の精神から言えば国なり、県なり、市町村の救済業務は何の為にあるのか分からない。必要に応じて介護を受けることになるが、末端の部分まで行き渡るのか、また個人の費用負担にしても、支払いが出来れば最高のレベルで介護が受けられるが、支払いが出来ない場合は十分な介護が受けられない。又、特別養護老人ホームの場合なども、施設運営をしていく場合、重度障害者ばかりでは日常的に動きが取れるのか疑問である。

 福祉サービスは金の有る人も無い人も同じである。また必要なサービスがあったとしても、施設に入所する人たちにとっては終の棲家と感じている人が殆どである。施設でのサービスが必要で無くなった場合、入所者はどの様にして行けば良いのか、福祉は単に介護だけのサービスではなく、精神的ケア、社会的ケア、家族的ケア、地域的ケア、医療的ケア、日常的ケア、相談業務など多方面に渡ってこそ始めて必要なサービスを行っていることになる。単にオムツを替え、入浴し、医療や食事を提供しているだけでは、これからの福祉は質の低下をまねからざるを得ない。

 入所して始めて福祉事務所の訪問調査があった。入所者に対して行われるこの調査、判定により、入所の継続か、他施設への移行か決められることになる。行事のように行われる年一回の訪問を楽しみに待っている入所者もいた。一年待っても二年待っても二、三割の人たちには誰も訪ねてくることはない。福祉事務所の伊藤主事がやってきたのは午前11時だった。一年振りだった。あの日、面接室で入所の手続きをしたのが伊藤主事だった。施設に入所せざるを得なかったことが思い出された。

「山本さんお元気でした?」

「ええ、どうにか暮らしています」

「身体の具合に変わり有りませんか」

「ええ、元気にしています。風邪も引かず冬を越すことが出来ました」

「視力は如何ですか?」

「薬を飲んでいますのでどうにか見えます」

「困ったことはありませんか」

「生活は単調で楽しいこともない変わりに辛いこともありません」

「他の皆さんと仲良くしていると伺っていましたので、これから先も大丈夫と思いますが、嫌なことがあったら話して下さい」

「特別有りません。もう歳で何も望んでいないし、三回温かいご飯が食べられるだけで十分です」

「未だ六十六ですよ」

「此処では五十歳でも六十歳でも変わり有りません」

「部屋は狭くありませんか」

「狭いけれど仕方がありません」

 施設は施設内だけの社会だった。外部と繋がっていても、社会に解放されていても、人の出入りは少なく、週一回の食料品販売、月一回の衣類品販売、嘱託医の往診、理容師の訪問など施設内で事足り、社会との接点は何処にあるのか分からない。

「家族の面会はありますか」

「娘が二人いますので時々交代で来てくれます」

「分かりました。これから先生と話がありますので終わりにしたいと思います。山本さん、来年も来ますのでお元気でいて下さい」

「有り難うございました」

 こうして、フミが死ぬまで続くだろう施設での単調な生活が始まった。

 

                                                    了