三
轟音と共に滑走路を離陸した千歳空港行き最終便は水平飛行に移っていた。昭生は暗闇に包まれた窓外に目を遣りぼんやりと過ぎた日のことを考えていた。函館の夜景が眼下に見え始めた頃、胸ポケットにしまい込んでいた名刺を取り出した。サロンドモア美容師、安達雪江と記されていた。電話を、と言っていたが掛ける訳にはいかなかった。それでは自分の生き方に反するだろうし、如何にも物欲しげになると思った。雪江か、良い名前だと思いながら名刺を胸ポケットに戻した。
「遅くなって申し訳ない」
空港には伊藤友矩が迎えに来ていた。伊藤は札幌の工業高校を卒業した現地採用の社員だった。入社して直ぐ志田川の世話になったことがきっかけで、朔北の地では何かと志田川の面倒をみていた。
「そろそろ出掛けようと思っていたところに突然の電話だったので心配しました」
「余り捗っていないと聞いているが・・・」
「申し訳ありません。今年は雪の量が多く二週間位遅れています。工期迄に間に合うか分かりません」
「明日現場を見れば大体分かるだろう、それから対応策を考えれば良い。急いでも良い仕事が出来る訳ではない」
「宜しくお願いします」
「変更する箇所が出てくるかも知れないが仕方ないだろう。多少予算を超過しても遣るべきことは遣っておいた方が良い」
「分かりました。ところで今回の予定はどのようになっていますか?」
「支笏湖に三日居て、後は札幌支所に行く」
「札幌では?」
「大体図面が仕上がったので、当局と一回目の打ち合わせをする。変更箇所もあるだろうし、二日間は掛かるかも知れないが一緒に行かないか?」
「行っても宜しいのですか?」
「構わないよ。これから勉強しなくてはならないし、交渉の進め方を見ているのも面白いだろう。所長には話しておく」
「有り難うございます」
「札幌も久し振りだし一杯奢るよ」
湖畔のホテルには十一時前に着いた。風呂から出ると直ぐ食事が運ばれてきた。
「遅くなって申し訳ない」
「お待ちしておりました」
「宜しく頼みます」
「何時もご贔屓にして戴いて有り難うございます。今後とも宜しくお願い致します」
と言って、仲居は部屋を出ていった。
大学に入って始めて旅行したのが北海道だった。リュックサックを背負い千歳駅に降り立った日のことが思い出された。昭生は一人酒を飲みながらこれからのことを考えていた。
【・・・あの頃とは違い色んな面でこの辺りも開発が進んでいる。人が住み易く交通が便利になる為の仕事だろうが、結局人間の為であって何れ自然とのバランスが保てなくなる。数年先、数十年先には机上論では成り立たなくなるだろう。出来る限り生態系や自然を念頭に置いて仕事をする必要がある。未来を見据えながら現在必要なことは何か、そう考えて取り組みたい・・・しかし俺自身が常にバランスを保って生きることが出来るのか、何れ株式会社の人間として難題を抱えることになるだろう。入社して一年、二年と経つ毎に、俺の生き方も考え方も中途半端になっている。理想と現実の狭間を乗り切ることが出来なく、近視眼的にしか物事が見えなくなっている。人間がどのように関わりを持とうとも、自然は計り知れない連鎖反応によって息付き蠢いている。一度破壊することによって、元に戻すことの出来ない壊滅的な被害を齎す・・・恐らく、地球上に生きている全ての動植物は自然に適応してそれぞれの関連性を持っている。そのことを無視して仕事を進めるとき、俺にとっても未来は有り得ない。それに、俺自身与えられた生命のひとつの過程に過ぎない。俺の為に生きるのではなく自然に順応して生きる必要がある。その時、始めて朧気ながらも展望が見えてくるのかも知れない・・・未だ自然を残している支笏湖も、何れ水辺全体に開発の手が延び地形を変えるだろう。道路、自然林、水質、魚貝類、居住環境、動植物、それぞれが四季の自然に調和されなくては今度の仕事も好い加減な結果を残すことになる。三日間の間に何が出来るか分からないが、出来るだけ良い方向を見出したい・・・】
止んでいた雪も北風と共に降り始めていた。昭生は窓辺に寄り、見上げた虚空に空港で出会った雪江のことを考えていた。そして、心の片隅に残った翳りを忘れられないなと思った。
翌朝湖水まで下りていった。一面新雪に覆われ、吹き付ける西風に飛ばされた飛沫が湖岸を着氷で覆っていた。支笏湖は周囲四十キロ、最深部は三百六十メートルの国内第二の水深があり、冬季に結氷しない最北の不凍湖である。その東側からカルデラ壁を破って千歳川が流れ、北側はカルデラ壁が急角度で湖水に落ち、平地が少ない地形である。日本でも代表的な貧栄養湖で、水草も余り茂らず、魚類はアメマス、カジカ、エゾサンショウオなど在来種が生息した豊かな自然を残している。
千歳市との工期延長交渉も札幌市との打ち合わせも順調に終わり、最後の日は伊藤友矩と酒を飲んだ。札幌と言えば薄野と言われているが、志田川の性格を知っている伊藤は、賑やかな場所を避け郊外の静かな居酒屋に案内した。
「志田川さん、色々勉強になり有り難うございました」
「今後のことを考え東京に出て来ないか?・・・東京に来れば力添えも出来るし、専門学校にも通えるだろう」
「出来ればそうしたいと思います」
「儲ければ良いと言う時代は終わった。これからの建設業界は、アセスメントをしっかり踏まえなければ生き残ることが出来ない。恐らく何万年、何十万年という周期で自然は動いている。しかし俺達は、現在と、ほんの二、三十年先しか見ていない。災害がある度に、決まり文句のように自然を甘く見ていましたなどと言い訳をしている」
「ええ、そう思います」
「会社の幹部も、確かな仕事をしなければ会社の存亡に関わることがやっと分かるようになってきた。早い、安い、好い加減と言う時代は終わった。しかし組織という逃れられない拘束がある」
「志田川さんには凄い情熱があります。僕なんかとても太刀打ち出来そうにありません」
「確りした足で踏みしめると少しずつ先が見えてくる。それに目を瞑らず敢然と立ち向かわなくてはならない」
「志田川さんが居れば僕たちも頑張れます」
「社内でも風当たりが厳しくなるだろうな・・・」
と、昭生は独り言のように呟いた。その日、二人はこれからの人生や展望について語り合った。
翌日、昭生は千歳空港十三時三十分発の羽田空港行きに搭乗する為、ロビーを十八番ゲートに向かって歩いていた。一方雪江は、一番奥の公衆電話からサロンドモアに、明日から出勤する旨の電話を掛け終わり振り向いたところだった。「あぁっ・・・」と、驚愕の声を上げた。確かにあの人だと思った。時々、左側の滑走路に目を遣りながら歩いてくる昭生を見つめていた。昭生はふと立ち止まった。先ほどから誰かに見られているような気がしていたが、公衆電話の前に立っている雪江に気付いた。暫くの間、二人はお互いを見つめ合っていた。偶然に出会い、その場限りのこととした二人にとって再会出来るとは思いも寄らなかった。思いも寄らなかったからこそ新鮮で鮮烈な出会いであった。
東京に戻り一週間が過ぎていた。クリスマスを前に、街の飾り付けも終わり賑やかな夜を迎えていた。雪江も昭生も一週間の間、相手のことを考えていた。
「二度とお会い出来るとは思っていませんでした。それに、志田川さん、お電話下さらないと思っていました」
「何故、そのように・・・」
「そう言うことが出来る人ではないと思いました」
「掛けようと思っていたけれど、その前に会うことが出来た」
「嘘を付いている・・・」
と、雪江は小声で言った。
「本当は会いたかったのかも知れません」
湖畔のホテルで降り頻る雪を見上げていたとき、心の片隅を過ぎった雪江のことが思い出された。
「私の方に向かって歩いてきたとき夢ではないかと思いました。機内では座席が離れていたし、東京に戻ってからもお話が出来なかったので残念でした」
志田川は帰京後現地報告をしなければならず、雪江とは羽田空港で別れていた。
「偶然が二度も重なって、またお会い出来るなんて信じられませんでした。一週間の間、夢を見ているのかも知れないと思っていました」
「三度目はこうして約束する事が出来ました」
「志田川さん、お仕事、間に合いました?」
「あの日は支笏湖のホテルに泊まり、翌日湖畔の工事現場を視察して、それから札幌に行きました」
二人は知らず知らずの内に現在に至るまでのことを語り合っていた。長い人生の間には幾つかの出会いがある。しかし大切な人だと気付かないまま忘れ去られる。後になって、その時のことを思い出しても既に過去の遺物に過ぎない。そして、人との付き合い方は何時でも不可思議である。日常的な幾つかの事柄を過去に押しやり、互いに理解納得する場合、また、雪江と昭生のように二人だけの偶然が重なることもある。