山に越して

日々の生活の記録

山に越して エンルム岬 12-3

2015-02-27 15:40:09 | 中編小説

 

  轟音と共に滑走路を離陸した千歳空港行き最終便は水平飛行に移っていた。昭生は暗闇に包まれた窓外に目を遣りぼんやりと過ぎた日のことを考えていた。函館の夜景が眼下に見え始めた頃、胸ポケットにしまい込んでいた名刺を取り出した。サロンドモア美容師、安達雪江と記されていた。電話を、と言っていたが掛ける訳にはいかなかった。それでは自分の生き方に反するだろうし、如何にも物欲しげになると思った。雪江か、良い名前だと思いながら名刺を胸ポケットに戻した。

「遅くなって申し訳ない」

 空港には伊藤友矩が迎えに来ていた。伊藤は札幌の工業高校を卒業した現地採用の社員だった。入社して直ぐ志田川の世話になったことがきっかけで、朔北の地では何かと志田川の面倒をみていた。

「そろそろ出掛けようと思っていたところに突然の電話だったので心配しました」

「余り捗っていないと聞いているが・・・」

「申し訳ありません。今年は雪の量が多く二週間位遅れています。工期迄に間に合うか分かりません」

「明日現場を見れば大体分かるだろう、それから対応策を考えれば良い。急いでも良い仕事が出来る訳ではない」

「宜しくお願いします」

「変更する箇所が出てくるかも知れないが仕方ないだろう。多少予算を超過しても遣るべきことは遣っておいた方が良い」

「分かりました。ところで今回の予定はどのようになっていますか?」

「支笏湖に三日居て、後は札幌支所に行く」

「札幌では?」

「大体図面が仕上がったので、当局と一回目の打ち合わせをする。変更箇所もあるだろうし、二日間は掛かるかも知れないが一緒に行かないか?」

「行っても宜しいのですか?」

「構わないよ。これから勉強しなくてはならないし、交渉の進め方を見ているのも面白いだろう。所長には話しておく」

「有り難うございます」

「札幌も久し振りだし一杯奢るよ」

 湖畔のホテルには十一時前に着いた。風呂から出ると直ぐ食事が運ばれてきた。

「遅くなって申し訳ない」

「お待ちしておりました」

「宜しく頼みます」

「何時もご贔屓にして戴いて有り難うございます。今後とも宜しくお願い致します」

 と言って、仲居は部屋を出ていった。

 大学に入って始めて旅行したのが北海道だった。リュックサックを背負い千歳駅に降り立った日のことが思い出された。昭生は一人酒を飲みながらこれからのことを考えていた。

【・・・あの頃とは違い色んな面でこの辺りも開発が進んでいる。人が住み易く交通が便利になる為の仕事だろうが、結局人間の為であって何れ自然とのバランスが保てなくなる。数年先、数十年先には机上論では成り立たなくなるだろう。出来る限り生態系や自然を念頭に置いて仕事をする必要がある。未来を見据えながら現在必要なことは何か、そう考えて取り組みたい・・・しかし俺自身が常にバランスを保って生きることが出来るのか、何れ株式会社の人間として難題を抱えることになるだろう。入社して一年、二年と経つ毎に、俺の生き方も考え方も中途半端になっている。理想と現実の狭間を乗り切ることが出来なく、近視眼的にしか物事が見えなくなっている。人間がどのように関わりを持とうとも、自然は計り知れない連鎖反応によって息付き蠢いている。一度破壊することによって、元に戻すことの出来ない壊滅的な被害を齎す・・・恐らく、地球上に生きている全ての動植物は自然に適応してそれぞれの関連性を持っている。そのことを無視して仕事を進めるとき、俺にとっても未来は有り得ない。それに、俺自身与えられた生命のひとつの過程に過ぎない。俺の為に生きるのではなく自然に順応して生きる必要がある。その時、始めて朧気ながらも展望が見えてくるのかも知れない・・・未だ自然を残している支笏湖も、何れ水辺全体に開発の手が延び地形を変えるだろう。道路、自然林、水質、魚貝類、居住環境、動植物、それぞれが四季の自然に調和されなくては今度の仕事も好い加減な結果を残すことになる。三日間の間に何が出来るか分からないが、出来るだけ良い方向を見出したい・・・】

 止んでいた雪も北風と共に降り始めていた。昭生は窓辺に寄り、見上げた虚空に空港で出会った雪江のことを考えていた。そして、心の片隅に残った翳りを忘れられないなと思った。

 翌朝湖水まで下りていった。一面新雪に覆われ、吹き付ける西風に飛ばされた飛沫が湖岸を着氷で覆っていた。支笏湖は周囲四十キロ、最深部は三百六十メートルの国内第二の水深があり、冬季に結氷しない最北の不凍湖である。その東側からカルデラ壁を破って千歳川が流れ、北側はカルデラ壁が急角度で湖水に落ち、平地が少ない地形である。日本でも代表的な貧栄養湖で、水草も余り茂らず、魚類はアメマス、カジカ、エゾサンショウオなど在来種が生息した豊かな自然を残している。

 

 千歳市との工期延長交渉も札幌市との打ち合わせも順調に終わり、最後の日は伊藤友矩と酒を飲んだ。札幌と言えば薄野と言われているが、志田川の性格を知っている伊藤は、賑やかな場所を避け郊外の静かな居酒屋に案内した。

「志田川さん、色々勉強になり有り難うございました」

「今後のことを考え東京に出て来ないか?・・・東京に来れば力添えも出来るし、専門学校にも通えるだろう」

「出来ればそうしたいと思います」

「儲ければ良いと言う時代は終わった。これからの建設業界は、アセスメントをしっかり踏まえなければ生き残ることが出来ない。恐らく何万年、何十万年という周期で自然は動いている。しかし俺達は、現在と、ほんの二、三十年先しか見ていない。災害がある度に、決まり文句のように自然を甘く見ていましたなどと言い訳をしている」

「ええ、そう思います」

「会社の幹部も、確かな仕事をしなければ会社の存亡に関わることがやっと分かるようになってきた。早い、安い、好い加減と言う時代は終わった。しかし組織という逃れられない拘束がある」

「志田川さんには凄い情熱があります。僕なんかとても太刀打ち出来そうにありません」

「確りした足で踏みしめると少しずつ先が見えてくる。それに目を瞑らず敢然と立ち向かわなくてはならない」

「志田川さんが居れば僕たちも頑張れます」

「社内でも風当たりが厳しくなるだろうな・・・」

 と、昭生は独り言のように呟いた。その日、二人はこれからの人生や展望について語り合った。

 

 翌日、昭生は千歳空港十三時三十分発の羽田空港行きに搭乗する為、ロビーを十八番ゲートに向かって歩いていた。一方雪江は、一番奥の公衆電話からサロンドモアに、明日から出勤する旨の電話を掛け終わり振り向いたところだった。「あぁっ・・・」と、驚愕の声を上げた。確かにあの人だと思った。時々、左側の滑走路に目を遣りながら歩いてくる昭生を見つめていた。昭生はふと立ち止まった。先ほどから誰かに見られているような気がしていたが、公衆電話の前に立っている雪江に気付いた。暫くの間、二人はお互いを見つめ合っていた。偶然に出会い、その場限りのこととした二人にとって再会出来るとは思いも寄らなかった。思いも寄らなかったからこそ新鮮で鮮烈な出会いであった。

 

 東京に戻り一週間が過ぎていた。クリスマスを前に、街の飾り付けも終わり賑やかな夜を迎えていた。雪江も昭生も一週間の間、相手のことを考えていた。

「二度とお会い出来るとは思っていませんでした。それに、志田川さん、お電話下さらないと思っていました」

「何故、そのように・・・」

「そう言うことが出来る人ではないと思いました」

「掛けようと思っていたけれど、その前に会うことが出来た」

「嘘を付いている・・・」

 と、雪江は小声で言った。

「本当は会いたかったのかも知れません」

 湖畔のホテルで降り頻る雪を見上げていたとき、心の片隅を過ぎった雪江のことが思い出された。

「私の方に向かって歩いてきたとき夢ではないかと思いました。機内では座席が離れていたし、東京に戻ってからもお話が出来なかったので残念でした」

 志田川は帰京後現地報告をしなければならず、雪江とは羽田空港で別れていた。

「偶然が二度も重なって、またお会い出来るなんて信じられませんでした。一週間の間、夢を見ているのかも知れないと思っていました」

「三度目はこうして約束する事が出来ました」

「志田川さん、お仕事、間に合いました?」

「あの日は支笏湖のホテルに泊まり、翌日湖畔の工事現場を視察して、それから札幌に行きました」

 二人は知らず知らずの内に現在に至るまでのことを語り合っていた。長い人生の間には幾つかの出会いがある。しかし大切な人だと気付かないまま忘れ去られる。後になって、その時のことを思い出しても既に過去の遺物に過ぎない。そして、人との付き合い方は何時でも不可思議である。日常的な幾つかの事柄を過去に押しやり、互いに理解納得する場合、また、雪江と昭生のように二人だけの偶然が重なることもある。


山に越して エンルム岬 12-2

2015-02-22 16:28:24 | 中編小説

 二

  関東建設株式会社本社は東京にあったが、長野、札幌、仙台、松山に支所があった。昭生は世田谷の実家から新橋にある本社に通っていた。大学卒業後はアパート住まいをする予定でいたが、何より母親が寂しがるだろうし、兄の晴彦が結婚して家を継ぐまでは仕方がないと諦めていた。父親は既に公務員を退官して閑居の生活だった。昭生にも公務員になって欲しかったが、大学は国立でなかったこともあり諦めていた。晴彦は昭生より六歳年上で、国立大学を卒業後自治省に入局していた。また二歳年下の妹、有美は既に他家に嫁いでいた。

 昭生が雪江に出会ったのは、入社して四年目の冬のことで、札幌支所に一週間の予定で出掛ける日のことだった。午前中会社で打ち合わせを済ませ、羽田空港には二時過ぎに着き、搭乗手続きをしていたとき雪江がカウンターに駆け込んできた。千歳空港行きは前日からの吹雪で欠航が相次ぎ混み合っていた。

「十五時発の千歳行きに乗りたいのですが・・・」

「今のところ満席でございます」

「お願いします」

 と、雪江は哀願した。

「申し訳ありません。昨日からの吹雪で午後の便は何れも満席になっております」

「母が・・・」

 と、言うなり涙ぐんでしまった。動転していたのだろう、周囲のことも気に掛けることはなかった。

「少しお待ち下さい・・・最終便にキャンセルが入っておりますが如何致しましょう?」

「でも、それだと・・・」

 雪江はその場に蹲み込んでしまった。

「これをお使い下さい」

 と、昭生は搭乗券を雪江の前に差し出した。雪江は意味が分からず昭生の顔を呆然と見ていた。

「どうぞ、これをお使い下さい」

「それでは貴方が・・・」

 と、やっと意味が分かったように言った。

「仕事は明日からですので、今日は遅くなっても構いません」

 今夜は支笏湖畔のホテルに泊まる予定で、迎えの車も建設事務所を出ていない時間だった。

 雪江は暫く考え込んでいたが今日中に帰りたかった。

「有り難うございます。でも、本当に宜しいのですか・・・?」

「お母様のことを言い掛けていたようですけれど、お大事に」

「お名前を・・・」

「時間が有りませんので行った方が良いと思います」

「私、安達と言います」

 雪江は小さな名刺を渡して、お電話を、と言い掛けながら搭乗ロビーに走って行った。

 

 機は多少遅れて千歳空港に着陸した。

 久し振りに降り立った苫小牧駅のホームは吹雪いていたが、日高本線最終の様似行きに間に合った。直通の様似行きは一日五本しかなく、苫小牧から百五十キロ、三時間三十分掛かる予定だった。雪江は弁当とお茶を買い、座席に掛け、やっと落ち着いた。母親の容態が危ないと知らせてきたのは兄だった。雪江の母は続発性の肝臓癌で、半年ほど前から入退院を繰り返し、気付いたときには既に切除手術は困難な状況だった。

「お兄さん、雪江です」

「医者から親近者に連絡を取るように言われた。直ぐ帰れるか?」

「お母さんが・・・」

「昨夜から譫言のように雪江、雪江と呼んでいる」

「直ぐ帰ります。お兄さん、それまでお願いします」

 簡単に身支度を済ませると急いで羽田空港に向かった。

 

 曇った車窓の向こうに冬の太平洋が拡がっていた。汐の匂いを感じる頃になって、雪江は空港で出会った昭生のことを思った。

【・・・あの人に会うことがなければ私は未だ羽田空港にいたことになる。最終便は離陸せず、あの人はまだ空港に残されているのだろう。何処に行く予定だったのか、仕事だと言っていたが名前を訊くことも出来なかった。名刺を渡したので電話を掛けてくれるだろうか、否、屹度掛けては来ない。そんな人に感じた・・・】

 

 様似町は北海道にしては比較的温暖で、町域の約九十パーセントを森林が占め、降雪量は少なく風と海霧の多い地方である。太平洋から望むと、正面に様似漁港、その右手にアポイ岳、吉田岳、ピンネシリのアポイ山塊が聳え、日高山脈襟裳国定公園に指定されている。アポイ岳は学名オリビンと言うカンラン岩で構成され、氷河期時代から固有の動植物を育んでいる山として研究者の間で知られていたが、近年心許ない入山者や環境変化のため自然保護が必要となりつつあった。また、日高昆布の産地として有名であり、鮭、鱒漁港として水産業が盛んである。様似町から襟裳岬までは国道三三六号線で三十分程の距離である。国道三三六号線のうち庶野から広尾迄は黄金道路と呼ばれ、その建設に多額の費用が嵩み、まるで金を敷き詰めたような道路と言うのが名前の由来である。しかし、険しい海岸線は整備され現在は多くの観光客が行き来している情況である。

  様似駅には兄の克哉が迎えに来ていた。

「お母さんは?」

「今夜が峠だと言っていた」

「心配ばかり掛けてしまって・・・」

「今年は例年になく寒い。東京も寒いだろう?」

「いいえ、東京では寒さを感じない」

 と、雪江は言った。芯から染み入るような寒さを感じなかったのだろう。

「雪江、様似に戻って来ないか・・・?」

「時々そうしようかなと思う。でも後二、三年頑張る。しっかりした腕がなければお客さん来ないもの」

「そうか、仕方がないな・・・」

「お兄さん、結婚しないの?」

「雪江も和江も戻ってくる気がなければそろそろ結婚するかな」

 と、諦め顔で言った。

「仕事は?」

「可も不可もない。毎日同じことの繰り返しだ」

 克哉は地元の高校を卒業すると、事故で亡くなった父親の後を継ぐことは無く漁業協同組合に就職していた。雪江が高校一年の冬のことで、船からの転落死だった。

 車は既に病院の玄関口に着いていた。

 

 雪江の母は兄弟の見守るなか翌日の明け方に亡くなり、通夜、告別式と慌ただしく過ぎていった。久し振りに妹の和江にも会うことが出来た。和江は短大の二年生で、この春札幌のデパートに就職先が決まっていた。

「就職が決まって良かったわ」

 と、雪江は安堵したように言った。

「東京に行きたかったけれど、お姉さん来るなって言うんだもの」

「そうよ、一人では辛過ぎる所・・・」

「様似に帰って来る気はないの?」

「お兄さんにも言われた。でも、勉強することが沢山あって、後何年掛かるか分からない」

「美容師って大変なんだ!」

「一人前になるにはね。でも、東京に行ったことは後悔していない」

「お兄さん、案外寂しいのかな」

 和江は和江なりに兄のことが気になっていた。

「何れこの町に帰って来たいと思う。東京の生活は何時も後ろから追われているようで疲れてしまう」

「ねえ、お姉さん・・・好きな人はいないの?」

「残念ながら・・・」

「美人なのに!!東京の人には分からないのかしら?私が男なら放っておかないわ」

「毎日、仕事、仕事で付き合ってくれる人なんていない」

「恋人に近い人は?」

「それもいない」

「勿体ないな!」

「兄弟三人きりね」

 と、雪江は虚空を見上げて言った。

「離れ離れにね・・・」

「和江、札幌には直ぐ帰るの?」

「ええ、明日中には・・・お姉さん暫く居てね」

「家の片付けもあるし友達にも会いたい。でも、週末には帰らなくてはならない」

 一週間の休みを取ってきたが長く休むことは出来なかった。

「お兄さん、ご飯の支度できるかな?」

「漁師の息子だもの、大丈夫よ」

「教えてやってね」

「次に会えるの、何時になるかしら?」

 兄弟三人、次に会う機会が有るのか無いのか分からなかった。

「お姉さん出歩かないでしょ?偶には東京に行って上げる」

「嬉しいわ、有り難う」

 雪江は久し振りに様似の町を歩いた。家々の様子も、人々の生活も変わっていなかった。自然の中に息付き調和している町だった。苦しくても悲しくても雪江を受け入れてくれる町だった。東京に帰る前日エンルム岬に行った。海も、沈む夕陽も五年前と同じだった。索漠とした東京の街から帰ってきたいと思った。

夜が更けて行った。雪江は何時までも眠りに就くことが出来ず、エンルム岬に吹き荒れる風の音を聞いていた。


山に越して エンルム岬 12-1

2015-02-10 15:44:09 | 中編小説

 一

  雪江は目覚めたときから身体の不調を感じていた。しかし前日遅くまで仕事をしていたことや、以前からあった胸の間欠的な痛みだろうと思いそれほど心配しなかった。何時ものようにベランダに出て、何度か深呼吸を繰り返している内に、胸の圧迫感は治まり呼吸も楽になった。雪江の勤めている美容室サロンドモアは予約制で営業をしていた。また、雪江の腕前に惹かれてくる客もあったので、その日は仕事に行った。しかし仕事に就いて間もなく、胸の痛みに伴い、眩暈と発汗が生じ、午前中に早退して郊外のマンションに帰った。帰り際、同僚の神野美鈴が声を掛けてきた。

「雪江さん、顔色が良くないわ・・・無理しては駄目よ」

「ええ・・・有り難う。今朝も同じような状態だったけれど・・・直ぐ良くなると思う」

「御主人に連絡は・・・?」      

「でも、一週間前から長野県に出張なの」

 雪江と美鈴は同期に美容師学校を卒業していた。慣れない東京での生活や、結婚するときの相談相手になっていたので夫の志田川のことは良く知っていた。

「そう、待っていて・・・タクシー呼ぶわ」

 美鈴はふらつきながら歩く雪江を不安な面持ちで送り出した。

 

 ドアを開けるなり雪江はその場に倒れた。暫くそのままでいたが、やっとの思いでベッドまで辿り着いた。眠っていたのだろう、既に陽は落ち辺りは薄暗くなっていた。昭生に連絡しなければと思いベッドから起き上がろうとしたが身体が動かなかった。

翌朝目覚めると幾分疲れは取れていたが、一日食事を摂っていなかったので足許が覚束無かった。時間は既に九時を廻り、仕事に就けるような状態ではなく、今日は休みを取り、それから昭生に連絡を入れた。昭生は未だ現場事務所にいた。

「志田川さんですね、お呼び致しますのでお待ち下さい」

 夫を呼ぶ声が受話器のなか遠く聞こえてきた。

「志田川ですが・・・」

「貴方・・・雪江です・・・」

 と、やっと声を発している状態だった。

「昨日から身体の調子が良くなくて・・・一人では何も出来ないの・・・貴方、まだ帰ること出来ないかしら・・・」

「もう一週間になるな、成る可く早く帰るようにする」

「お願い、早く帰ってきて・・・」

「しかし後二、三日掛かるかも知れない」

「貴方に会いたくて・・・」

「早く切り上げるようにする」

「待っています。早く帰ってきてね」

「下に車を待たせてある。今から現場に行かなくてはならない」

「それに・・・」

「それにって?」

「ううん、何でもない」

「分かった。それじゃ行くからね」

 電話の切れた後、雪江はその場に蹲み込み暫く動くことが出来なかった。血の気は引き、鼓動は激しく波打ち、全身発汗しているのが分かった。しかし、ふらつきながらもベッドまで戻り横になった。そのまま眠りに落ちたが息苦しくて何度も目覚めた。全身ぐっしょりと汗を掻き、着替えようと思い起き上がろうとしたが力が入らなかった。カーテンの隙間に陽の光はなく時間さえ定かでなかった。辺りを見回してみたが昭生の姿はなく、もう会えないのではないかと思った。それから数時間経ったが、締め付けられるような胸の痛みは治まることはなく呼吸するのも困難になっていた。電話が鳴っていた。昭生からだと思い手を伸ばそうとしたが、受話器は手の届く所にはなく、直後に激しい胸の痛みを伴った発作が襲い、呼吸することさえ困難になっていた。痛みと発作は何度も何度も繰り返し襲い、雪江の意識は次第に薄れていった。

 昭生・・・何処にいるの・・・側に来て・・・と、朦朧とした意識のなかで昭生を求めていた。直ぐ側に居るように感じ、手を伸ばしたが触れることは出来なかった。昭生と始めて出会ったときの情景が脳裡を過ぎり、空港のロビーで抱き締められているように感じた。そして、生まれ故郷の様似町に帰りたいと思った。海が、エンルム岬の先端に拡がる紺碧の海が、ヒダカソウが、アポイ岳に咲き乱れる白色のヒダカソウが、町並みが、隅々まで知り尽くしている様似の町並みが走馬燈のように浮かんでは消えていった。しかし、冬の遅い明け方には既にこと切れていた。二十三歳で昭生に出会い、結婚して四年目、雪江二十七歳になって一ヶ月後のことであった。

 

 志田川昭生は関東建設株式会社の設計部に所属していた。関東建設は業界の中でも中堅クラスに属し、近年土木工事の受注で業績を上げ、昭生は設計部第三課の主任として今年で十一年目を迎えていた。河川工事の設計が主で、設計するに当たり環境保全としての治山治水対策、森林保全、地域住民の生活と水源の確保、水質保全対策、自然との調和等常に考えていた。現場を見て、地域を歩き、事業が環境に及ぼす影響を調査、予測、評価する環境アセスメントに時間を費やし、その工事の必要性を認識して、イメージが出来上がるまで集中して考え一気に図面を仕上げていった。また、自分の手掛けた現場にも常に足を運び工事の進捗情況を見て歩いた。しかしどっぷりと仕事に浸かっている訳ではなく、対象としての仕事であると認識していた。

 水は海洋の表面、湖沼の水面、植物の葉面から蒸発散して水蒸気となり、大気中で凝結して、雨や雪となって地下水、地表水となって海洋に流出し再び蒸発して行く。雨や雪は空気中の塵を洗い流し、流下する間に自然を浄化する。淡水は地球全体の約三%弱と言われ、利用可能な河川や、湖沼の淡水は一%にも満たないとされている。水の循環過程の中に、僅かの水によって生きていることに、昭生は生命を支える水の力を感じていた。

 入社した頃は、志田川の仕事に対して不必要な時間や出張が多過ぎるのではないかと会社内の評価だったが、幾つか河川工事を手掛ける内に、多少の遅れはあっても受注先からは『良い仕事をしてくれた』と、会社全体の評価を上げていった。また人間的にも実直で、昭生の仕事に対する真摯さに、何人かの後輩は同調と親しさを持って接していた。矢崎伸吾もその一人で、志田川より六年後輩の同じ大学の出身だった。矢崎も志田川の仕事に対して、始めは違和感を持っていたが何時しか納得せざるを得ないようになっていた。今回の出張も矢崎が同伴して、松本インターから国道一五八号線を下り、梓湖を上高地方面と岐れ、乗鞍高原に向かう山間の地に来ていた。建設事務所に来て一週間が経っていた。

「行こうか・・・」

 と、昭生は言った。

「はい」

「女房からだった」

「どうかなされたんですか?」

「具合が悪そうだった。しかし、心配ないだろう」

「そうですか・・・」

「ただ、何か言い掛けていた」

「一度帰られたら如何ですか?」

「後少しで工事の見通しも付く。それからでも良いだろう」

 そうは言ったが、雪江が現場にまで電話を掛けて来ることは滅多になかった。それに、以前にも時々息苦しいときがあり、医者に行くように勧めても、北国育ちは強いからと言っていたことが思い出された。しかし現場に着いてからは測量に追われ雪江のことは忘れていた。

 夕食を済ませ、打ち合わせ後の九時過ぎに電話を掛けたが雪江は出なかった。眠っているのだろうと思い宿舎に戻った。途中食堂にいた矢崎に声を掛けられた。

「如何でした?」

「電話に出なかった」

「そうですか、何事もなければ良いのですが・・・」

「明日は早めに出掛ける必要がある。寝るとしようか」

 明日電話を掛ければ良いだろうと思い昭生は床に就いた。明け方嫌な夢を見た。転勤、転勤で最後は地球の裏側に配属され、雪江と離れ離れになる夢だった。『貴方・・・行かないで、行かないで』と、雪江が叫んでいるところで目が醒めた。暫くの間蒲団の中にいたが、雪江のことが段々心配になってきた。昭生は明るくなるのを待って電話を掛けた。一〇回、二〇回と、呼び出し音が耳元で響いているだけで雪江の出る気配はなかった。一瞬帰るのが遅過ぎたのではないかと思った。急いで部屋に戻ると身支度を調え矢崎の部屋をノックした。

「早く起こして申し訳ない」

「お早うございます」

「さっき電話を掛けたが出ないんだよ。申し訳ないがこれから帰ろうと思う」

「分かりました」

「後のことは頼む。今から行けば今夜中には戻れるだろう」

 東京まで三〇〇キロ近くあり、中央高速を飛ばしても五時間近く掛かる距離だった。途中サービスエリアで二度電話を掛けたが、雪江は電話口に出ることはなく昭生の不安は募っていた。首都高速の高井戸で下り、渋滞している環状八号線を南に向かった。車の中から見えた部屋のカーテンは、十一時だと言うのに閉じられたままだった。急いで地下の駐車場に車を入れると昭生はエレベーターに向かって走った。部屋の鍵は自動ロックされたままになっていて、チャイムを鳴らしても応答はなかった。昭生は一瞬躊躇っていたが鍵を開け中に入った。暗く静まり返ったベッドの中に雪江は静かに横たわっていた。