冬の霧・四の④(鎌倉)
現在は電化され複線化された福知山線も、以前来た時は単線でディーゼル機関車が客車を牽引していた。二十五年前、学生時代に旅行で来たときとは随分面変わりしている。木陰の川沿いをのんびりと走り自然と同化していたが、現在は都会と何ら変わることなく開けた街中を走っている。大阪の郊外として急激な人口増加を支えるには複線化しなくてはならなかった。しかし、激しく変わってしまった環境には馴染めそうにない。
一通り新入社員研修が終り総務課に配属された直後だった。『兵庫に行ってくれないか?』と、部長の声に俺は振り返った。『はい』と応えてしまった俺はその時から今日まで葬式屋をしている。
「入社して直ぐのことで、机の前でボーっとしていたのだろう」
と、俺は言った。
「でも、それで良かった?」
「今ではそう思う。しかしあの頃は一緒に入社した連中から後れをとったように思った。葬式が終わり翌日出社する度に憂鬱になっていた。ひょっとしたら机が無くなっているのではないか、他の部署に回されているのではないか、そんな不安だった」
「でも、自分の仕事として受け入れた?」
「せざるを得なかったのかも知れない」
「でも貴方だけ、何故?」
「大きな会社にはこんな部署も有るのだろうと思っていた。でも葬式に参列する為に会社に入ったのではない。しかしいつの間にか葬式担当社員になっていた。だからと言って苦にしていた訳ではない。仕事に追われ仕事に埋もれている人間は多い。自分が何の為に仕事をしているのか見失っている。俺はそんな風になりたくなかった。仮に葬式専門であっても、淡々と仕事をしていることで後の時間は全て自分のものだった。電車のなかで本を読んでいても、眠っていても勝手である。仕事と言っても日本中を旅行しているようなもので決して苦にすることはなかった」
「昨日は電話をくれなかった」
「そうだね」
「何故?」
「出来なかった」
「何時もと違う」
「少しも違わない」
「嘘、付いている」
「これまでも、これから先も京子に嘘を付くことはない」
「信じても良いの?」
「勿論」
「知らないもん」
「京子の声を聞きたかった。でも、自分に素直になれなかった。こんなに好きなのに馬鹿だね、俺は・・・」
「貴方と居ると自分に素直になれる。ねえ、好きになるって何の条件もいらないの?」
「必要がない」
「そう、でも時々苦しそうな顔をする」
「京子が意識の中から消えて行くことがある。それをジーッと見ている。何故かと問う必要はない。でも、そんなときは会いたくなっている自分に気付いていた」
「私は何時でも待っていた」
「会うことで依り不安になっても?」
「貴方が来ることを待ち望んでいる自分に気付いていた。貴方の言う接点が私の中で生まれていたのだと思う。でも言えなかった。だって・・・言えなかった」と、声に愁いを帯びていた。
「京子・・・」
「貴方のことが好きだった。でも、それが本当のことか分からなかった。だって・・・分からなかった」と、京子の言い方には途中で言葉を飲み込んでいることが多く、それは、京子の思いが寄り強くなっていることの現れだった。
「自分の時間を大切にしなくてはならない。自分の時間を持つことは相手の時間を持つことと同じだと思う」
「貴方の言う意味を考えていた。でも、考えることでは無く感じることだと分かった。自分のことを大切にするとか、守ると言うことではなく、時のなかに埋もれるように生きることだと思う」
「京子の為にして上げられることはない」
「何も要らない、貴方と一緒にいたい」
「一つのことに生きることが可能なら全てを擲(なげう)つことが出来る。そうしなければ何も得ることはない。京子のことをそんな風に愛することが出来るなら、俺の変わることのない歴史になる」
「何故、優しいの?」
「優しさは作り上げて行くものであって、始めから俺のなかにはない。そんな風になりたいと思う」
「貴方は何も必要としないほど強い人だと思う」
「強さなんてない。どちらかと言えば脆弱だと思う。辛うじて生きているのであって明日のことも分からない」
「それを知っているから自分に負けないと信じている。貴方は自分の在り方と生活とを完璧なまでに切り離している。でも、日常的には何も変わっていない所に凄さがある」
「そんなに格好良くない。毎日疲れ果て、明日は何処に行くのか分からない生活をしている。出世することもなく、毎日が平凡で変わりない生活が続いてく」
それから数日後、休暇を利用して鎌倉に出掛けることになった。京子との初めての小旅行だった。
「静かだね」
「貴方のいた海、そして、私のいた海」
「戻ることはない」
「貴方のこと好きになってはいけない」
「京子と俺の関係は何もなくても成立する」
「貴方の中に入り込んでいくことが出来るのか不安だった」
「分かっていた」
「貴方が待っていることも、自分の思いを確かめることもしなかった。でも、貴方に出逢えたことを大切にしたいと思った。そして、切なく思うようになったのはいつ頃からだろう、貴方の話を聞きながら内側に流れている思いを知った」
「感覚が強すぎる」
「私が?」
「そして、統制出来なくなる」
「そんなこと無い」
「淡々と生きていれば良い。しかし、しかしと自分に問い掛ける。そしてジレンマに陥る。これまでの京子はそんなことを繰り返してきた」
「分からないよ」
「決して、価値とか基準を必要としている訳ではないが、自分のことを許せないのかも知れない。そして、雑務に追われることで自分のことを後に押し遣る」
「大切に守り通している訳ではない」
「そう思う。しかし結果論から言えば守り通している」
「捨てるって、どう言うこと?」
「それらに拘束されていた。しかしその後は意味を失う」
「貴方の言うことが分かる」
「先のことまで考えても仕方がない。今だけで良い」
「暫く会わないでいようと思った」
「何故?」
「二人の為に」
「そうかな?二人の為になら会っていた方が良い」
「でも、会わない」と、言った切り京子は海を見つめた。
「入社して直ぐの頃、山梨県の田舎で土葬と言うもの体験した。時代劇に出てくる漬物樽のような棺桶だった。膝を丸めて中に押し込み蓋をする。その周りを五寸釘で止め、担ぎ手が坊主の後に従って運ぶ。予め掘られた墓穴に棺桶を下ろし、坊主が南無阿弥陀仏と念仏を唱えながら土を被せる」
「その村に火葬場は無かったの?」
「そう言うことだろう。しかし当時土葬が許可されているとは思わなかった。人は死ぬ。その瞬間に立ち会ったことはないが、人間にとって死は必要なことだった」
「ええ」
「生きることも死ぬこともそれだけの出来事でしかない。そうであるなら、日常のことなど一切問題は無く価値を与えること自体下らない。死を境にして残された人たちの環境は多少変わるかも知れないが、直ぐ元に戻り以前と変わらない日常を送ることになる」
「ええ」
「死後硬直しない前に棺桶に入れる。人間の虚しさなのか、生きてきた本質なのか、もっと生きたかったと言う欲望なのか、何も無いのか、屍は既に何も語らない」
「何だろう、生きるって」
「死んだ人間など大した問題ではない」
「何故?」
「何れ誰も彼も死ぬ。多少のものは残すかも知れないが時と共に忘れ去られる」
「でも、家族にとっては大きな問題だと思う」
「遺産分け程度のものであり、それさえ、財産のある僅かの家に過ぎない。度々葬儀に参列したが大きなものはなかった」
「そうかも知れないね」
「人間にはどれだけの土地が必要か、と言うロシアの民話を読んだことがある。欲を掻いても仕方が無く、生きている人間には住む場所と僅かばかりの食べ物が有れば良い。人間が薄れて見えるのは、余りの悲喜劇の中でしか生きることが出来ない為で、死んで棺桶に入る姿を見ていると憂鬱な時間が取り巻いている。死者との対話がそうさせるのか、それとも俺自身の行く末を見ているのか、しかし仕事だった。生きることは自己を完成させる為ではなく、偶然生きていたことであり、死もまた偶然死んだのに過ぎない。意識だけの問題であり、意識が無くなったとき生きてきた過程の全てが終わる」
「うん」と、言って京子はまた海を見ていた。白い波を寄せているだけの海に何を思ったのだろう。
「京子」と、俺は呼んだ。
「静かね」と、京子は応えた。
「微妙に動いていた二人の接点が何処にあるのか、それが何を意味しているのか考えていた。随分長かったと思う。でも、答えは簡単だった。京子のしなやかに揺れる肢体、項(うなじ)、滑らかな肌、それらの総てが心地良く失ってはならないと知った」
「知らないもん」
「京子の内側で考え行動していることにふと気付くことがあった。そんなとき愛していることを感じていた」
「何故?」私なんか、と京子は言いたかったが言葉を飲み込んだ。
鎌倉から帰りその後も毎日同じ時間に出勤していた。事務机の奥に入り込んでいる旅行カバンの中身は葬式用具一式である。九州、北海道の通夜に参列となれば、時間の余裕などなく慌てて航空機を確保しなくてはならない。足許に触れるカバンに、これまでの葬式の様子が浮かび上がってくる。しかし虚しさしか感じることはなかった。
了