山に越して

日々の生活の記録

山に越して エンルム岬 12-10

2015-04-12 10:39:40 | 中編小説

  

  昭生は七月の初旬東京に戻っていた。精神的にも肉体的にも底辺を彷徨っていたが、清里での為体な生活から抜け出そうとしていた。しかし半年過ぎても意識は朦朧としていたのだろう、東京での生活も変わらなかった。食事に出掛けるか、買い物以外はマンションに閉じ籠もっていた。部屋には雪江の物がそのまま残され、死の認知と受容が出来なかった。しかし昭生は何日も掛けて雪江の持ち物を整理していた。片付けることで思いを断ち切ろうとしていたのだろう。洋服類を、食器類を、化粧品類を、仕事に関する様々な品を段ボール箱に詰め、ガムテープでしっかりと閉じていった。ひとつひとつの品物には、ひとつひとつの思い出があった。誰も知ることのない、そして、今では昭生の記憶にしか残らない過去の出来事だった。

 辺りを見回すとすっかり日も暮れ、今日も薄暗くなったマンションの一室に取り残されていた。

(もう清里には行かないの?)

(荷物を纏めて帰ってきた。暫くの間東京に居ようと思う)

(毎日片付けをしているのね)

(ひとつひとつ箱に仕舞いながら雪江のことを考えていた)

(ご免なさい・・・貴方・・・)

(思い出を失いたくなかった。しかし、虚脱した意識に何が必要なのか分からない)

(いいえ、もう直ぐ本来の貴方に戻ることが出来る)

 人は精神的なものが解決出来ない場合、物質的なものから解決を図ろうとする。立ち直る為に誰もが試みようとする行為である。しかし機械的に手足を動かしているだけであって何も変わることは無い。静まり返ったマンションの一室で日々が忘れ去られ、夏が過ぎ、秋も終わろうとしていた。昭生は、東京での生活に区切りを付け四国に向かった。岡山から瀬戸大橋を渡り、瀬戸内海沿いを走る列車に揺られていた。

(貴方、何処に行くの?)

(宇和島に行こうと思っている。これ以上東京に居ることが出来なかった。一人で居ると時間が止まっているように感じる。身体を動かしているか、動く物に身を任せていると気休めになる)

(貴方、そんな言い方はいや・・・)

(部屋の中には何も無い。何も無いように片付けたのに、何も無いことに耐えられなくなっていた。東京での日々は悲し過ぎたのかも知れない)

(でも、悲しみを乗り越えなくては・・・)

(愛することは悲しみしか残さない)

(いいえ、悲しみを越えるとき愛が見えてくる)

(越えることは出来ないだろう。それは雪江だけが知っている)

(私には分からない・・・分からない)

(雪江の持ち物は何もかも軽かった)

(貴方の頬に涙が流れていた。私はその涙を拭いて上げることが出来なった)

(雪江の荷物はそのままで良い?)

(もう二度と着ることのない洋服、使うことのない食器になってしまった。洋服は和江に上げてね・・・)

(そうする)

(ねえ貴方、あの時と同じ。海の色がスカイブルーでとっても明るい。日高本線から見る海と違って軽やかで優しい感じがする。そう、貴方に必要な自然の力を持っている)

(夏の間、仕事に行ったところを歩いていた。懐かしくて行ったのではないが、水の流れを見ていると心安らぐ)

(貴方は口癖のように言っていた。自然と、水を守る為に働いていると・・・そのことを忘れないで欲しい。自然を浄化し、歴史を変えることが出来るのは水しかない。水は生き物のように恐く、水の力が人間の生活や生き方さえ変える。治水には限界があり、何処まで仕事として関わりを持てるか分からないが自分の力を試してみたい。水を治め調和していると思うのは人間の奢りであり、水を守ることが建設の仕事だと言っていた・・・河川改修や護岸整備などに因って、水辺の生息、繁殖の場になっている瀬や淵などを壊している。一度破壊された環境は二度と元に戻すことは出来ない。今、貴方の前に瀬戸内の海が拡がっている。波は静かに寄せ、汀にも沢山の生物は生きている。気の遠くなるような時間が生物を進化させ、自然に適応してきたと言っていた)

(生きていた間に何を得たのだろう、ひとつの力は他を犠牲にする。人間はそんな生き方しか出来ない)

(貴方に必要なことは仕事だと思う。不確実な環境を自らの手で確実にするとき、明日が見えてくることを知っている)

(雪江・・・)

 特急列車は松山に着いていた。宇和海号に乗り換え、西の果て宇和島に向かった。海と蜜柑畑の傾斜地を右に左に揺られながら列車は走っていた。宇和島に着く頃は夕暮れを迎える時間だった。

 

 秋も過ぎ東京も北風の吹く季節に変わり空気は透明度を増していた。眼下に見える街路樹は既に葉を落とし始め、所々重なり合い風に運ばれていた。

 雪江が亡くなり一年が過ぎようとしていた。

(貴方、もう直ぐ一年になります。その間、私を何時も近くに感じ愛してくれた。これ以上苦しまないで下さい)

(一年か・・・でも、昨日のことのように思う)

(いいえ、大切な時間を失っていた)

(自分に対して、仕事に対して真摯であろうとした。そうすることで人間として許されるだろうと思っていた。しかし一人では何も出来なかった)

(いいえ、私は知っている。仕事のなかに、設計する図面のなかに貴方の理想を生かそうとした。建物は自らを誇示することなく数年の内に自然に同化しなくてはならない。それは、貴方自身の哲学であり優しさから来ていることだった。何が必要なのか、何故必要なのか、求められていることは何なのか考えていた)

(唯、生きていたのに過ぎない。人から見れば為体に映っていただろう)

(貴方は自らを肯定することはない。否定していくことで新しい道を探し続ける。これからも、そう言う生き方をして欲しい)

(雪江・・・)

(ねえ貴方、美鈴さんの話をしても良い?)

(良いよ)

(美鈴さんの気持ちは私が一番良く知っている。屹度、貴方を理解してくれるでしょう。美鈴さんに任せることが出来れば安心できる・・・美鈴さんを愛して下さい)

(神野さんに返事をしなくてはならない。しかし、自分の気持ちを確かめたとしても、その場の判断に委ねるより仕方がない。出来れば何もかも忘れて何処か田舎で暮らしたい)

(逃げては駄目・・・)

(済まないと思っている。電話の後、何故帰ることが出来なかったのか、早く帰ってさえいれば、あの子も雪江も助かっていた。俺は傲慢で自分のことしか考えていなかった)

(忘れなければ明日は来ない・・・)

(明日が来たとしても意味がない)

(ひとつだけお願いがあります。これが最後のお願いになるのでしょう。様似に来て下さい。そして、私の思いを貴方の心のなかに閉じ込めて下さい。私は永遠に貴方と居る。貴方に依って生きたことを忘れない)

(今は雪江の思い出が有り他に何も必要としない。仕合わせは何処にあるのだろう?・・・雪江と出会った頃を懐かしく思う)

(美鈴さんのことを考えて下さい・・・貴方にとって必要な人は美鈴さんしかいない。美鈴さん、このままでは東京を離れてしまう。貴方のことを愛している美鈴さんと別れるようなことになれば、美鈴さんも貴方も不仕合わせになる)

(様似には十二月に行こうと思う。神野さんのことは様似から帰ってきてから考えたい。清里の別荘に来てくれたとき、雪江のことを話した。良い人だと思う)

(そうして、貴方・・・)

 愛する思いは時が経つに連れ深くなっていた。しかし愛する人の死は、ひとりの人間を頽廃へと導いていく。時々蘇る、生きようとする思い。しかしそれを日常の感覚として捉え切れない状態が続いていた。雪江のこと、美鈴のこと、家族のこと、仕事のことなど心のなかを過ぎっていた。

 夏の間、幾つかの工事現場を歩き、忘れていた感覚を肌で感じようとした。しかし気が付くと酒に溺れていた。一人で飲む酒が侘びしく、侘びしさを紛らわす為にまた飲んでいた。酔っていたのか、酔うことも出来なくなっていたのか、静まり返った暗い部屋で昭生は耐えていた。



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