山に越して

日々の生活の記録

山に越して エンルム岬 12-8

2015-04-04 10:50:11 | 中編小説

  

  人々は足早に通り過ぎていた。昭生は通りの向かいから八階建てのビルを眺めていたが、決断を下したかのように歩き出した。関東建設株式会社の玄関に入ったのは梓湖への出張の日以来だった。慰留されていたが正式に退職の手続きを取る積もりでいた。設計部の自分の机を淡々とした思いで片付けた。僅かばかりの私物を紙袋に仕舞いながら、これで終わりなんだと思った。しかし、感慨も未練もなく二度と潜ることのない玄関を出た。そして、振り返ることなく真っ直ぐ帰路に着いた。

 春の陽射しの先にマンションが見えてきた。暫くの間ベランダを見上げていたが手放そうと思った。雪江の思いが息付いている部屋で暮らすことは出来なかった。自分の行くべき場所も、有るべき姿も分からなかったが、東京を離れ、誰にも会わない所で生活しようと思った。

 その日、妹の有美と母親が訪ねて来ることになっていた。

「昭生さん」

「兄さん、久し振り」

 二人とも繁々と昭生を見た。痩せ衰え、四ヶ月前とは面変わりした姿を哀れに思った。

「いらっしゃい」

「昭生さん、お昼の支度をするわ」

 と言って、二人は台所に入り出来合いの惣菜食品を温め、家から持ってきた物を皿に並べた。

「母さんの作った料理、久し振りだな」

「兄さん、また清里に行くの?・・・」

「そうしようと思っている。でも、夏場は混み合ってくるからその前に帰って来ようと思う」

「会社は?」

 と、母親は言った。

「今日で正式に辞めました」

「そう・・・別荘暮らしは何かと不自由でしょ。家に戻ってくれば食事の心配をしなくて済むのに・・・」

「有り難う母さん、でも兄さんも結婚して、そう言う訳にはいかないだろう」

「そうよ、お母さん」

「でも、働かないことには・・・」

 母親はその後に続く言葉を言わなかった。今までのことを忘れ、新しい生活を築かなければならないと、言いたかった。

「仕事は必ず見つけるようにします」

「父さんや母さんに出来ることが有れば何でも言って下さいね」

 春の陽射しは穏やかで時間が止まっているかのようだった。一緒に昼食を摂り、駅まで送り、昭生は美容室サロンドモアに寄った。世話になった神野美鈴にお礼を言って清里に行こうと思っていた。

「志田川さん、随分気を落とされたことでしょう」

 と、美鈴は近くの公園まで来て始めて口を開いた。

「雪江がお世話になり、有り難うございました」

「美容室に残されていた雪江さんの品をお届けに伺いました。でも、志田川さん何時もいらっしゃいませんでした」

 美鈴の目から涙が落ち始めていた。

「マンションに居ても耐えられないだろうと思っていました。でも、何処に居ても同じことかも知れません」

「志田川さんのこと、雪江さんからお聞きしておりました」

「そうですか・・・」

「私も田舎から出て来て東京での生活を始めたばかりでした。毎日が辛くて、でも、雪江さんがいたから此処まで来られたのだと思います。雪江さんには感謝しています」

「雪江も初めての東京で不安だった頃、神野さんに会えて良かったと言っておりました」

「雪江さん、一番の友人で私の理解者でした」

 二人は暫く黙ったまま過ぎた日のことを考えていた。

「そろそろ帰ろうかと思います。神野さん、本当に有り難うございました。雪江の為にも、これからも頑張って下さい」

「ええ・・・」

 と、美鈴は口籠もった。

 いつの頃からか独りになった時など、ふと志田川のことを考えている自分に気付いていた。そんなとき、雪江に対して申し訳ないと思いながらも、自分の気持ちをどうして良いのか分からなかった。それに、葬儀の時の志田川の落胆振りに心が痛んだ。側によって抱き締めたかった。しかし出来ないことだった。屹度その時に、既に愛していることを知ったのだろう。美鈴は躊躇っていた。しかし、志田川に対する思いを伝えて置かなくては、二度とその機会を失うだろうと思った。

「志田川さん、雪江さんのこと今でも愛していらっしゃるのでしょうか・・・そうですよね・・・雪江さんのこと、何時も羨ましいと思っていました。何故か分からなかったけれど、雪江さんに嫉妬していたのかも知れません・・・マンションに何度かお伺いする内に、若しかして、もう戻っては来ないのではないか、二度と会えないのではないかと不安でした」

「神野さん・・・」

「四ヶ月間、部屋の明かりが消えていました」

 公園の中は静かだった。休憩時間を終えた人達は既に職場に戻り、誰も居なくなったベンチに掛けた。

「ご免なさい、こんなことを言って・・・でも、葬儀の後毎日毎日考えていました。そして、志田川さんのことを大切な人だと気付きました。随分以前から心の片隅に住み始めていたのでしょう、唯、そのことに気付かない振りをしていた・・・雪江さんには済まないと思っています。でも、志田川さん、私のこと考えて戴く訳にはいかないでしょうか・・・」

 昭生は暫くの間何を言って良いのか分からなかった。神野美鈴が自分に対して思慕の念を寄せていたなどと思いも寄らなかった。

「告別式の日から東京を離れ清里の別荘を借りて住んでいました。悔恨の日々で、自分が何処で何をしていたのかさえ分からない生活でした。それに、今日限りで会社を辞めてきました」

「志田川さんの苦しみを理解したいと思っていました・・・マンションの暗い部屋を見ていて、雪江さんが呼んでいるかのように思いました。雪江さんの替わりなど出来る筈はありません。でも、志田川さんの力になりたいと思いました・・・この間、雪江さんのお墓参りをさせて戴きました。そして、志田川さんに対する私の思いを話しました。雪江さんに納得して戴けるか分かりませんが、分かって欲しいと思いました」

「しかし・・・」

「焦っている訳ではありません。志田川さんのお気持ちが静まる迄待ちたいと思います」

 美鈴も自分の思いを伝えることが辛かった。志田川に受け容れられなかった場合、これを機に東京での生活に終止符を打ち田舎に帰ろうと思っていた。志田川に対する愛情の芽生えも原因だったが、東京での一人暮らしに困難さを覚えていた。

「これまで未来を先取りするような仕事をしていました。でも、仕事だけでは生きられないことを知りました」

「生きて行くことは、一体何だろうと考えることがあります。日々の辛いことを聞いてくれる友人もいない。毎日毎日疲れ切った身体に、自分の為に勉強していると言い聞かせ、後一年、後一年と耐えていた。でも、東京での生活は寂し過ぎました・・・雪江さんが亡くなられた日の前日のこと、志田川さんは長野に出張中だと言っておられました。そのことを知っていたのは私以外いなかった。雪江さんの乗ったタクシーを見送りながら何故か不安だった。翌日休んだとき、何故マンションに行かなかったのか悔やまれます。あの時行ってさえいれば、雪江さん助かっていたのかも知れない・・・日々の仕事に追われていると大切なことを見失います。人を思いやる必要があるのです」

「雪江にとって、神野さんは掛け替えのない人だったと思います」

「私がいけないのです」

 美鈴は深い溜め息を吐いた。虚ろな眼差しの向こうに帰らぬ雪江の姿を見ていた。そして、志田川の辛さを考えると、自分の思いを打ち明けたことを後悔していた。

「私には何もありません。それに、これから先何が見出せるか分かりません。でも、もう一度考えようと思います」

「志田川さん、お元気でいて下さい」

 昭生は美鈴の思いがけない告白に狼狽えていた。二、三度しか会ったことはなく、雪江の親しい友人だったこともあり、その内面まで考えていなかった。思えば雪江の葬儀のとき、てきぱきと働き、時々自分の方を振り返って見つめていた姿が思い出された。

 清里に着く頃は春先の深い夕靄に覆われていた。住んでいる家は疎らだったが、雪解けが進み、庭先には春の花が芽生え、別荘の周囲は少しずつ変わっていた。

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