新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

ペプシからアップルへ

2020年07月28日 | 日記

 アップル・コンピューターの創業者スティーブ・ジョブズが自らがつくった会社を追い出された話を、スタンフォード大学の卒業生へのスピーチで明らかにしている。スピーチ自体は高校の英語教科書に採りあげられているし、ユーチューブでも見ることもできる。ジョブズは自らの出生の秘密を赤裸々に語ったのち、大学に入学するも数か月のうちにドロップアウトした経緯を語る。ただすぐに大学を去ることをせず、潜り聴講生として興味がおもむくままに面白そうな授業を聴講しているうち、カリグラフィーに興味をおぼえる。いかにして文字をきれいに見せるか、その極意を学んだ。それがアップル・コンピューターの魅力的フォントへとつながったという。幼なじみの友人ウォズニアッキとともにガレージで会社を始めた。二人がつくりだしたコンピューターが売れ、またたくまに従業員数千人を数える大会社に成長した。
 ジョブズは当時、業績が低迷していたペプシを、コカコーラ社を追い抜く業界1位の会社にしたジョン・スカリーをヘッドハントし、CEO(最高経営責任者)に据えた。1983年のことだった。ジョブズはchairman(会長)としてスカリーとともに二人三脚で会社を率いていたが、そのうち二人の間に齟齬が生じる。業績が低迷した1985年、ジョブズは会社を追い出された。自らが設立した会社を追われた。
「オディッセイ/ペプシからアップルへ」はジョン・スカリーの自伝の形をとっているが、スティーブ・ジョブズ追い出しを、裏側の、追い出した側から見ることができる資料として読み進めたい。
 昭和50年代だったか、ペプシの猛追に対抗するためにコカコーラが伝統の味を変え、甘くしたのをご存じだろうか。その辺の事情にも興味がある。



蜂に刺された

2020年07月27日 | 日記

 19日日曜、草刈り作業の最中、蜂に刺された。右手の長袖ワイシャツ袖口から侵入した1匹の小さな蜂が前腕部をチクチクと6、7針。急いで木酢液を塗布したが、だんだん腫れてきた。痛くはないがかゆい。一緒に作業していた医師に「1、2時間安静にしたほうがいいですよ」といわれた。4年前のこの時期は顔を刺された。少し腫れた程度で終わった。今回はあとがひどかった。時間がたつにつれて腫れがひどくなってくる。さらには刺された部分だけでなく肘のほうまで腫れが広がってきた。
 翌月曜、近くの診療所を受診した。医師は腫れた部分をよく見ることもなく「もう1日たっているから大丈夫です。2、3日で治ります」といって、塗り薬をくれた。塗り薬が効いている気配はなかった。腫れはますますひどくなる。ネットで調べると、ハチ刺されは1時間ぐらいの間にアナフィラキシーショックが起こることがあるが、それさえなければあとは患部が腫れて退くだけと書いてある。繰り返すと危険だとも。
 火曜日、腫れがさらにひどくなり、広がってくる。はたしてこのまま放置してよいものか。妻は心配し、もう一度医者へ行こうといいだす。いや医師がすぐ治るといったし、ネット情報もあるので時間がたてば治ると自分に言い聞かせながらも不安は残った。腫れは熱をもっていたので冷湿布することにした。患部に湿布薬をあてる。これは効いた。水曜夕方には峠を越えた感じがあった。木曜朝、腫れがひいていた。医師の言葉どおり、3日後にほぼ完治した。それにしても心配した3日間だった。
 似た経験がほかにもあった。左肘を骨折し、手術したときだった。左腕全体が紫色に腫れあがり、その腫れは指の先まで広がってきた。それでも医師は腫れにはまるで無頓着で、レントゲン写真の骨のようすばかりを見ていた。結果として1週間ほどで腕の腫れは自然治癒した。医師が手を下したのは骨折の手術だけだった。
 医師というのは核心部分だけを見て治療し、あとは自然治癒力に任せるものだということを強く感じた2つの出来事だった。





学校の仕事が始まった

2020年07月23日 | 日記

庭のカサブランカが花開いた。

 ふだんは屈託のない高校生たちも、3年生になると自分の進路のことであれこれと悩む。指定校推薦で進学するべきか一般入試を受験するべきか、などと私のところへも相談に来る。私はもはやふつうの授業はしない。放課後に生徒の個人指導を担当するのみだ。生徒を取り巻く環境は大きく変わってきている。ある生徒によると、指定校推薦の日程が1か月遅れるし、面接は取りやめになるという。別の生徒は高校を卒業したらまず中国へ留学したいがどう思うかと訊いてくる。中国の学校は9月始まりだ。アイデアとしてはふつうに日本で大学へ進学するよりユニークで望ましいことだが、なにしろ先が読めない。実質的鎖国状態がいつ解かれるか、いつふたたび鎖国になるかが読めない。休校期間が3か月もあったせいか、多くの生徒が塾か予備校に通い始めている。
 もっとも心配していた教室内でのクラスター発生がいまのところ報告されていない。これには心底ほっとしている。40人学級での授業は3密の典型だが、全員がマスクを着用し、定期的に換気するなどの工夫が奏功しているのだろう。私のところでも生徒と対面で座るときには互いの距離を遠ざけたり、近い場合はアクリル板をなかに立てたりする。互いに90度の角度になるように座るとか、生徒が入れ替わるときにテーブルを除菌することもある。ここまでしながら感染の不安が払拭できないところが悩ましい。
 学校で一緒に生徒指導に当たっている大学生たちによれば、大学院を除く学部授業はほぼ100パーセントがオンライン授業になっている。大学生を登校させ、互いが接触する機会をつくることが大学当局にとって不安材料なのだろう。新入生歓迎などといって飲み会を催すかもしれないし、サークル活動に夢中になるあまりつい感染者を広めてしまいかねない。大学院生が新入生歓迎会をオンラインでしたというので尋ねてみた。「盛り上がりましたか」「いえ、早く切りたいほどでした」。





1968年民主党大会(その3)

2020年07月18日 | 日記

 翌月曜の夜、警察の暴力はいっそう激しさを増した。だれかれかまわず警察は殴打した。デモ隊を鎮めようとしていた牧師が殴られ、自転車で帰宅途中だった人が湖へ放り込まれた。民家から顔を出して騒動を眺めようとした人が顔に催涙スプレーをかけられた。前夜の経験からより大きな目立つ記者証をつけた記者がいたが、警察の目をひきやすくしただけだった。メディアはいっせいに警察の暴力沙汰を書きたてたが、デイリーは「デモ隊と記者を見分けることができるか」とうそぶいているだけだった。
 水曜夜。シカゴ一の繁華街であり、おしゃれな店舗が軒を連ねるミシガン通りにヒルトンホテルがある。そこで暴動が発生する。警官隊が警棒を振りかざしながらレストランのガラス戸をたたき壊し、乱入する。ホテルのロビーにまで押し入る情景がテレビ画面に映し出された。メディア史に残る警察官の乱闘事件だった。アンフィシアターの会議場でも、同時進行している警察の乱闘事件を取り上げて発言する代表議員がいた。「ここにいるマクガバン議員を大統領にすれば、シカゴの通りにゲシュタポを出現させるようなことはない」とまでいうと、議場のデイリー派の議員たちがいっせいに立ち上がり、マクガバンを演壇から引きずり下ろしてしまった。
 木曜日、デイリーはとつぜんテレビ出演する。人気司会者ウォルター・クロンカイトの番組だった。番組内でデイリーは、民主党大会に際して要人を殺害する旨の脅迫状が何通も届いていたことを明かす。だから行き過ぎと思われるほどの要人警護を固めたのだと言い訳する。ただその脅迫状はデイリーのもとに秘匿されたままであり、だれも確認できていない。金曜日に民主党大会が終了し、全米各紙はデイリーをネオファシストだと攻撃した。
 
 以上、簡単だが、1968年民主党大会の混乱ぶり、シカゴ市長デイリーの舵取りぶりを紹介してきた。2020年共和党大会はどのようなものになるのだろう。




1968年民主党大会(その2)

2020年07月17日 | 日記

 大きな、うるさい声でめちゃくちゃな鳴き方をする鳥が、家の前の電線に止まっていた。ガビチョウのようだ。

 リンカーン・パークはシカゴ中心部から2マイル北にある湖岸公園だ。東はミシガン湖に面し、南には高層マンションがそびえる。湖からの風が涼をもたらし、夏の暑い夜をすごすにはうってつけの場所であり、多くのデモ隊が集まっていた。過激な言動をする一部過激派を除いて大部分は平和にロック音楽を聴き、アジ演説を聴き、会話を楽しむ穏健な人たちだった。ただ街当局は夜11時以降の公園使用禁止令を出していた。日曜夜11時、大部分は帰宅したり、宿泊施設へ向かったりしていたが、約1千人がなお公園に残り、夜を明かそうとしていた。
 警察による一方的な暴力が始まったのはこの瞬間だった。公園に残る平和な人たちを血まみれにするどころか、その暴力は取材していた報道陣にも向けられた。記者証をコートにピン留めしたニューズウィークの記者は、警察の邪魔をしたわけでもないのに殴りつけられ、メモ帳と写真のフィルムを没収された。7人の記者が犠牲になったことから、報道陣が警察のおもなターゲットであったことが推察できた。メディアはことあるごとに警察の捜査の行きすぎを報道してきたし、人種差別問題がもちあがるたびに警察を告発してきた。だから警察のメディアに対する恨みは積年のものがあった。デイリーも同じ考えだった。「記者だからなんでもできる、法を犯してもよいわけではない。どんなことでもできるというのは新聞、テレビ、ラジオの特権ではない」と息巻いていた。