新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

あこがれの街、ボストン

2018年05月29日 | 日記

 栗の木はいま糸のように垂れる花をつけています。緑だったり白だったりしますが花には見えません。しかしこれが散って秋口には毬栗をつけます。また炭焼き場の隣にあるブルーベリーは写真のようにすでに実をつけています。ことしは例年になく早い時期の収穫が見込めそうです。
 最近、早起きになりました。4時ごろには目ざめます。小鳥がうるさいほどさえずる日があります。ホトトギスがトッキョキョカキョクと鳴き、ガビチョウが規則のない鳴き方をします。聞くところガビチョウは他の鳥の鳴き声をまねるそうです。これまで聞いていたホーホケキョが、ひょっとするとウグイスでなくガビチョウだったかと疑いたくなります。ずいぶん下手なホーホケキョだな、と感じたことがありました。

 作家、村上春樹の紀行文集を読んでみました。村上春樹を読むのはこれがはじめてです。
 ボストン近郊に住んでチャールズ川ぞいをジョギングするときの気分を書きとどめた文章は、気どりなく淡々とこの街を描写しています。チャールズ川ぞいにはボストン大学やマサチューセッツ工科大学、アメリカ最古といわれるボールパーク(野球場)があり、河畔は付近に住む住民たちの憩いの場になっています。河口へくだると有名なボストンコモンという、60年代学生活動家たちが集会を開き、警官隊ともみ合った公園があります。そして毎年春におこなわれるボストンマラソンのコースは、ニューイングランドの雰囲気をもっともよく表すものです。
 村上春樹は90年代、数年間ボストンに隣接するケンブリッジに住み、チャールズ川ぞいを毎日ジョギングしていました。ボストンマラソンに何度も出場し、完走しています。アメリカ発祥の地ともいえるこの歴史ある街を、いつか自分で体感してみたいものです。





「主張する大学生」はいるか

2018年05月23日 | 日記

 日大アメフト部の反則行為が世間を騒がせている。一昨日、日大教職員組合が真相究明を求める声明文を日大幹部宛に発表した、というニュースが流されたとき、テレビ朝日のニュース番組でコメンテーターを務めていた大谷さんが、「学生はなぜ声をあげないのか」と憤っていた。大谷さんは私とおなじ学園紛争世代、全共闘世代のようだ。自分の大学で不条理なことが起こっているのに、学生が黙ってみているのはおかしいと感じる世代なのだ(ここでいう「学生」とは当該のアメフト部の学生でなく、一般学生のことを指しているので誤解しないでほしい)。
 全共闘世代ならこうするだろう。まずは一部の学生が集まって議論する。自分たちの主張を表現するために立て看板をつくる。立て看板はすくなくとも縦横2メートルの長さがほしい。文字は全共闘世代に独特な角張った省略文字だ。つぎにチラシをつくり、一般学生や教職員に配布する。そうして自分たちの意見に同調する人を増やしていく。署名活動をする。この場合はまず渦中の常務理事を解任し、日大アメフト部のコーチを総入れ替えせよ、という要求のための署名活動になる。日大執行部の総退陣を迫る要求書名になることもある。そうなるとたいそうなことになるので、大学外の一般の人たちにも呼びかけ、自分たちの主張を理解してもらわなければならない。プラカードを掲げてデモ行進する。渋谷、新宿、池袋、人が集まるところならどこへでも出て行く。学生側の要求が受け入れられない場合、全学学生会議を招集し、大学執行部に団体交渉を求める。団交が実現すれば、大学執行部が学生側幹部によってつるし上げを受けることがあるが、それはめったに実現しない。そこで学生側は要求貫徹のための伝家の宝刀とばかり、ストライキに入る。授業をすべてボイコットする。スト破りが出ないように、教室棟の入り口にバリケードをはる。大学側が手をこまねいて見ているわけにはいかない。バリケードをはられれば、それを解除するために機動隊派遣を警察当局に要請する。学生側は武装して対抗する。ヘルメットをかぶり、振り回すための角棒などを用意する。もはや学生たちは大学構内に泊まりこんで当局側の実力行使にそなえる。
 いつの間にか、アメフト以上に危険な、一触即発の状態になってしまった。しかしこうして1968年に起きたのが東大安田講堂事件だった。
 いま日大の学生たちは、どのようなことを考え、運動しているのだろう。SNSでどのような主張を拡散しているのだろう。なにも聞こえてこないのだが・・。
 
なお私は全共闘世代ではありますが、全共闘の一員ではなく、学生運動もいっさいせず、冷めた目で世間を見るノンポリ(non-politics)でした。





はじめてのショパン

2018年05月22日 | 日記

 ミッチェナー「ポーランド」を読みながら、BGMにショパンを使っている。とくに「マズルカ」は、独立国としての地位を保とうというポーランド人たちの意志の強さを体現した曲に思える。
 ポーランドはその地理上の位置のゆえに、歴史に翻弄されてきた。北からはスウェーデン、リトアニアに攻められ、西からはドイツのブランデンブルグが、東からはコサックが虎視眈々と攻め入る機会をうかがっていた。プロシアもロシアもオーストリアまでもが隙があればポーランドの一部をわがものにしようとしていたし、アジア系のタタール族も食指をのばしている。南にカルパチア山脈という自然の城壁があるとはいえ、周辺の国と地続きであることは、たえず他国の侵略を受ける危険性にさいなまれることを意味した。
 しかしポーランドの豪族、貴族たちは強力な王をいただくことを好まず、多くの荘園を所有する貴族らが自分たちの既得権益を守るために弱小な王を他国から招き、議会でも拒否権を発動して重要法案はすべて却下していた。
 貴族らが自分たちの財産を殖やす手だては、また貴族に仕える人たちが財産を殖やす手段は婚姻によって有力な家系につながることだけだった。ミッチェナー「ポーランド」のなかの「マズルカ」と題する章は、そうした社会的地位を上昇させ、私財を殖やそうとする人たちの嫁取り物語になっている。
 歴史上、ポーランドは諸外国によって何度か分割統治され、国自体の存在が消され、それでも復活するという不思議な運命をたどっている。作曲家ショパンはそのような国に生まれ育った人だった。ノクターンのようなやさしい調べの曲もあるが、独立国としての意志を音楽で体現しようとした「マズルカ」のような曲が生まれたのは歴史の必然だった。
 チェコの作曲家スメタナにも同様のことがいえよう。「わが祖国」は懐かしさを感じさせるとともに、やはり歴史にもてあそばれないで民族の統一を保っていこうという意志の強さを感じさせる曲だ。首都プラハにある国民劇場は、ながらくドイツ語での演劇しか認められてこなかったプラハにおいて、チェコ語で演劇をしようという運動から生まれた劇場だった。この劇場は、スメタナの音楽とともにいまも燦然と輝いている。
 いつかポーランドを訪れたい。ワルシャワ、クラクフだけでなく、ビスワ川を北へと下ってみたい。この国の歴史はビスワ川にこそあるのだから。






「西郷どん」がおもしろくなった

2018年05月14日 | 日記

 NHK大河ドラマ「西郷どん」がここへ来て、がぜんおもしろくなった。舞台が奄美大島に移ったからだ。薩摩藩に仕えていた西郷が島流しに遭い、奄美大島へたどりつく。
 奄美大島の龍郷(たつごう)。私は15年ほどまえに一度訪れたことがある。海に面した60軒ほどのこじんまりした集落だった。島の中心地、名瀬からは車で40分ほどの距離があった。おそらく島のなかでも独立独歩の精神をもち、誇り高い人たちの集落だったはずだ。
 テレビでは登場人物たちが島のことばで話し、標準語の字幕を出している点も私の興味をかき立てる。むかし中本正智先生から琉球列島の方言を教わったことがある。先生は沖縄、奄美地方をくまなく調べ、方言地図をつくっていた。島々に存在する町村の教育委員会、あるいは学校の国語教員の協力を得て、「太陽は何というか」「東は何というか」「女は何というか」などと問い、資料を集め、自分で現地へ行って再確認する方法をとっておられた。ことばは島ごとに差があるが、おおきく見て沖縄方言、または琉球方言といえるものが存在する。
 さて江戸末期、奄美は薩摩藩の所領になっていた。藩は年貢として黒糖を取り立てた。サトウキビを絞って出る汁を、釜に入れて煮る。すると黒糖ができる。これはうまい。健康にもよい。しかしサトウキビを黒糖にすると量が百分の一に減るという。天候不順のためにサトウキビが不作になることがある。それでも薩摩藩の役人は容赦しない。一定量を納めさせようとする。
 善政を敷いたとされる島津斉彬でさえ、奄美の人たちの間では不評だった。島津の殿様といえども奄美のようすまでは分からなかったのだろう。
 黒糖を取り立てる役人と自分たちの生活を守ろうとする島の人たち、そのようすをはじめて目にし、数々の疑問を抱く西郷。西郷はもっとつぶさに島のようすを知ろうとする。
 そのため西郷は島の女性に近づく。島では本土から来た男に現地妻を提供する風習があった。しかしそこはセクハラに厳しい現代社会にあうようにアレンジしてある。村の長老は現地妻役に芯の強い女性を選ぶ。女性は「体には指一本触れさせない」といいながら、西郷に食事を届ける。結局、西郷はこの女性を通じて島のさまざまな現状を知ることになるようだ。これからどう展開していくか、楽しみだ。






連凧110枚、大空に舞う

2018年05月05日 | 日記

 藤野凧の会は5月5日を「連凧あげの日」にしている。上野原の河原で110枚の連凧がみごとに風に舞った。10枚ごとに色を変えてあるので、いま何枚上がっているかが一目で分かる。凧と凧との間は160センチほど、110枚分になれば180メートル近くの長さになる。1本の糸では足りないから結びあわせてつないでいく。先端近くは細い糸ですむが、1枚1枚の凧が受ける風圧はおなじでも、先端からの距離が進むにつれ、より強度の高い糸が必要になる。そうしたことを一から手探りで研究しながら凧づくりをしてきたのがISさんだ。藤野凧の会会長、われわれ凧あげ隊の隊長でもある。
 ISさんが凧づくりを本格的にはじめたのは、かれこれ25年ほどまえになる。仕事を定年退職し、趣味に時間を使えるようになったときだった。郷里が喧嘩凧で有名な長崎県五島列島だったため、幼いころを思い出しての凧づくりだった。はじめは和凧をつくって揚げていたが、しだいに連凧に移っていった。連凧は栄える。周囲の人たちが感嘆の声を上げてくれる。そのうち陣馬山山頂で連凧をあげることを恒例にするようになった。
 連凧には数々の工夫が凝らされている。100枚にもなると100枚分の風圧がひとえに手元にかかる。素手で糸を引くことができないほど強い風圧がかかる。ISさんはその風圧をすこしでも軽くするために、各凧の中央部をハート形にくりぬいた。これで凧にかかる風圧は半分近く減る。ハート形にくりぬいたことは見栄えのよさと風圧減との一石二鳥の効果をえた。凧と凧のあいだを一定間隔に保つためには、アルミニウムの輪っかを糸につける。重くてはいけないし、滑ってもいけない。アルミを輪にすることを何から学んだのだろう。
 毎年5月5日、陣馬山山頂で連凧をあげていると、それを知っている人たちが毎年見に来てくれた。「これを見に来たんですよ」ということばが嬉しかった。18年ほどつづいただろうか。隊長が高齢になり、山登りがかなわなくなったいまは、河原で連凧をあげている。土手の上でバーベキューをしている人たちがいる。サッカーの練習をしている少年たちがいる。遊びに来た子どもたちが連凧が舞う姿を見て歓声を上げてくれる。糸を自分の手で触る、引いてみる。めったにできない経験だ。
 今回、凧を降ろし、しまい込む際に、先端部分が木に引っかかってしまった。どうしようかと思案していたところ、そばで見ていた若い人が自発的に木に登って引きずり降ろしてくれた。凧あげ隊一同、とても感謝している。
 さわやかな一日だった。