新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

都立多摩図書館、中央線のオアシス

2017年07月30日 | 日記

 都立多摩図書館はJR西国分寺駅から徒歩7分のところに位置する。半年まえに立川から移転したばかり。広くゆったりした館内はうだる暑さをしのぐには理想的な空間だ。都立図書館にしては珍しく接客対応がよい。ひょっとして接客部分は民間委託しているのかな。
 今回はThe Japan Timesの縮刷版を求めて赴いた。ここには1980年から2000年までの縮刷版が保管してあることを知っていた。戦後まもないころからの新聞縮刷版を所蔵している日野市中央図書館で先日、相談したとき、都立多摩図書館にThe Japan Times縮刷版が所蔵されていることを知ったのだった。
 私は1980年ごろからずっとThe Japan Timesを予約購読してきた。Chicago Tribune紙のMike Roykoのコラムが週に2回、転載されており、そのコラムの秀逸さに魅了されていた。Roykoは慧眼でするどい洞察力をもち、舌鋒のするどさで全世界の人を魅了し、世界中の相当な数の新聞が転載していた。私はそのコラムを切り抜いて保存していた。彼のコラムには印象に残っているものが多く、折りに触れて読み返してきたが、20年ほどまえ、なにを血迷ったかほとんどすべての切り抜きを破棄してしまった。それ以後Mike Royko を思い出すたび、あのとき破棄した切り抜きを二度と読めないことを残念に思ってきた。Mike Roykoのコラム集は単行本になっている2冊を所有している。しかしそこに再録されていない多くのコラムのなかにも私の記憶に残る珠玉のようなエッセーが数多く存在する。それをふたたび拾い上げておきたい。このたびThe Japan Timesの縮刷版から記憶に残っているコラムを拾い出していくことにした。
 毎週、月曜と金曜に転載されていたことが分かっているし、あの気むずかしそうなRoykoの顔写真が目印になるので、その部分のみを拾い出してみていけばよい。たいした作業ではないのだが、2年分24冊も目を通すとさすがに疲れてきた。なかから記憶に残っている1編を拾い出してコピーした。
 指につばをつけながらページを繰るのはみっともないので、次回からは指サックを用意することにしよう。




ティモシー・フィンドリー

2017年07月25日 | 日記

カサブランカが咲いている

「Worst Journeys」に収録された最悪の旅行記がおもしろい。ひとつだけ紹介しよう。フィンドリーは1955年にロンドンからモスクワに向かっている。まだ船旅が多かった時代、しかもスターリンが死んで2年も経たないソ連へのめずらしいフライトだ。
 
 私がイギリスで役者をしていた25歳のとき、属する劇団が旧ソ連に招待された。モスクワでシェークスピアのハムレットを披露する。まだ航空機の商業路線が確立するまえで、イギリスからモスクワまでベルリン、リトアニア経由で1日半もかかった。イギリスの外交官ガイ・バージェスとドナルド・マクリーンがモスクワに亡命してイギリス、ソ連の間はぎくしゃくしていた。
 ロンドン、ベルリン間は747型機だった。飛び立つと下は嵐。雷と稲妻はまさにスティーブン・スピルバーグの世界だった。エアポケットにつっこんで機体は25メートルも垂直に落下し、がたんと音がしたときには生きた心地がしない。飛行機に乗り慣れたまわりの仲間を見てもその顔は一様に青ざめていた。   
 4列後ろに意外な人が乗っていた。「ブライトン・ロック」「権力と栄光」を書いたスター作家グレアム・グリーンだった。チャーター機で劇団の仲間しか乗っていないはずなのに、なぜ彼が・・。
 グレアム・グリーンは自分が乗っていることを他人に知られたくないというそぶりを見せた。彼もまたこぶしを握りしめ、飛行機落下への恐怖を示していたので、私はいささかほっとした。私は神がこのハムレット上演の劇団を見捨てないだろうし、この有名な作家を見捨てることはしないだろう、と自らを慰めた。それから1時間弱のフライト中、みんなが以下のような見出しが明くる日の新聞に載ることを予測した。「スコフィールドらの劇団が航空機事故の犠牲に」というものだった。私の場合はもう1行、追加になる。「有名作家の遺体、航空機事故の謎」。ぶじに西ベルリンに降り立ったときにはみな一様に安堵し、もう二度と飛行機には乗るまいと思ったほどだった。しかしもちろん、モスクワまでの第二ラウンドが待っていた。
 私たちはワン湖畔にある大きなホテルで酒を飲み、一睡もせずに朝の4時を待った。4時には迎えが来て、暗闇のなかを東ドイツの奥深くにある軍の空港へ移送されることになっていた。ホテルのロビーに隣接するカフェで出されるトルココーヒー、ブランディー、ドイツ製紙巻きたばこ、そして香水のにおいはいまも記憶に鮮やかだ。劇団員たちは鉢植えの椰子の木の下に広げられたテーブルにひとかたまりになり、これからの冒険に備えていた。
 グレアム・グリーンはというと、誰かと話をしていた。スパイ活動と関係があるのか。グリーンは以前からイギリスの情報機関に雇われていると噂されているし、あるいは別の第三の男ハリー・ライムでも追いかけているのか。グレアム・グリーンが観光でロシアへ行くなんてあり得ない。演技が少しもうまくはないのに劇団の一員になっているチャーミングな女性と立ち話をしている場面を目撃したことがある。ひょっとしてこの女性もイギリス側のスパイなのか。ひっきょうロシア語を流暢に話せるのは演出家ピーター・ブルックとこの女性だけだ。
 午前4時ぴったりにリムジンの群れが迎えに来た。私たちは6人から8人のグループに分けて後部座席に座らせられ、ダークスーツの男がまえの席に座った。私たちをコムレイドと呼ばない以外はなにもかもが冷戦時代の映画そっくりだ。1時間半ほど走り、窓のカーテンを開けてよいという許可が出た。見えたものは戦争で荒廃したままの家屋の残骸や田園風景、早朝から歩いて仕事に向かう人びとの長い列だった。1940年代の西側の風景そのままだった。戦後10年が経ち、西側はそれなりに復興をとげ、「アイゼンハワーの時代」に入っている。東側はまだまだだった。私たちは沈黙したまま眺めていた。
 軍の空港は二重の鉄条網に固められていた。恐ろしく若い兵士たちが軽機関銃をさげてこちらを見ている。若者らしい好奇心と大人びた警戒心をもって。私たちはいかにも役者らしい派手な格好をしているのだから注目の的だったことは疑いない。
 なかでも目立ったのはアーネスト・セシジャーだった。もって生まれた馬面に長い鼻、背はひょろんと高く手も指も長い。第一次大戦で右手を負傷し、機能を回復するために針仕事に打ち込んだ。おかげでメアリー女王の裁縫コンパニオンに指名されるまでになった。そのセシジャーが、モスクワに着いたらクレムリンの壁にチョークでできるだけ大きな字でこう書けという。バージェスはマクリーンを愛している、と。
 いよいよ飛行機に乗る。まえにはおんぼろな貨物機DC10がみえる。古いトタンの固まりだった。まさか動く物体ではないだろう、という思いは外れた。私たちはこれに乗せられることが分かった。左に1列と右に2列の座席があった。プロペラが不気味な音を立てて回り始めた。滑走路を滑る。死を覚悟した。
 バルト海沿岸で停まって昼食をとった。ゴージャスな昼食がロシア独特の重ね着をした女性たちによって運ばれてきた。モンゴル、スラブ、ウクライナ、アルメニアなどから来ている軍人たちが同じように昼食をとっていた。言語がさまざまでバベルの趣があった。
グレアム・グリーンはというと、隅で一人で食べている。これからうち解けて話をするようになるのか、それとも目的地に着いたら黙って姿を消すのだろうか。
 さて、飛行機に戻り再度離陸。午後早く暗くなった。スチュワーデスがロシア紅茶を給仕してくれている。銀のホルダーがついたグラスに熱い紅茶が注がれる。美味だった。しかしなぜだかグラスは4つしかない。4人ずつ順番に紅茶が給仕される。ブリザードが迫っているためにスチュワーデスが多くの器を使いたがらないようだ。「着地できない可能性があります」とあるスチュワーデスが認めたという。
 機内が冷えはじめた。オーバーコートを羽織る人、配られた毛布をかぶる人。機体ががたがた震えはじめる。
 ついにモスクワが見えた。下はモスクワ。スチュワーデスがコックピットから顔を出し、「イエス」とだけいって引っ込んだ。着陸態勢に入る。吹雪のなかにモスクワの明かりが垣間見える。機体は空港の上空を回り続ける。何度もなんども。片方に傾いているため、上方に着席している客は命がけで席にしがみついている。「機長は戦闘機でならしたベテランです。ご心配要りません」とスチュワーデス。ぶじに着地。
 飛行機は定位置に止まった。スチュワーデスも私たちもまるで自分一人でフライトを成功させたかのように感じていた。ついにやった。すばらしい瞬間だった。ドアが開くと一陣の吹雪が吹き込んだ。笑った。自分たちが一人だけではないと気づいたのはこのときだった。百個以上の毛皮の固まりがこちらに向かってきた。みんなが花束を抱えている。ラウンジ、バー、カフェへと案内される。モスクワじゅうの役者という役者が集まってきたのだった。命が危ないと感じるほどのフライトのあとの、これほどすばらしい結末があるだろうか。
 グレアム・グリーンについていえば、かれはこの瞬間に姿をくらました。バージェスやマクリーンと連絡をとりに来たのだろう。私もその1か月の滞在中にバージェスに会った。その話は、もっと晩年になってから語ることになろう。

ウォルト・ディズニーは完璧主義者だった

2017年07月22日 | 日記

 企業のCSR(社会的責任)を研究テーマにしている友人から、ディズニーランドの顧客サービスの徹底ぶりはどこから来ているのか、私がむかし丹念に調べていたころに抱いた印象を聞きたい、とのメールがありました。それに応えて書いた文章を載せておきます。

 上記の件、もう四半世紀もまえのことで忘却の彼方にあることもおおいのですが、「Disney Touch」という本で、邦訳もそのまま「ディズニータッチ」になっています。このタッチはディズニー流という意味もあり、またディズニーが会社経営の苦境を立て直すために作った映画会社タッチストーン・ピクチャーズとの掛詞にもなっています。
 顧客サービスの徹底ぶりについてはまさに創業者ウォルト・ディズニーの考え方をそのまま受けついでいるものと思っています。ウォルト・ディズニーはこと創作に関しては完璧主義者で、かかる経費のことには目もくれないで湯水のごとくお金をつぎ込む人でした。ウォルトだけなら会社経営ははじめから破綻していたはずですが、そこはうまくしたもので兄のロイ・ディズニーがしっかりと経営面を受けもっていました。ウォルトはバンビを製作するために本物の子鹿をスタジオに連れてきてみんなで描写するほどの徹底ぶりでしたが、できあがったアニメが例外なくヒットしたことからなんとか会社が保ったのでした。
 ロサンゼルス郊外にディズニーランドを開園したのはたしか1955年でした。自分がめざす夢の国を作ろうとしたもので、顧客第一主義ははじめから徹底していました。顧客がそのなかに一歩足を踏み入れればおとぎの国、夢の世界に浸れるようにしたかったのです。アトラクションにもスタッフの教育にも力を入れたことはいうまでもありません。しかしぬかっていたことがありました。ディズニーランドに遊びに来る人たちを宿泊させる施設がディズニーランドの周りに建ちはじめたのでした。しかもディズニーランドを見下ろすような高いビルが・・。ウォルトはこれに頭を抱えました。せっかく夢の国を実現させたのにその周辺に目障りなものができてしまいました。
 それから16年後、フロリダ州オーランドにウォルトディズニー・ワールドを開園しますが、そのときには相当に広いオレンジ畑を買いとり、夢の国実現にふたたび挑みます。まわりに自分の意に添わない汚い建物を建てさせないために、鉄道駅から園内に自らの構想で建てたホテルのロビーに直結するモノレールをひきます。周辺には未来実験都市センターとしてディズニーの構想にそった夢の町をつくり、人びとの生活そのものを夢の世界へ取りこもうとします。
 3つ目のディズニーランドが東京に開園したのは1983年春でした。やはり周辺を広く駐車場にし、ホテルなどの宿泊施設も自前のものを園内に建設しています。しかしこの時期はもうウォルトが死んで20年近くが経過し、新しいキャラクターの誕生が途絶え、会社が乗っ取りの危機にさらされていました。そこへ救世主として登場したのがパラマウント映画会社のCEOだったマイケル・アイズナーでした。「ディズニータッチ」はこのマイケル・アイズナーの経営手腕に焦点をあてた本でした。
 以上、ウォルト・ディズニーの人びとを夢の世界に浸らせようというマニアックなまでの徹底ぶりを私は読みとりましたが、その後それをどう受けつぎ、いまどう具体化しているかについてはよく分かりません。なんらかの参考になれば幸甚です。







読みたい本がない

2017年07月21日 | 日記

 二つの意味で「読みたい本がない」。
 ひとつは、新聞の書評欄を読んでいて、昔ならあれも読みたい、これも読みたいとチェックしていったものだが、最近は読みたい本に出会わない。知識欲が枯渇しているようだ。町で書店をのぞくときにも、むかしはあれも買っておこう、これも買っておこうと何冊もの本を買い込んだものだが、最近は購入意欲をかき立てる本にめったに出会わない。こちら側の知識欲が枯渇しているせいなのか、それとも出版する側が安直な本ばかりを出版するからこちらの食指をくすぐらないのか。
 唯一の例外が図書館だ。大きな図書館の閲覧コーナーへ行くと、書名だけでつい手にとってみようという気にさせる本がずらりと並んでいる。すると知識欲の枯渇は現在の新刊書についていえるのであって、古典的名著にはあてはまらないことになり、いささかほっとする。「読みたい本がない」の解決策は、図書館へ行けということになる。
 ふたつ目の「読みたい本がない」は、むかし買った本をあらためて読みたい、いちど読んだ本を読み返してみたいというときに起こる。けっして広くはないわが書斎の棚に目をやる。ところがお目当ての本にはなかなかたどり着かない。ジェームズ・ミッチェナーが晩年になって書いた自伝のような旅行記「The World is my Home」を四半世紀ほどまえにたしかハードカバーで買ったはずだ。ところが書棚をいくら探しても見つからない。どこへいったのか。
 20年ほどまえ、岩波新書をはじめとする新書版の本を大量に廃棄した。いまにしておおいに後悔しているが、絶版になっている土井忠夫著「日葡辞書のはなし」かなにかそのようなタイトルの本があった。読みたくてたまらなくなり、古書店で探し歩いているがとんと見つからない。ソシュール「一般言語学講義」も廃棄してから読みたくなった。本を捨てるものではないな、とつくづく反省している。
 年老いたからといって本の整理だけはするまいと心に決めている。






民間語源を大事にしよう

2017年07月12日 | 日記


 山中湖、花の都公園に咲くポピー

 ペットボトルのペットはどういう意味だろう。愛玩動物のペットをまずは思いうかべる。小さくてかわいいボトルだからペットボトルか。多くの人がそう考えているようだ。私はなにかの機会に、ペットボトルのペットは石油を原料にして作られているので、石油petroleumのpetを独立させて使っているのだと理解していた。ところが最近になって、ペットはポリエチレン・テレフタラート(poly-ethylene terephthalate)の頭文字をあわせたものであることを知った。国語辞典にもそう書いてあるので間違いないだろう。
 とするとペットボトルのペットが愛玩動物ペットに由来するとするのは民間語源ということになる。そしていっぽうの、正しいとされるポリエチレン云々は学者語源といわれる。
 そこで考えてみたい。民間語源とされるペットからの類推なしにペットボトルはこれほどまで愛用されることばになっただろうか。pettyには「ちいさい」「かわいい」などの意味があり、フランス語のpetitをも連想させる。ペットとして飼っている犬や猫はもちろん小さくてかわいいものがおおい。
 ペットボトルが「ことば」としてこれほど広く愛用されているのは民間語源あってのことではないか。ことばの起源とそれが広く使われるようになった理由とは別に考える必要がありそうだ。
 日本語のコーヒーはオランダ語起源のことばだといわれる。おそらく江戸時代に通商があったオランダから日本に入ってきた飲みものだろう。オランダ語のkoffieはたまたま英語でも発音がほとんど変わらないために明治期以後、盛んになった英語に後押しされて日本語に定着したものと考えられる。
 最近、農業用のマルチという黒いビニールが重宝されている。地中の水分や熱を保持したり、雑草が生えてくるのを防ぐために土にかぶせるようだ。このマルチを私は多目的に使えるビニール、つまりmulti-purposeを意味する単語を短くしたものだと思いこんでいた。ところが違っていた。mulchというmultiとはまったく別の単語があった。元来は「植物の根元に広げるわら、木の葉、泥などの混合物」をいったらしい。アメリカ中西部では1930年代にはやくも農業用マルチを使用している。質は現在のものと違うかもしれないが、ビニール製のものだったようだ。マルチを多目的ビニール(multi-purpose vinyl)を簡略にしたものと解釈するのは私にとっての民間語源ということになる。そうすることでマルチという用語を容易におぼえたし、その製品の用途までもほぼ正確に理解することができたのだから民間語源さまさまだ。