新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

列車での旅

2018年12月29日 | 日記

 特急くろしお号で新大阪と白浜間を3人で旅したことをさきに記した。
 3人旅といえば、阿川弘之「南蛮阿房列車」を思い出す。阿川は孤狸庵先生こと遠藤周作、どくとるマンボウの異名をもつ北杜夫を誘い、イタリアを鉄道旅した。北杜夫は精神科医でありながら、みずからが鬱病という持病をもっていた。イタリアへ行けばすこしは快方へ向かうかと旅に同行したが、持病はちっとも改善しなかった。奇人変人がした鉄道旅がずいぶん珍妙なものだったことは十分に推測できる。
 それに比べれば、私たち3人はれっきとしたゼニトルマンだ。いや違った、ジェントルマンだった。すいている自由席車両で4人がけのボックス席を3人で占領するぐらいは許されるだろう。くるりと方向転換させた座席とその前の座席の間にちょうど手頃な空間が生じたので、家族で乗ってきた中国系の客のスーツケースを収納するスペースに使わせてあげることができた。
 話はとぶ。アメリカ出身の作家ポール・セルーは世界各国を列車で旅し、「鉄道大バザール」という名著に仕上げている。乗る車両はたいてい1等車のコンパートメントだ。コンパートメントとは、2段ベッドが並ぶ寝台車といってよい。車両の片側が廊下になっており、各コンパートメントに4人から6人が入れる。廊下側にはドアがないことが多いから、廊下を歩けば、各コンパートメントにどのような人が乗っているかが分かる。まさに「動く長屋」といえる。
 列車での旅は、飛行機での旅のようにじっと座っている必要がないし、自動車での旅のような窮屈さもない。船旅のように社交面を心配する必要もない。列車の端から端まで自由に歩き回れるし、他のコンパートメントの客たちと知り合いになり、おしゃべりして時間を過ごすことができる。ダイニングカーで豪華な食事と飲みものを楽しむこともできる。列車での旅は列車に乗ること自体が旅の目的になることさえある、とポール・セルーは書いている。
 そういえば急行とはいえ、インド、ボンベイ行きの急行列車では、ボンベイが近づくと急停車することが多くなる。乗客が自分の家近くで非常停止ボタンをかってに押す。列車が止まる。すると乗客は荷物を窓から放り出し、じぶんもさっさと窓から降りる。荷物をとりあげ、線路を横切って逃げていく。それもそのはず、捕まったら罰金を払わされるのだから・・。非常停止は1度や2度ではない。それぞれの乗客がかってに非常停止させる。1970年代前半の話だ。
 いま藤野地区では、路線バスが「運転手さん、停まって」といえば、どこででも停まってくれる区間がある。インドの列車の非常停止犯罪を制度化してしまったもので、これはこれでみな喜んでいる。
 
 今年はこのように列車旅の本を読みながら暮れていきます。急行列車の旅を読んでいても、読むスピードがのろいものだから、実質、鈍行列車の旅になります。もう年齢が年齢だから、鈍行列車のような人生がふさわしいのかも・・。みなさん、よいお歳をお迎えください。





ラッキーな結末

2018年12月27日 | 日記

 南方熊楠顕彰館は紀伊田辺にある。熊楠が結婚後に購入して住んだ住居の傍に田辺市が顕彰館を建設し、一般公開している。
 私たち3人は新大阪駅から特急くろしお号に乗りこんだ。自由席車両の座席はすべて前向きになっているが、くるりと反対向きにすることができる。こうして4人のボックス席をつくり、3人で陣どった。車両が空いていたから問題なかった。
 翌日の帰りは白浜駅からの乗車だった。12時半にずっとさきの新宮駅からくろしお号が来る。すでに相当数の客が乗車しているだろう。自由席で往路と同じようにボックス席を占有できるだろうか。駅員に相談した。「指定席なら4人の席をとれますか」との問いに「わかりません」との返事だった。
 3人はすでに弁当を買い込んである。さらに前日の夜飲むつもりで飲めなかった清酒「世界一統」の4合瓶をリュックに偲ばせてある。酒盛りするには、どうしてもボックス席がほしい。
 Sくんはめざいとい。すこし待って1時すぎになれば白浜駅発のくろしお号があることを見抜いていた。始発駅なら確実にボックス席がとれる。さらに駅近くに和歌山ラーメンの看板があり、美食家の彼はそのラーメンを賞味してみたかった。私は夕方には実家へ帰省することになっており、すこしでも早い電車に乗ることを望んだし、1時すぎのくろしお号が白浜駅始発であることは失念していた。
 弁当を買ってしまったいじょう、いまさら駅前のレストランには入れない。「世界一統」で打ち上げの酒盛りをするにもレストランではまずい。
 こうなったら運を天に任せるしかない。つまり自由席が空いていて、ボックス席をつくれればもうけものと思うしかなかった。
 幸運だった。電車のドアが開くと、空いている席に一直線ですすんだ。
 ちなみに「世界一統」とは、金物商だった熊楠の父が創業し、熊楠の弟があとを継いだ造り酒屋の銘酒だ。熊楠はその弟から多額の経済援助を受けていたものと推測されている。「終わりよければすべてよし」とはSくんのことばだった。





南方熊楠という男

2018年12月22日 | 日記

 まずは熊楠という名前に仰天。これはなんだ? 熊さんなら落語にも登場する。楠は? クスノキ? 何をした人だろう。
 名前だけはよく知っていた。本の広告だったり、だれかが書いた文章に登場したり。しかし実際にどのような人物か。博覧強記の博物学者といわれても・・。
 和歌山に生まれ、幼いころから抜群の記憶力を有した。友人の家にあった「和漢三才図絵」を数ページずつ丸暗記し、帰宅しては筆録した。コピー機のなかった時代、閲覧できた文献を手当たりしだいに筆写した。粘菌類に興味をもち、紀伊半島南部のじめっとしたところへ標本採集にかよった。植物にも動物にも興味をもった。学校の勉強は好きではなかったが、興味があることはとことん追求した。
 19歳で親を説得し、アメリカへ渡る。ミシガン大学へ入るも、大学での勉強を好まず退学し、フロリダの湿地帯で標本採集に明け暮れる。イギリスへ渡れば大英図書館に入り浸り、数々の文献を筆写する。結局19歳から33歳までアメリカとイギリスで暮らす。造り酒屋だった実家からの仕送りが途絶えてようやく帰国。イギリスの科科学雑誌「ネイチャー」や「ノーツ・アンド・クエリーズ」になんども論文を投稿し、掲載されている。結婚して紀伊田辺に住み、自然保護の運動に尽力した。
 名前に戻る。熊は熊野の熊、楠は紀伊半島に多くみられる巨木クスノキのこと。熊も楠も子どもの体が頑強になることを願って親がつけた本名だった。ほかに和歌山市南部にある藤白神社の藤を名前にすることを当時の南方家は好んだ。熊楠のきょうだいには「藤吉」「くま」「常楠」「藤枝」「楠次郎」がいるし、熊楠自身は息子を「熊弥」と名づけている。
 酒好きで喧嘩ばやかった。晩年、酒はやめたがたばこは吸い続けた。どの写真を見てもたばこをくわえている。
 あす、南方熊楠が家族生活を営んだ紀伊田辺の旧居跡を訪れる。その毒気にあたりたい、そのエネルギーを吸収したい。





600字のエッセー

2018年12月18日 | 日記

 毎朝「天声人語」を読む。そしてそのようなエッセーを書きたいと思いながら、このブログを書いてきた。できあがった文章は似ても似つかないものだが・・。
 その天声人語、文字数を数えてみるとちょうど600字ある。1行につき18字、それが35行。右上に「天声人語」というタイトルを入れる部分が24文字分、左下に日付を入れる部分が5文字分空いている。そして第一段落の書き始めを一マス空けるので、ちょうど600字になる。実際には段落わけを▼でしており、さらに4,5文字減る。その代わりに▼の直前の句点「。」はつけない。「ウルサイ」からだろう。
 ひるがえって私のこのブログは、1000字を目安にしてきた。それでも文章として短いような気がしていた。なにかまとまった文章を書くには1200から2000字くらいは必要かと思っていた。これは間違いだった。わずか600字でまとまった文章を書ける。枝葉をそぎ落とし、毎日600字にまとめる天声人語氏の技術を学びたい。




薪づくり、駅伝

2018年12月17日 | 日記


 薪づくりを進めています。今年もクヌギ、コナラを数本切り倒し、来シーズン用の薪として寝かせます。去年伐採した木は、今年販売しています。桜などのいわゆる雑木の薪も格安の値段で販売しています。
 12月16日は恒例の駅伝大会の日でした。70組以上の参加があり、日影原の中継所がにぎわいました。日影原でたすきを受けつぐのは日向の長い上り坂を走る人たちで、全5区のなかでも最強の走者たち(写真)です。
 薪炭クラブのWさんが3区に出場しました。私たちは早くから作業の手を休め、いまかいまかと到着を待ちました。60歳代後半に入ったWさんが日影原中継所へぶじにたどり着いたとき、沿道では安堵感が入り交じった拍手と声援がとんでいました。めでたし、めでたし。