時間になったので空港へ。
全日空ラウンジで炭酸水を飲みます。芋水を数滴たらしてみましたが(焼酎水割りともいう)。
搭乗時間が来たので外に出たら、山城さんがいました。
那覇便は隣でした。羽田便のところにいるかな? と思って見に来てくれたみたいです。
山城さんは神田橋先生のところに行って、海の修行のアドバイスを受けたそうです。
海でだからできる発達援助。
そしてそれを沖縄以外でもやれる方法にするように励まされてきたそうです。
根っこ本meets海、みたいな。
よかったよかった。
花風社があって、山城さんと花風社が出会って、神田橋先生と花風社が出会って、栗本さんと花風社が出会って、山城さんと栗本さんが出会って、今神田橋先生と山城さんが出会いました。
そしてどんどんラクになる人が増えます。
これは最初に花風社があったから。花風社が裁判をきっかけに「治そう」と舵を切ったから。非難ごうごうの中でも自分の信念を貫けたのは、若き日の私が、会社で一番下にいたころすでに「同調圧力には屈しないほうがいい」と学んだからです。
ひとしきりおしゃべりし、別れを告げ、機内へ。爆睡していたらしく(芋水効果)、あっという間に羽田でした。
関東のきりりとした寒さ。
髪の毛は元に戻ります。不思議です。髪の毛のような文字通り末端でさえこれほど風土の影響を受けるのですから、心身もその土地その土地で整え方が違うはずです。
家に着くと作り置きしておいた食料がすべて消え、鍋も器もきれいに洗って収納されておりました。
ねこ母さんの旦那どん様もえらいけど、自慢の夫もえらい。
勝ってきたさつま揚げ、明太子と急ごしらえの鍋で夕食を済ませ、ことんと寝て、次の日起きたら榎本さんから原稿最終パートの戻しがありました。
原稿用紙にして160枚。一気に読んで、納得。
何に納得したか。
そこには「なぜ学校の先生は逆上がり原理主義に走るか」の答えが書いてあったからです。
司法の場にいた人が見た教育の世界。
司法meets特別支援教育。
またすごい本ができます。
私はすっかり自信を持ちました。
「社会の理解ガー」路線をしていた私が、でもギョーカイとはちょっと違って「この子たちの体のつらさを知ろうよ」としていた私が、身体のつらさを知るだけでは飽き足らず「治らないのかあ?」と問い続けてきたこと。
その間に岩永先生と出会ったこと。
マイナーな感覚統合の世界を大々的に取り上げたので、ギョーカイからはマイナーな分野とバカにされたこと。
そして岩永先生は、バカにされることに従順な人でギョーカイ内で身を低くしていたけど私は違ったこと。
裁判を抱えたこと。
その間にちゅん平がどんどん治っていったこと。
ギョーカイは死んだふりだったけど、司法はきちんと相手にして対応してくれたこと。
そしてそのときの担当者が今、著者になっていること。
そしてちゅん平と二人、鹿児島に呼ばれて話したこと。
そこでもいろいろ議論を呼んだこと。
その講演をきっかけに来た山城さんが神田橋先生と会ったこと。
そしてまた新しいプログラムが生まれるかもしれないこと。
これだけの動きを生み出した出発点は
私が「とにかくやりたいことをやる」人で
同調圧力に負けない人だからです。
私が学校のSSTを「奴隷道徳」と呼ぶ意味がわかってもらえるのではないでしょうか?
学校の説く
・誰とでも仲良く
・多数決は正しい
・金儲けは汚い
を真に受けていたら社会人なんてできないのです。
かといって私は、学校で反逆児だったわけではないのです。
「いつかは終わる世界だから、てきとーに合わせていた」だけです。
学校なんてそれでいいのではないでしょうか?
全人格的にかかわる場所ではないはずです。学校の教師には、全人格を育てる力も資格もないはずです。なのに否定的なことを言いすぎます。よそのお子に向かって。
私の学校への批判が、「保護者との連携を損ねるのではないか」と危惧した先生がいたそうです。
そう心配されるとしたら、
「おお、ちゃんと伝わっている」と私は思います。
なぜならそれが私の目標だからです。学校の先生には歯噛みして悔しがってもらうのが私のコミュニケーションの目標だからです。
私が伝えたかったことは
「子どもの未来は子どものものであり、学校の都合でダメにされてはいけない」ということで、まさに
「親御さんたち、学校を(盲目的に)信頼するのは辞めましょう」だから。
そのわけのわからん選別装置も含めて。
今の特別支援教育が、選別装置として働いているのなら
最初から効率よく子どもの能力を分け、それを固定化するのなら
そんな選別装置からは降りよ、と私は警告しています。
そして、私は友だち原理主義ではないから
連携、ってそんなに大事だと私は思っていないのです。
連携が大事ってみんな言いますが
それって決まり文句に過ぎないのではないでしょうか?
連携って本当にそんなに、いつでもどこでも必要ですか?
むしろ連携がマイナスになっている面、ありませんか?
主体性のある同士の連携なら有効でしょう。でもたいていの連携は誰かの主体性を犠牲にしていませんか?
たとえば先日の東北の例だって、福祉教育医療が連携しすぎていて、本当は外の世界で生きたい一人の当事者を閉じ込めようとしている。
福祉教育医療は妙に連携しすぎている面があるのです。
教師と保護者もそうかもしれません。
むしろどんどん分断すればいい場面でも連携を強いられていませんか?
一人の可能性を押しつぶすような連携など、ないほうがマシ、というのが私のメッセージです。
それがきちんと伝わった鹿児島講演のようでした。
お越しくださったみなさん、ねこ母さん、旦那どんさん、ありがとうございました。
いずれ電子書籍にしますね。
完
いいお医者さんに巡り会えなくても 今日からできること満載!!
のキャッチコピーでした。
実際、私一人でもすぐ出来ました。芋本にたどり着くまでは、色々ありましたが。
自分の発達凸凹を疑うようになり、実際やってみたことの一つは、某当事者活動の拠点訪問でした。
そこでもらった取材記事コピーには、関係者の啓発活動が綴られていました。
特に、成人当事者の連帯に熱心な印象を受けました。私も成人ですが、どことなく温度差を感じ、こちらから近づくことはありませんでした。
その後、花風社本と出会いました。
さて、某当事者活動拠点のその後。
最近、首都圏の当事者団体に呼びかけてフォーラムを開いたようです。
そして、年明けに関西で同じようなフォーラムを計画中。
参加したい当事者の負担を軽くすべく、クラウドファンディングで資金集めをしているそう。
一万円以上の寄付に、首都圏フォーラムの模様を収録したDVDをお返しするらしいです。
どういう人が出資するのかわかりませんが、連帯するには資金がかかるなあ、と感じた出来事でした。