治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

親心と服薬とギョーカイとエビデンスガー

2018-02-12 10:27:16 | 日記
昨日のブログ書いたあともう一つ森口さんのことを思い出してしまったので書きます。
っていうかこの辺は森口奈緒美さんの「平行線」に詳しいから知りたければ皆さんそれを読めばいいと思うけど。

森口さんは薬で体調崩すのが自分でわかっていた。そりゃ本人が一番わかるんだよ、体調は。
だからのまない。そうすると残る。
それを見てお父様が「のみなさい。じゃないと治らないよ」と言う。

つまり親御さんとしては、「どうにかしたい」と思い、すがるような気持ちで医者に行って薬を処方してもらった。これで治ると思った。

つまり「治ってほしい」と思う親心が「薬をのめ」という命令になる。
少量処方も薬剤過敏性も明らかになっていなかった時代の話。

私たちが薬の害を取り沙汰すると
・後ろめたく思いながら我が子に薬を飲ませている一群

が騒ぐのだけど、別に薬害をアピールしている集団ではないよね、私たちは。

ただ

・薬は浮き輪である。
・薬では一次障害は治らない。
・薬で三次障害を起こす人がいる。
・薬を抜いてよくなった人がいる。

ということを屈託なく表明しているだけです。だって事実でしょ。

ところが「医療は治すためにある」というごく常識的な知識を持ち合わせ、発達障害の世界では「治せない」どころか「治すのを悪だと感じる」人々が医療側にいるという知識を欠いていると(つまりその当時の森口さんのお父様はごく常識的に医療は治すと思っていらっしゃったのでしょう)

つらい思いをしている我が子を病院に連れて行く→薬を処方される→これさえのめば治る

という判断を親がごくごく常識的にしてしまい、その結果子どもが健康を損ねる恐れているケースがあることを私たちは屈託なく書いているだけですね。だってほんとだもん。

だから私たちは「薬を否定している」というより「他の方法を探している」集団だと思います。

その「他の方法」にエビデンスをだせーという方には「勝手に出せば」と言っておきます。やってることは本に書いてありますから。

私たちは「エビデンスとの心中」を選ばない集団です。

「発達障害、治るが勝ち!」から引用しておきますね。

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エビデンスと心中しますか?

 身体へのアプローチを広めていく途中、一番ありふれたおせっかいは「エビデンスがない」であった。エビデンスのある療育方法は他にあり、身体アプローチにはない。だからそれを広める花風社もそれを試してみる人たちも「トンデモ」「エビデンスがない方法にしがみついている情弱」と非難されたもんである。

 医療にはエビデンスが大事。それはよくわかる。日本のように高度に医療保険が発達している国では、皆から集めた資源を検証された方法に費やすのが当然であろう。
 けれども現行、医療は発達障害に手も足も出ないのである。おまけに、ギョーカイのオピニオンリーダーたちは「治らない。社会が理解すべき」という路線を曲げない。付き合っていられない、という当事者保護者が出てきても非難される筋合いがあるだろうか?
 
 エビデンスがないと言われている身体アプローチでも、目の前のわが子には効果があり、めきめき変わっていったとしたら、親としてはその方法をあきらめる気になるだろうか?
 親にとって大事なのはエビデンスのある方法にこだわって、目の前のわが子がラクになっている方法を捨てることか? そうではないのは火を見るより明らかであろう。よその子百人に効果がある方法であってもわが子に効かなければそんなものは無駄。よその子に効果がなくてもわが子に効いたらその方法は最強。それが当たり前の親心である。
 そして一応今のところエビデンスのあると言われている方法を見てみよう。
 
 治っていないのである。
 少なくとも一次障害は治っていないのである。
 エビデンスエビデンスとやかましい支援者は得てして、言論活動に熱心。そのSNSを見てみるとどこそこで研修会の講師を務めた、どっかの外国人と会った、どこそこでギョーカイ仲間と飲み会したという話ばかり。問題行動がなくなった人の話、生きやすくなった人の話など一切出てこない。エビデンスエビデンスとうるさく言う大物周辺でも、診断される人が増えるばかりでよくなって卒業していく人がほとんどいないという全国的な状況は変わらない。そしてエビデンスのある療法にこだわり活発に発言する保護者は、療育の成果において親平均を下回る(当社調べ)。おそらく、その焦燥感からより強くエビデンスにこだわるようになるのだろう。
 そして「治った治った」という私たちに、「治るのなら検証せよ」と言うのである。結果が出るか怖がりだからエビデンスに頼る。努力が実らないと悔しいくらいケチだから検証に頼る。自分で子どもの状態を見る目がないからエビデンスがある方法にこだわる。他人の子に効果があった方法を「再現性がない」とけなす。彼らがしたり顔で言う「再現性」とはずばり、「うちの子にも効くのかよっ?」という絶望的な問いかけをお利口そうに言っているだけだ。何しろ、何をやっても成果をあげてこなかった歴史の長い人たちだから切実なんである。

 エビデンスエビデンスうるさいんですよ、と言った私に「検証は他の人間がすればいい。治すのに忙しい」と神田橋医師は言った。私が「正規医療と代替医療の線引きはどこにあるのですか?」と質問したところ「検証法がまだ見つかっていないもの。それが代替療法だ」というコペルニクス的転回の答えが返ってきてなるほどと思った(『発達障害は治りますか?』)。エビデンスのない方法でも子どもの様子を見ながら試す勇気のある人もいる。その勇気がない人もいる。そしてその勇気がない人のために時間とエネルギーを割くことを私たちはしない。その勇気のなさに、どうしてこちらが巻き込まれなければいけないのだろう。
 検証しないとやらないのなら、誰かが「治った!」と喜んでいる話だけではやる気にならないのなら、ずっと自分の信じる方法にしがみついていればいいのだ。「治った!」と喜ぶ人たちを、唇かみしめて悔し紛れに「どうせエビデンスがない」と言って自分たちの信じる方法にしがみついていればいいのである。そうしたら望み通り、「発達障害は治らない」ことを身体を張って証明できるだろう。

 身体アプローチでよくなっていく人々が体験談を語ると「体験談にすぎない。エビデンスがない」などと負け惜しみを言う。救ってくれない医療の論理にすがりつき、本当は羨ましい相手を「リテラシーがない」とこきおろして溜飲を下げるのだ。ほんの一瞬。
 勇気がなくてエビデンスのない方法に乗り出せないのならそれでいい。ただ、その結果は自分で引き受ければいいではないか。よそのうちはよそのうちで決断し、その結果を引き受ける。
 たった一度しかないわが子の人生。それが空しく過ぎていってもじっと待つエビデンスとの心中。
 それを選択するのは自己責任。
 そして無理心中は犯罪である。

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みるさんは地元の医療につながっている限りは薬漬けにされた。これをみるさんは「障害者虐待」ととらえている。そして神田橋先生はみるさんの三次障害を見抜き、漢方さえ処方しなかった。「一次障害には栗本君のコンディショニングがいいよ」とおっしゃった。神田橋先生だけじゃなくみるさんは隣県の医療にもセカンドオピニオンを求め、「通院も服薬も必要なし」というお墨付きを得ている。

それが地元のギョーカイには気に入らない。何かと介入してくる。そして「エビデンスのある方法で」「連携して」みるさんを支援したいと押し売りしてくる。

それを聞いて私は「じゃあ治った人いるの?」とききました。あまちゃん県で、そのエビデンスのある連携なるものを受けて治った人がいるのか知りたい。

いないそうです。治った人もいないし、就労支援が就労させる人もめったにいない。当事者を薬漬け塩漬け飼い殺しするだけのカンタンなお仕事。

だったら今度支援者が「エビデンスのある方法ガー」とか言い出したら「治った人に会わせてください」と言えばいいよ、と言いました。

花風社の集まりに来たら、治った人たち=最強のエビデンスが服着て歩いて一緒に饗宴してますから。