創世記 22章
キーンという寒さが続きます。晴れているのでいつものように公園に出かけましたが、身体がすぐに冷え切ってしまいます。いつもの半分の時間で帰宅することにしました。しかし陽射しは明るく小さな花も咲き始めました。
神がアブラハムにあわせた試練とは、我が子イサクを全焼のいけにえとしてささげるということでした。この命令に対して、アブラハムは反論を試みることができたはずです。「殺してはならない」と自らお命じになっている神が殺せと言ってよいのだろうかという反論、愛する息子を殺すのは人の道に悖(もと)ることで、してはならないはずなのにという反論、そして、空の星のように海辺の砂のように子孫を祝福するとの約束が台無しになってしまうのではないかという反論です。
けれども、アブラハムは何一つ反論を試みることなく、次の朝早くにはイサクにたきぎを背負わせて火と刃物を手に取ってモリヤの地に向かうのです。なぜなのかと、箇所を読む度に考えます。
この箇所から、神とアブラハムとの間の強い結びつきをおぼえます。この章でも1節と11節に「アブラハムよ」と神が呼びかけられた時、アブラハムは「はい、ここにおります」と答えています。アブラハムが神と正しい結びの中にあったことを表わしています。
理不尽に思えることでも、神のことばに従うことが自分にとって最善なのだと彼は信じていました。彼は神の命令に従おうとしました。それとともに、「私と息子は、…おまえたちのところに戻って来る」と若い者たちに言い、「神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ」と我が子に答えています。ここからは、神のみわざに期待する姿勢も伝わってきます。
やがてひとり子をすべての人の救いのためにお与えになる神が、アブラハムのイサクへの思いを知らないはずはありません。これは、アブラハムが神の命令の中にある深いみこころを知ることが許されたゆえの出来事ではなかったか、と思うのです。ですから、アブラハムは本気でイサクをささげようとしました。親としての情に薄いからなどという理由では決してなく…。