みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

絶対にそんなことはありません

2016年09月24日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 3章1—8節

 きょうの箇所は、何度読んでも心に入ってこない感じがするという方がおられるかもしれません。このあたりに、ローマ人への手紙が難解だとされる理由があるのでしょう。

 きょうの箇所には「絶対にそんなことはありません」ということばが二回登場します。「絶対に」ということばは使うものではないと親に言われ、私も自分の心に言い聞かせていますが、あえてパウロはここで、二度も「絶対に…」ということばを用いています。

 パウロのことばはしばしば誤解されて用いられました。彼の影響力の大きさを物語っているのですね。たとえば、「パウロ先生はこう言っている」と言えば、そのことばにには大きな説得力が生じます。ここでも、「パウロはこう言っている」として曲解されないようにこのことばを用いたのです。

 神のことばをゆだねられたユダヤ人が神との契約に真実でなかったので、神もまた真実ではないのだとパウロが言っているのだと伝わったら、それは大変な問題です。パウロは、絶対にそんなことはない、人が不真実であっても、人と契約を結ばれた神は常に真実なお方なのだと強調しています。

 神が正しいお方であることは、人間が正しくないということによって際立ち、神の栄光が現されるのだから、罪を犯す人間に神が怒りを下すのは不正ではないかという「屁理屈」にも、パウロは絶対にそんなことはないと反論しています。

 こうしてみますと、人はどこまでも自分を正当化する理屈を作り上げるものだということがわかります。ちょっと飛躍があるかもしれませんが、「あなたはそう考えるのですか。でも私はいいと思っています」と言ってしまえば、悪いことさえ正当化できてしまうのです。

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すり替え

2016年09月23日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 2章17−29節

 気がつくと、アウトバーン沿いの木々は色づき始めていました。夕方に公園を歩くと、木々にはさまざまな実がついています。

 「もし、あなたが自分を」とパウロは話を進めます。このあと展開する、人は何によって神に義と認められるのかというテーマに入る前に、パウロはほんとうのユダヤ人とはどのような人なのかについて明らかにしようとしています。これを聞いて、それこそはらわたが煮えくりかえるような思い担ったユダヤ人もいたかもしれませんが、パウロ自身はユダヤ人として、同胞の救いを誰よりも強く願っていることが、やがて明らかになります(9—11章)。

 この箇所が、ユダヤ人ではない私たちにどのようなつながりがあるのかについて、きょうの「みことばの光」は次のように書いています。「17節を『もし、あなたが自分をクリスチャンと称え、……派の教会に属することを安んじ、神を誇り……』…と読み替えるなら、思い当たることや心が刺されることがあるのではないだろうか。」

 私たちは何を誇りとしているのだろうかと問うてみる必要があることに気づきます。大切なことは何か、それは聖書を読んでいるとか、教会に通っているとか、奉仕をしているとか、すべてを落ち度なく行っているとか、そのようなことではなくて、神との結びつきの中に生きているかということではないか、見えないお方とつながっていたいと歩んでいるかということではないかと問われます。

 気づかないうちに、大切でないものによって大切なものをすり替えているということがあるのです。

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人のさばき、神のさばき

2016年09月22日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 2章1−16節

 上を飛んでいる飛行機がどこに行くものなのかがわかるアプリがあります。明け方に近くで轟音がしましたので調べてみたら、台北からの飛行機でした。どうしてこんなことがわかるのでしょう。不思議ですね。未だに、あんな重いものが空を行き来しているなんて、ありえないと思っているのが私です。いかがですか。

 この章は、「すべて他人をさばく人よ」ということばで始まります。これまでパウロが書いてきたのは、まことの神を恐れ敬うことのない異邦人。その異邦人をユダヤ人は「ほんとうの神を知らない人々」だとしてさばいていたのです。ところがパウロは、そのようにしてさばくことによって、自分を罪に定めていると語っています。

 この箇所で何度も出ているのが「さばく」ということばです。ユダヤ人を異邦人をさばくように、人が人をさばくというのは、私たちの身の回りにも見られます。私たちは気がついてみると、人の噂をし、さばいています。さばくといえば、メディアには不正をした人に容赦なく追及します。しかし、そのような立場が逆転しますと、今度はみじめにも自分があれこれと突かれるのです。盛んに追求している人も、守勢に回ったら何も主張するものはないのです。

 けれども、もっと恐ろしいこと、そしていつも心に留めるべきは、神がすべてのものを正しくおさばきになるということです。人は神のさばきの前には、沈黙せざるをえません。私たちは誰もが、このさばきの日に向かっているのだ、ということを16節から考えました。

 

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引き渡し

2016年09月21日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 1章18−32節

 きのうは、朝早くに「みことばの光」12月号の編集の打ち合わせを日本との間でしました。クリスマスの聖書箇所を編集していますと、この頃はどんな気候なのだろうかと想像してしまいます。

 私は今、単身生活をしています。食事作りを…と意気込んでいます。でも、作って食べる段になるとお腹がすでにいっぱいに感じます(それでも食べますが…)。それにしても、家事をキチンとするのは時間が取られるものですね。妻に感謝です。

 「罪とは何か」と問われたら、きょうの箇所を示すことだと言われます。パウロは、信仰による義をこれから論じていくのですが、義とされる者たちの実情がここに記されています。まずは神との関係が壊れており、このことから自分との、そして他の人との関係が壊れていると話を進めています。人の罪とは何かと尋ねられたら、あのこと、このことを思い浮かべるかもしれません。しかしここでは、造り主である神との関係を人が壊したと言っています。

 神はお造りになったすべてのものによって、ご自分がどのようなお方かを啓示なさいました。ところが人は、それらによっては神を神としてあがめるようなことにはならなかったのです。神をあがめない人は、人との関係にも崩れを来します。

 心に留めたのは、「引き渡す」ということば。が新改訳聖書では三度用いられます。またこのことばを新共同訳聖書では「まかせられた」と訳します、これは、「彼ら」がほんとうはいやなのだけれどもむりやりにやらされたという意味で用いているのではありません。使徒の働き7章42節では、「神は…彼らが天の星に仕えるままにされました」と訳します。好きなようにする自由を手にしてはみたものの、使えば使うほど、人が縛られてがんじがらめになってしまうというような意味なのです。恐ろしや、「自由」。

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福音を恥とは思わない

2016年09月20日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 1章8−16節

 外に出るとひんやりとした空気。いつものように、公園を一時間ほど歩いて戻って来たら、部屋の暖かさが心地よかったです。近くの公園を歩くようになって一年以上になりますが、きのうは新しい道を発見。森の中を秋の兆しを感じながら歩くことができました。

 いよいよ手紙の本論が始まります。

 パウロは16、17節で手紙の主題を提示しています。それは、福音とは何か、ということです。彼は「私は福音を恥とは思いません」と書きます。これは、パウロがいつでもどこででも堂々と福音を宣べ伝えてきたという意気込みを表わしているのではないように思います。時には福音を伝える上で困難を体験してきたことに基づいての、パウロの決意のように響いています。「みことばの光」が書くように、この部分が読まれたとき、そこに居合わせた人々は安堵したのではないかと想像をしてしまいます。「パウロのような人でも…」と。

 福音とは、ダビデの子としてこの世に生まれた神の御子が十字架で死んで復活したということです。ところがこれは、ユダヤ人にしてみたら、あのナザレ人イエスがメシヤ(救い主)であるものかというつまずきであり、ギリシヤ人やローマ人にとっては、十字架上で死んだイエスを信じるならば人が救われるという、いかにも愚かなこと、というようになってしまいます。そして、福音に対するこのような反応は今に至ります。

 もう少し人間の可能性、知恵に適うように…として福音をマイルドにしようとするような企ては、教会のはじめの頃から今まで何度も試みられてきたことです。しかし、そのようにした瞬間、福音は力を失い、福音ではなくなってしまいます。どうしようもない者を救うための道が、人間の力や浅はかな知恵などでどうのこうのと納得できるようなものではないのです。

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