みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

肉を食べ、血を飲む

2017年07月25日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 6章41ー59節

 月曜日は、チューリッヒ湖畔を南下した後、山を越えて目指す場所へと向かいました。湖の水が想像以上に澄んでいることに驚きました。昨年訪れた町を再訪しましたが、歩いているときには雨が降らなかったので、思ったよりゆっくりと町歩きを楽しむことができたと思います。

 イエスの話を聞いていた人々は、「わたしは天から下って来た」とのことばに引っかかりを覚えました。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている。そのイエスではないか」とつぶやいたのです。イエスの父も母も知っている、それなのに天から下って来たと言うなんて…と人々は思ったのです。ある意味では納得のできるつぶやきなのかもしれません。しかし、イエスはそのようなつぶやきがあったことを気にして修正したのではありません。それどころか、「天から下って来たパンとはご自分の肉のことだとして、この箇所で何度も「肉を食べ、血を飲む」ということばを繰り返しておられます。

 パンや水は人のからだを保ち生かします。しかし、イエスの肉を食べイエスの血を飲む者は、永遠に生きるとまで約束しておられるのです。きのうも書きましたが、ここにも、実際のパンを手に入れるためにイエスの弟子となるという人と、永遠のいのちを与えようとご自分の肉を食べ、血を飲めと、繰り返し彼らに諭すイエスとのずれが際立っています。

 この溝はどのようにしたら埋まるのでしょう。

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いのちのパン

2017年07月24日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 6章34ー40節

 土曜日からスイスを訪ねています。三泊は毎日違う方のお宅に泊めてもらうのですが、それぞれに良さがあるのです。ホテルに泊まることでは味わえない体験です。

 いわゆる「五千人の給食」というしるし(イエスがメシヤであることを証しする奇蹟)を体験した人々の中には、「こんなにうまい話はない」と「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください」とイエスに願います。彼らの願いは、自分たちの腹を満たすパン。しかし、イエスが与えようとしておられるのはご自身。

 食べるパンを求める人々と、ご自分のいのちをパンとして与えようとしているとのずれは、決してかみ合うことがありません。先読みになりますが、やがてパンに味を占めて信じた弟子たちは「これはひどいことばだ」として、イエスのもとを離れて行きます。どちらに真の価値があるかを見る目が求められているのです。 パンによって弟子になった人々の心にあるのは、自分の必要をイエスがかなえてくれるのかどうかということです。

 人間には何段階かの必要があるのだという話を聞いたことがあります。とりあえずの必要、その人が大切だと思っている必要、その人が思ってはいなくても実はなくてはならない必要だというのです。「にわか弟子」といっては失礼かもしれませんが、パンを求めている人々はその人が見える範囲での必要までしか見えていません。イエスは、神に造られた人が真の存在を取り戻すために必要なものを与えようとしておられるのです。

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知っておられた

2017年07月22日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 6章1−15節

 日本で被せたものが取れてしまったので、歯医者さんへ。何を伝えるべきかを予め調べていたので、忘れないうちにとドイツ語で受付で話しますと、ニッコリ笑って「そんなに急がなくてもだいじょうぶ」との答え。無事に取れたものを被せてもらい、クリーニングもしてもらいました。日本語なら何ということもないのことなのですが…。

 ここは「五千人の給食」として知られています。四つの福音書すべてに記されている出来事です。他の福音書では、時間も遅くなったので群集を解散してほしいと願う弟子たちに、「あなたがたで食べるものを与えなさい」と挑戦するイエスのことばが印象的です。ヨハネの福音書は、収めている7つのしるしのうちの四番目のものとして位置づけます。そして、五つのパンと二匹の小魚が少年がもっていたものだということがこの福音書からわかります。

 この出来事を読む度に思い出すのは、教会に行き始めた頃のことです。イエスの教えの素晴らしさには感動しながらも、奇蹟がわかりません。そこで、イエスの奇蹟の「真相」を解明したいと、書店に行き、それらしきものを探して立ち読みしました。その中に、「実はみんな食べるものを持っていたのだが、少年が五つのパンと二つの小魚をイエスにささげたのを見て、心動かされて自分たちの食べ物を出すようになったのだ」というような説明がありました。「これだ!」と納得。さっそく、洗礼の準備クラスで「真相」を牧師に話しました。すると、牧師は「イエスさまは神さまだからできる」と一言。やがて自分も、そのように言う者となりました。

 「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられた」という6節のことばを心に留めました。今回のヨハネの福音書の通読でおぼえ続けているのは、イエスはすべてをご存じのお方、まだ会ったことのない人のすべてを、初対面の人のすべてを知るお方だということです。ここでも、イエスはご自分がしようとしていることを知っておられたのです。それなのに、弟子たちに「どこからパンを…」とお尋ねになったのは、弟子たちも主イエスのわざに加えられるということを、イエスがお考えになっていたからなのでしょう。

 そして、この問いかけは今も私たちに…。

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証言

2017年07月21日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 5章30ー47節

 耳を澄ませると、近くの木から鳩の鳴き声が聞こえます。きょうで夏休みに入る、日本人学校の子どもたちの歓声も聞こえてきます。空からは飛行機の爆音。あれこれと何かをしていると気づかない音や声が届くのですね。聖書を読むときにも、読んだ後でその箇所に止まり続けていることの大切さをこの頃覚えます。

 「ますますイエスを殺そうとするようになった」ユダヤ人たちへのイエスのことばが続きます。イエスはご自分が「神と等しくして、神を…父と呼んでおられ」ることを撤回することなく、ここではそうであられることの証言があると、イエスは話しておられるのです。ここにはイエスご自身の証言を含めて、5つの証言を提示しておられます。

 三つ目の「わざによる証言」は、この福音書で「しるし」と呼ばれているものです。イエスが行われるしるしは、神であられるがゆえにご自分がお持ちになっている力によるものです。これまでにも、ヨハネの福音書には「水をぶどう酒に変える」、「王室の役人の息子の病をいやす」、「38年間病に伏せっている人をいやす」というしるしを行われました。それらは、イエスが神であることを証言するものです。

 39、40節の「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとしません」というイエスのことばは、偏見のこわさとともに、いのちを与えるお方が目の前にいながら受けようとしないという悲しみもおぼえるのです。

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子も同様に

2017年07月20日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 5章19−29節

 暑い一日でしたが、夕方に夕立が…。これで涼しくなるかと思いましたが、期待した以上には雨が降りませんでした。日本では多くの地方で梅雨が明けたと報じられています。これから夏本番ということなのでしょうが、すでに充分に夏を経験したというつぶやきも聞こえてきそうですね。

 イエスが「ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられた」ことから、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになったと、18節にあります。

 きょうはその続き。「そこで、イエスは…」と展開します。しかし、「そこで、イエスは彼らのもとを立ち去った」というのではなくて、「そこで、イエスは彼らに答えて言われた」と続きます。しかも、イエスはご自分が神と等しく、神を父と呼ぶことから話題をそらすのではなくて、殺意に燃える人々に対してご自分が誰なのかをはっきりと語っておられるのです。

 当時のユダヤ人の「常識」から見れば、30歳前後の男が神を「父」と呼び、自分を「子」と称するのです。とんでもないこと、神への冒瀆だということです。なぜイエスは、身の危険が迫っていながらも主張を変えようとしないのでしょうか。それは、ここで言っておられるとおりのお方だからです。

 「みことばの光」には、「御子であられるイエスを正しく知り、崇める者としてください」との祈りがあります。イエスを知るとは、このようなことなのです。

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