みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主は…私たちの手に渡された

2017年01月17日 | 申命記

申命記 2章16−37節

 晴れ渡った青空の中、街に出ました。じーんと寒い一日でした。今週は寒波が来て、朝はマイナス8度、日中もマイナス3度とか4度という予報が出ています。バスのストライキはまだ続いており、いつもたくさんの人が待っているバス停も寂しそうに見えます。日本では、ストライキなど見なくなりましたね。

 この箇所は「戦士たちがみな、民のうちから絶えたとき」ということばで始まります。きょうの「みことばの光」には、「これから自分たちは、強大な敵と戦わなければならない」とあります。このような時こそ(いや、いつもなのですが…)神に頼り、神の力によって進むのだということですね。主なる神は、エサウの子孫であるエドムと争ってはならないとおっしゃったと同じように、アモン人とも争ってはならないとお命じになりました。

 出エジプトの道程を地図で確かめてみますと、どの道を通って約束の地にご自分の民を導き入れようとしているのかがこれらのことばからわかります。彼らが約束の地に入るために、戦い勝利する相手はエモリ人の王シホンが治める地でした。エジプトを出る時にパロの心を頑なになさった主は、約束の地に入ろうとする時にエモリ人の王シホンの心を頑なにされたのです。

 主がすべてを支配しておられることを、イスラエルの民にも、そして今の私たちにも、強く印象づける出来事です。神は、神を信じる者のうちにだけ働かれるのではありません。すべての者の主です。しかし、そのことを私たちはよく忘れるのではないでしょうか。

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この40年

2017年01月16日 | 申命記

申命記 2章1−15節

 日本にはこの冬一番の寒波が来ていると報じられています。わずかに積もるのを見る雪は風情があることでしょうが、絶え間なく降り続け、積もる雪には辟易(へきえき)するという方もいます。お住いの場所はいかがですか。当地も、今週は寒波が来るとの予報が出ています。

 申命記2章14節に「カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は38年であった」とあります。モーセは、カデシュ・バルネアでカナンへの偵察隊を遣わします。しかし、報告した偵察隊のほとんどの者も聞いた民も、神が「カナンを与える」と約束したにもかかわらず、不信仰ゆえに怖じ気づいてしまいました。その結果、彼らは38年もの間荒野を歩き続けることとなりました。

 7節の「この40年の間」ということばを心に留めました。民は「荒野の40年」を経験したのです。その歩みは、文字通りの荒野でした。外敵に揺さぶられるということもありましたが、何よりも彼らは神への信仰を問われ続けたのです。イスラエルの民はこの旅で自分たちの不信仰をさらけ出すこととなりました。「40年は散々だった」とまとめそうなところですが、モーセは「あなたの神、主は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、主は、この40年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった」と言います。

 私たちの不真実な歩みの中にも、主はご自分の真実を明らかにしてくださるお方です。だからといって、不真実でもいいのだ! ということはありませんが……。

 

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ことごとく告げた

2017年01月14日 | 申命記

申命記 1章1−18節

 申命記は「これらは…ことばである」で始まります。

 指導者モーセに率いられたイスラエルの民はエジプトを出て、約束の地を目指す旅へと出ます。ホレブ(シナイ山)では神からのことばを賜わりました。しかし、カデシュ・バルネアでは不信仰という罪を犯します。もっとも、そこに至るまでの旅でも、民は指導者にたてつき不平不満を漏らしました。

 十一日の間にこれらの特異な体験をした彼らは、エジプトを出て四十年目にモーセによって神のことばを聞くのです。聞く耳を持つまでにこれだけの時が必要だったと見ることもできます。

 私たちの歩みは、神の助けを体験することもあれば、神を悲しませ怒らせるようなときもあります。その間ずっと、神のことばを聞き続けるのですが、ある時までは神がお伝えになりたいことが理解できないままに過ぎていくということもあるのではないでしょうか。何度も何度も読んでいるはずの聖書のことばが、ずっと後になって心に届くといったらよいのでしょうか、そのようなことがあります。

 心に留めたのはモーセが「ことごとく彼らに告げた」ということば。申命記はモーセによる説教だと「みことばの光」の「申命記を読む前に」にあります(ぜひお読みください)。説教は、説教する者が語りたい、取り上げたいことを恣意的に選んでするものではなくて、神のことばをことごとく告げることなのだということです。「通りよき管として」という聖歌の1節を思いました。

*写真:子ども集会で作って遊びました

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だれの前に

2017年01月13日 | テモテへの手紙第一

テモテへの手紙第一 6章11−21節

 数日前の雪も木曜日と金曜日の雨でほとんど解けてしまいました。生活をするには解けた方がよいのですが、景色としてはもう少し積もっていてほしかったと贅沢なことを考えています。

 テモテへの手紙の終わりに、パウロは何を書きたかったのでしょうか。大きな課題のある教会を任されて、できれば逃げ出したいと心のどこかに思っていたであろうテモテは、特に大きな声を持ちつつあった俗悪な教えを語る人々から教会を守らなければならず、豊かさと貧しさが同居している教会の交わりに心を砕かなければならなかったようです。

 そんなテモテにパウロは、それらの問題にどのように対処するのかを書いてきたのですが、何よりモテモテが何を求め、何をめあてにして一人の信仰者として歩むのかを伝えています。

 教会に限らず、仕事をする中でも、自分の立場や役割をどのようにうまくこなすか、やっていくのかということにいっしょうけんめいになっていると、いつの間にか自分がすり減るような気分になります。11節と12節は、キリストを信じる者が目指すものです。自分と神との結びつきをおろそかにしないようにと言われるのです。

 そして、人の評価ではなくてやがておいでになるお方がどのように見てくださるのかを心に留めるようにとも勧めます。14節の「私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは命令を守り、キズのない、非難されるところのない者で…」という言葉は、目の前にあることをうまくやったとかしくじったとかして、高ぶったり落ち込んだりすることがないようにという、励ましにも響きます。

 

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追い求めるもの

2017年01月12日 | テモテへの手紙第一

テモテへの手紙第一 6章1−10節

 大国の次の大統領になる人がつぶやく140文字が、企業や人々を揺さぶっています。どのような方向に国を、そして世界を持っていこうとしているのか、興味と不安を抱きつつ見ている…、というところなのでしょう。富を蓄積することがベストだと推し進めていくのでしょうか。

 この箇所を一括(くく)りにすると、豊かになるとはどのようなことか、そのためには何を追い求めるのか、となるでしょうか。福音は社会の制度を変えることを主眼とはしません。主イエスを王とするのだから王制を壊してしまおうとは動きません。教会にはイエスを主と信じる奴隷がいましたし、イエスを主と信じる奴隷の主人もいました。

 今あることで満ち足りる心を持つようにと勧めるのですから、読み方によっては貧富の格差や階級を容認しているかのようにも見えます。しかしパウロは、金銭を愛することがあらゆる悪の根だとも言い切っています。

 「敬虔を利得の手段」とするのではなくて、金銭を追い求めるのではなくて、神を恐れ敬う敬虔を求めよと、パウロは勧めるのです。モノにあふれるような生活をしながら、なおもモノを追い求めるという流れに巻き込まれて、あれがあったら幸せに、これがあったら満足だという思いが湧いてくるようなときがあることに気づきます。

 何を追い求めているのか、との問いかけが聞こえます。

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