みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

かごも、こね鉢も…

2017年02月23日 | 申命記

申命記 28章1−14節

 昨年5月から概ね月に二度持たれてきた「男性聖書研究会」。水曜日夜は「信仰と仕事」というテーマで聖書を開きました。熱心な分かち合いがあり、時の経つのも忘れるほどでした。「常連」のうちのお二人は、3月で日本に帰国します。寂しさを覚えますが、また新しいメンバーが加わることを期待したいと思います。

 きょうの箇所には、多くの「祝福」ということばがあります。イスラエルの民は、神の御声に従うので祝福されると約束されています。「町にあっても祝福され、のにあっても祝福される」とか「あなたのかごも、こね鉢も祝福される」、また、「入るときも祝福され、出ていくときにも祝福される」ということばからは、あらゆる生活が祝福されるという、豊かな拡がりを覚えます。

 「みことばの光」には、かごは礼拝に用いられるものであり、こね鉢は日常の生活に使われる物だろうとあります。そして、「民は礼拝も日常生活も祝福される」と書いています。祝福というと、目に見えない、物ではないというように捉えられがちですが、そうではありません。生活の隅々にまで神の祝福が及ぶのだというのです。

 そして、何と言っても素晴らしい祝福は、「…あなたを、ご自身の聖なる民として立ててくださる」ということです。「あなたに主の名がつけられている」とも10節にあります。イエス・キリストによって、私たちがそのようなものとなった、立てられているということをじっと立ち止って覚えるのならば、これに勝る祝福はない、と心が震えるほどです。

 

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静まりなさい

2017年02月22日 | 申命記

申命記 27章

散歩を兼ねて立ち寄ったスーパーのパン屋さんで、ドーナツを1個買いました。1.25ユーロでした。すると、お店の人が「1.25ユーロは日本語では何と言うの?」と聞いてきました。日本人が多く来るお店なので、覚えて、使いたいと思っているようです。

 約束の地に入ろうとしているイスラエルの民にも、忘れてはならないことがありました。神がモーセによってお語りになった命令のことばです。彼らは白く塗った石にそのすべてを書き記しエバル山に立てるようにと命じられています。さらに彼らは、エバル山の上に自然の石で祭壇を築いて、全焼のいけにををささげ、和解のいけにえをささげることを命じられています。

 今なら、これらは聖書であり礼拝だと言えるでしょうか。どちらも神の民が神を恐れて歩む上で、神の恵みを覚え続けるのになくてはならないものです。

 そしてモーセは、すべてのイスラエル人に「静まりなさい」に始まって、主の御声に聞き従うようにと命じています。「静まりなさい」ということばがここにあるのが目に留まります。あれこれとなすべきことが多くあると、神のことばを心の片隅に追いやり、神への祈りも形ばかりになりやすい私たち。イスラエルの民への「静まりなさい」ということばをかみしめます。

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肝心なこと

2017年02月21日 | 申命記

申命記 26章

 ショッピングモールの中にあるスーパーが3月初めで閉店になるとの張り紙がしてありました。そう言えば、少し前から陳列棚が取り払われて商品がずいぶんと少なくなっていたのです。親切に対応してくれた肉売り場の方はどうなるのだろうと、少々気がかりです。

 26章を読んで、2節と10節の「初物」ということばに目が留まりました。

 イスラエルの民が約束の地に住むようになり、そこで収穫した産物の初物のいくらかを、神の前に持って来なければならないと命じられています。ここから思ったのは、初めが肝心ということです。まず神のところにという姿勢が、その後の道筋をしっかりとつけるのではないでしょうか。

 子どもたちがお小遣いをいただいた時、「まず神さまにお返ししよう」と言っていたのを思い出します。その感覚、姿勢を持つことができるのは、お金にしろ作物にしろ、神が与えてくださったと感謝できるかどうかではないでしょうか。

 聖書は「初めに、神が天と地を創造した」で始まります。少し飛躍があるかもしれませんが、私たちの生活でも「初めに、神」なのです。これが肝心なことだと教えられます。

*ルターが生まれて二日目に洗礼を受けた教会にて

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卑怯なことはしない

2017年02月20日 | 申命記

申命記 25章

 いつの間にか、散歩道の傍らの庭に花が咲き始めました。去年も春の訪れを告げる花として写真を撮りましたが、また会えました。さらに、鳥のさえずりがにぎやかになりました。今週は日中の気温が12−14度との予想ですから、春を体感できる頃となりました。

 「みことばの光」は25章を、「民の歩みにおける六つの定め」としてまとめています。この章を読んで、私は「卑怯なことはしない」と思い浮かべました。限度を越えてのむち打ちも、脱穀している牛にくつこをかけることも、兄弟の義務を果たさない男も、けんかの際の妻の加勢も、量りをごまかすことも、そして出エジプトの民にアマレクがしたことも、どれもが卑怯なことです。「ズルをする」とも言えるかもしれません。

 卑怯なことは誰もが悪いと認めてはいます。けれども、この章で記されていることでなくても、生活のいろいろな局面でちょっとしたごまかし、「ズル」をしたくなるような誘惑をおぼえることがあるのではないか、と考えるのです。

 きょうの祈りのことばは、「主よ。私たちは礼拝において御国を覚えます。また、日々の営みを通して、愛と義であるあなたを証しします」です。これを祈るというのは、生活の全領域で卑怯なことはしないと決意することなのです。

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神があなたを愛しているから

2017年02月18日 | 申命記

申命記 23章

 月一度の子ども集会。新しいお友だちが参加してくれました。今まで集っていた姉妹も嬉しそう! 聖書の話の後はお遊びタイム。きのうは魚釣りをしました。あらかじめ用意したものに加えて、子どもたちが作った魚を釣り上げるのです。子どもたちが描いたお魚はどれも上手でした。終わった後のお魚はみんなで分けて、お開きになりました。

 この章でも、約束の地での神の民の生活についての細やかな指示が伝えられています。1−2節を読むと、「狭さ」のようなものを感じる人もいるかもしれません。けれども、ここで述べられている禁令は、イスラエルの民が、すでに住みついているカナン人の神々の影響を受けてはならないという根底から出たものだと考えられています。モーセは、「あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである」と語ります。神の愛に応えて、神々に心を向けるようなふるまいをしないようにと迫るのです。

 1節のことばから思い起こすのは、「宦官」です。エチオピアの宦官がエルサレムからの帰り道でピリポによって福音を聞いて救われ、バプテスマを受けたという出来事があります。→使徒の働き8章26−40節 彼は主の集会に加えられまし。

 18節に「遊女のもうけや犬のかせぎをあなたの神、主の家に持って行ってはならない」とあります。「遊女のもうけ」はわかりますが、「犬のかせぎ」には首をかしげます。前の節の「神殿娼婦」と「神殿男娼」ということばといっしょに考えてみると、「犬のかせぎ」とは神殿男娼が稼いだお金という意味だと受け取ることができます。

*写真は「ルターの家」アイゼナハ

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