みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

同じ歌でも

2017年06月24日 | 哀歌

哀歌 1章

 「みことばの光」では、雅歌を読み終えて哀歌を読みます。きょうのタイトルは「同じ歌でも」としました。一方は高め合う男女で交わされる愛の歌の数々であり、他方はエルサレムの荒れ果てたさまをひたすら嘆く哀歌です。二つの聖書には何の関わりもないように見えるのですが、イスラエルの民が神の愛の愛に応えることなく他のものを愛し、裏切ったことのゆえにのエルサレム崩壊であることを考えるならば、二つの歌の間には「愛にどのように応えるのか」という共通のテーマが流れているとも考えられます。

 哀歌は書名が表すとおり、一貫して哀しみの歌であり、大変なところ、つらく悲しいところを通されたけれども、最後はちゃんとまとまって、ハッピーエンド! というようにはなっていません。バビロンにエルサレムは攻め込まれ、町が破壊されるだけでなくて、そこに住む人々の多くが痛めつけられ、ある者は殺されるという惨状を嘆くと共に、その原因が民の罪ゆえの神のさばきだということを知っている作者が、神に祈り求めているのです。

 1章にある祈りを拾ってみます。「主よ。私の悩みを顧みてください。敵は勝ち誇っています。」、「主よ。私が、卑しい女になり果てたのをよく見てください。」、「主よ。ご覧ください。…」

 なぜこの人は祈るのでしょう。「みことばの光」は、「自業自得であることを著者は承知している。だが、それでもなお祈り求めずにはいられない」と書いています。それは、神の何に拠り頼んでいたからなのだろうか、と考えるのです。


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1 コメント

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主に立ち返るなら (4K)
2017-06-24 12:12:32
 いつも執筆をしてくださりありがとうございます。日々の聖書通読の励みとなっております。
 本日の「一年で聖書通読」の「申命記」30章箇所のを読んでみますと、ちょうど「哀歌」のおかれている状況の時には、神様に対してどのようにしたら良いのか、についての箇所でした。

 神様はどのような場合にも、どのようにするべきかを、すでに語っておられるのだと教えられました。

 ちょうど平行して「申命記」を読み、私達が、たとえどん底を経験したとしても、救おうと待っておられるのだと、教えられました。
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