エゼキエル書 11章
きのうの写真は、キッチンの鉢に咲く朝顔です。8月が終わろうとしている頃、ずいぶんと涼しくなってきたので「花が咲きそうにないから捨ててしまおう」と話していたら二日後から咲き始めて、今では七八輪咲いてくれます。あの時に捨てないでほんとうによかったと思います。
エゼキエルはエホヤキン王とともにバビロンに捕囚された民の中にいました。しかしこの時、彼は主の使いによってエルサレムに連れて行かれていたのです。まだエルサレムは生き残っていました。そこで見たのは、神に背を向けていることゆえのさばきが差し迫っていたにもかかわらず、神を恐れることをしない人々、特に指導者たちのひどい有様でした。
「家を建てるにはまだ間がある。この町はなべであり、私たちはその肉だ」ということばは、エルサレムで邪悪な計画を立て、悪いはかりごとを巡らす者たちによるものです。その意味は、「なべの中の肉は外側の炎から守られているように、エルサレムもまた敵の炎から守られて安全だ、だからのんびりと構えていようという」ということなのです。しかし主は、彼らの甘い願望をひっくり返されるのです。
エルサレムの住民はこの期に及んでもなお、自分たちが特別な選ばれた者であるのを誇り、捕囚された同胞に「主から遠く離れよ」と言っています。彼らは、主が自分たちの所から離れようとしていることに気づかないのです。主は彼らの所にではなく、彼らがさげすむ捕囚の民の間におられました。そして、滅ぼされようとしているエルサレムの人々ではなくて、捕囚の民が「残りの者」だとおっしゃるのです。
立場や肩書きがその人の安全を保証するのではなく、その人の内に神の霊が働いているかいないかこそが鍵だということを、考えます。