みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主はいつくしみ深い

2017年06月27日 | 哀歌

哀歌 3章19−39節

 月曜日午後、ヴォルムスを訪ねました。さわやかな青空の下、ルター記念像、いくつかの教会を訪ね、街歩をして来ました(美味しいケーキ付)。

 1521年に、ここで開かれた帝国議会で自説を撤回するかと求められ拒んだことから教会から追放されることになるという、ルターが大きな転機を迎えた場所です。ルターはここで次のように語りました。終わりの部分ですが…。「…私は教皇も公会議も信じないからです。それらがしばしば誤ったし、互いに矛盾していることは明白だからです。私は取り消すことはできませんし、取り消すつもりもありません。良心に反したことをするのは、確実なことでも得策なことでもないからです。神よ、私を助けたまえ。アーメン。」(徳善義和「マルチン・ルター 生涯と信仰」より)

 「みことばの光」はこの箇所について、「哀歌の中で異色の内容」だと書いています。

 希望が絶え果てたような嘆きの中にあって、「私の誉れと、主から受けた望みは消え失せた」と嘆いた作者が、ここでは「私は待ち望む」、「私は主を待ち望む」、「主を待ち望む者」、「希望」ということばを用いています。彼が希望を見いだしているは自分たちの中にではなく、主おひとりになのです。「主の恵み」、「主のあわれみ」「主はいつくしみ深い」、「主の救い」、「主は豊かな恵みによってあわれんでくださる」ということばがそれと語っています。

 けれども、これほど厳しいさばきを体験している作者は、一体どこに主のいつくしみを認めているのだろうかという疑問も湧きます。主はこれまでにどれほどいつくしみ深かったのか、それは彼の人生においてだけではなく、イスラエルの民の歴史を顧みての結論だったと思うのです。だから、作者は惨状を目の前にしながらも、そこに主がいつくしみを施してくださると期待したのではないか、と考えるのですが…。

*写真はMagnuskirche(マグヌス教会)の内部です。


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