雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

室町ふたたび16

2007-11-30 21:22:59 | 時事
日曜朝、竹中平蔵慶大教授がテレビで喋っていた。

相変わらず Chicago 派の理論だった。

世界が競争社会なわけだから、日本もそれに適合できるような構造改革を、というものだ。

それは一選択肢であり、悪いとは思わない。ただし政策として実行する場合、どうしても process-managing が必要になる。

自由競争で一番問題なのは、ルールの安定である。

競争である以上自分が勝てるルールがいい。

どうやっても勝てないと思えば、暴力でねじふせられているに等しい。当然反社会的な行為を誘発する。

そして大衆の多くが一握りのひとの富に貢献する格好でしかないなら、近世を通り越して中世と同じである。

そう主張して民衆を扇動すれば、中央政府はその役割を実行できずルールはなくなる。

Said が知識人を非難するのは、本来そうした偏りある社会を是正するのが知識人の役割なのに、完全にそうしたシステムの保護者に廻るだけでなく、大学などの Institutions に組み込まれて、次の世代の選択肢を限定していくからだ。

そうしたら誰が「世の中のシステム自体におかしい」をつきつけるのだ。

室町のときは、そうした中央に、個人がついていかれなくなった意思表明として一揆があった。

国は、直接個人を統治はしない。日本の場合百姓の集団単位として「惣」があり、それが守護のもとに置かれて、中央に繋がる。そのつなぎ目がほつれて、「惣」を守っていた地侍が新たな信長や秀吉のもとでのシステムにあぶれて反乱をおこした(秀吉は完全に中間のつなぎ目の役職を廃そうとした)。

戦後日本は、その守護や惣が果たしていた役割を会社がしていた。

会社を通して中央組織と個人が結びつくのである。

しかし会社が生き残るために、という理由で、ここ十数年リストラし、また雇用もしなかった。

「リストラ」とは本来「構造改革」のことだが、日本では、ほとんどの場合が単なる「解雇」で、換言すれば、中央から個人が引き剥がされた格好になる。

自殺者が毎年3万以上が十数年間というのは、ベトナム戦争以上の惨禍であり、昨今の犯罪増加と合わせて、本来なら中央に個人がついていく必要はないと考えてもおかしくない。

室町なら、その引き剥がされた連中は、自分の命しか売るものがなくなって「足軽」となって暴れだして存在感を示したが、現代ではみな死んでいった。

いかに現代の人間がある選択されたシステムのなかにしか生きていないことがわかる。

民主主義とは、本来民衆が主役のはずである。現代の不幸は、その主役を主役にいさせるべきはずの知識人が統制側にいる(エリートと称して)ことが当たり前というイデオロギーがあることだ。

しかし一国の経済(経済といってもここでは生活と置き換えた方がいい)を考える場合、大部分を占める民衆が不幸であるなら国自体が健全になれるはずがない(竹中さんはその民衆に競争をせよ、という、ガンバレ、と。もちろん可能性がないわけじゃないだろうが、なかなかうまくいくわけではない。また重要なことは民衆はそういうことを望んでいるのではない)。

ではその民衆が求めていることは、またその不安とは何か。

Krugman の論説によると、アメリカも同じ傾向がみられる。

アメリカ経済は、最近の四半期はGDP4.9%成長だが、その実質的な富は投資などの大衆とは無縁のところにある。特に日常品の物価は跳ね上がっていて、Thanks Giving の七面鳥は去年の1.1割高だった。失業率は低いままだが、こうしたインフレと年金額が2001年から減少し始めていることが最も多い所得者層に不景気と先行き不安を感じさせている、という。つまり日常物資の物価高と、年金の受給額の減少が問題だというのである(ただしKrugmanは一方で本当の物価高の恐ろしさはまだ知らないといっている、これから結果が出る、と)。

僕はこれでは言い当てていないと思う。

結局血税を払っているのに最低ラインの確保がなされない可能性があることだ。つまり中央との結びつきを決めさせたのはまさに生活の安定のはずなのにそうでないということだ。つまりSafety Net がほしいのだ。

僕は誰かさんたちのようにすぐ弱者救済を、といっているのではない。

ソ連が実験してわかったように全員に分配するだけの食糧はないのだ。競争はある程度避けられない。

その競争を生き抜くための福祉機関として国家に属しているのだ。

しかしその暗黙の期待を踏みにじられるのだとしたら、どうして国家に属していられよう。

もちろんその理由だけで国家を離れる決断はできないが、その決断を迫られるような気配が年金額減少と物価高から感じられるから不安なのだ。

といっていざ競争といってもみなが勝てるわけではない。また努力でナントカなるわけでもない(努力をすればなんとかなるのならなんて素晴らしい世界だろう!)。そしてもともと参加を促されているゲームにはすでに勝者がいる(これのどこが自由競争なんだ!)。

したがって竹中さんがいう構造改革はいくつもあるが民衆もよい方向に向かっていると感じられるものから始められなければならない。それが明治以来続いている中央政府のリストラだ(ここでの「リストラ」は「クビ」という意味ではない)が、ここにも既得権益者がいて、なかなか進展しない。

一民衆として知識人の竹中さんに骨折って惜しかったのは、まさにこの部分だったし、Safety Net を可能にする税制だった。

追伸:Toyota、Detroitへ(Bostonglobe)

罪と罰

2007-11-29 06:01:21 | 将棋・スポーツ
「謝罪」という言葉はかねてからおかしいと思っていた。

「謝る」と「罪」が一緒になっているからである。

「罪」という字の下の部分「非」はひとが背を向けることである。

1度そうしたら当然相手にそうされることも覚悟しなければならないから、その関係は決裂する。

決裂したら修復不可能なので、そうした社会関係をなんとかするのが法律である。

手元の漢和辞典によると、自分がした「非」を法の網にかけると「罪」として認識されたと考える。つまり1度社会にそむいたひとがふたたび社会生活を可能にするために法律を介すことが「罪」という烙印を押すことである。

しがたって「罪」は、crime にしても sin にしても、「謝る」必要はない。ただ「罰」をうけるのである(だから「陳謝」なら文句はない)。

その点「謝罪」はとても日本的である。アジア的な「礼」と、西洋の法治主義のアイノコである。

以前も書いたが、「謝る」は「礼」から来ている。

他者との間の貸し借りのバランスが悪くなった緊張状態を解きほぐすために「非」のある方が言葉を発することが「謝る」ことである(apology も悪いことをした申し訳ない気持ちを表わすことである)。

だから亀田の親父と兄貴が「謝る」のもおかしい。

謝る必要があるとしたら弟に対して、選択肢としてあのような行為をすすめたことに対して謝るべきだ。

そして弟は、兄と父がいったからとはいえ、プロボクサーとしてボクシングをしなかったのだから、ボクサー・ライセンス剥奪が妥当である(しかもタイトルマッチだ)。

そのくらいの罰則でなければ、「罪意識」は生まれない。sin の定義を英英辞典でみると、「したことを後悔するようなもの」である。

したがって「謝る」で済ませられるとしたら、そのような質の高い(?)人間関係が前提とされる。

オフェンシブな言動をお互いまずするはずがないと思いあっているような対峙した関係がなければ、「謝る」で済むことは起こりえないし(だから亀田家内では謝ることは意味がある)、そのような前提のない亀田弟が世間に「罪意識」を示そうとすれば、「茫然自失」したり「鬱病」にならなければならなくなる。

昨今教育大学院の設置だとか、教員免許失効だとか、学校に弁護士を置くとか、教育に関する記事を目にするが、大学院で何を教えるというのだろう。法律に引っかからない言葉の選び方だろうか。

僕はアジアおよび日本の伝統的な社会関係のとり方として、「対峙」をすすめたい。ずっと対峙していこうと思ったら、気分を害さないためにだけでも、知識は必要だし、算数のミステイクもない方がいい。そしていろいろな教科を体験することで、自分が優っていたり、劣っていたりする分野があることも知る。少なくともそうした社会関係構築に向けて、義務教育があるのではないのか。

したがって最近の「謝罪」はたとえ「陳謝」という言葉で呼んだとしても無意味である。

自覚した不正をばれたから謝っているだけなのだから、対峙どころか誠意も感じない。

もともと悪いことをあがなう因果関係のあるつぐないなんてない。陳謝や罰は、単に赦しを請う手段に過ぎないことを忘れているのなら、罰則は厳しくするしか方法はない。

Katrina 37

2007-11-28 00:01:22 | アメリカ
NY Times によると、1980年代中頃から、New Orleans は3分の2をアフリカ系アメリカ人が占めてきたが、New Orleans の過半数は、20年ぶりに白人になったらしい。

去る土曜日の地方選挙結果で明らかになったもので、退役軍人の白人政治家Jacquelyn B. Clarksonが、アフリカ系アメリカ人候補 Cynthia Willard-Lewis を 53 : 47 という僅差ながら、人種別人口に比例して、勝利を収めた。結果、これまでアフリカ系アメリカ人が占めていた、ルイジアナ州議会に2人の白人議員が選出され、また、州裁判所裁判官の地位も、白人になり、これは差別されていた時代と同じだという。

ただし実際の投票者は52,614人で昨年6月の市長選挙時の113,000人から減った。

この差は、昨年の選挙ではニューオーリンズに戻れていない市民が不在投票や車で当日駆け付けるなどしたが今回はなかったためではないかとみられる。

問題は、なぜやってこなかったか、であるが、同記事では、一向に進まない復興に、見放されたと思ったのではないかとしている。

NY Times の論説ではあるが、この見解が外れているとは思えない。

昨今の不景気はアメリカに暗い影を落としていて(Gallup世論調査では、4%しかいいといったひとがいない)、いつまでも先のみえない選択肢にすがるほど楽観的ではいられない。

追伸:これまでのKatrina 123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536

拉致 4

2007-11-26 00:02:19 | 歴史
横田さん、家族会代表を退任 後任に飯塚副代表(朝日新聞) - goo ニュース

以前も書いたけれど、横田さんにめぐみさんに会わさずして死なせたくない、という気持ちはある。

よく戦中の日本人がしたことと比較して、たかが数十人の犠牲でそんなに大騒ぎしなくてもというひとに出くわすが、それはそれだし、あれはあれだ。

一方で昨今の国内での日本人による殺人事件や拉致事件をみて、愕然とする。これが拉致を世界に訴えている国なのか、と。

これも「それはそれ」なんだけど、もう少し何とかならないものか。

さて北朝鮮問題で憂慮すべきは、日本と他国では、温度差があるということだ。

暴力を持たず、ただ20年前に宝くじで得た大金をしこたま抱えているだけでそれが増える予定のない日本は、小学生肥満児みたいなもので、大人(いつの世も大人が正しいかどうかは別だが)の社会である国際社会では、なかなかとりあってもらえない。

そんな折、国連の非難決議はよい収穫だった。相変わらずこうした決議案を拒否する中国と、修正案を求める韓国には、歴史問題で日本に何かをいう資格はない。悪いことを悪いといえないのはみっともない。彼らが日本を断罪するのと同じ罪状が含まれているはずだ。

ここで「それもそれはそれだ」といわれるかもしれない。しかも日本はきちんと認めていないじゃないか、と。

それに対しては、何度も書いたように、日本の歴史修正主義問題は、反省をするということは全部悪かったことにしてフタをすることではなく、できるだけ忠実に過去に起こったことを検証していくことである、といえばいい(実際本来はそうした一連の動きの過程なのだから)。

たとえ肥満児であったとしても声くらいは出せる。もう1度いいたいのは(日本語でここに書いても意味はないかもしれないが)、北朝鮮の主張には何の論拠もなく、ただ暴力で国際社会に居場所を確保しようとする「ならずもの」である。

かつてのミュンヘン会談や、ポーランドをめぐる旧ソ連とドイツを思い出せ、などといわなくても、そうしたならずものへの対し方は、世界各地でそれほど違いはないんじゃないか。

ドイツの戦後補償をめぐる記事がWashingtonpostにあり。

関連:「拉致」「拉致2」「ブッシュに拉致問題を」「アメリカにとっての北朝鮮」、「拉致3」、「対米」、「室町ふたたび15:Crossroad」。

気の持ちよう 6

2007-11-25 00:00:01 | 雑談(ジョーク)
気功で内周天から外周天ができるようになった。

これでもうひとつ職業ができるようになると喜んでいたのだが、どうも他人の念にやられてしまうことがある。

ご存知のように、気功は、強固の基盤があってこそ他者に使える。

その強固さの目安となるのが外周天である。

自在に気を体内で移動させられるようになると、その延長上に他人の身体のなかでも気の移動が自在になるが、邪気が混入した場合も排除できるからである。

しかし実際はその内容(質)と重さと、僕自身の実力による。

そのため人の相談を受けたときや、病状の重い人でも、こちらがなんとか取り除きたい(=治したい)と危険を承知でそのひとのなかに踏み込むとき、それなりに何かをもらってしまうことがある。

昨日、そんなことになった。

後頭部に入り込んだ邪気が拭えなかった。

邪気というとなんだかオカルト映画みたいだが、簡単にいえば肩こりになったときの、あの凝り固まった何かである。

それがそのまま後頭部に居座ってしまった。

そのため金曜から土曜日は散々だった、腹筋も拳立ても100回できないし、その延長で予定していたフェルメールも土曜日観に行かれなくなった。

そして昨日1日かけてその除去を試みた。自分の気を総動員して、それを捕まえ、一緒に連れ出すのである(空気洗浄機と同じ要領である)。

よくはなったが、完全に除去できない。

今考えると、その悩みはなかなかドツボにはまっていて、どの選択肢を選んでも、あまりよい将来が待っていないというシロモノだった。何か目を合わせたくないな、と思って目をそらしていたが、最後には本気でやらざるをえず、ついもらってしまったらしい。

そこで今日気分をスカッとさせようと、『バイオハザード3』を観に行った。

相変わらずのスリリングさと、迫力の効果音で、僕の身体は、そこだけマグニチュード8クラスの地震があったかのように揺れた。揺れるたびに、寿命が2、3年縮んだんじゃないかと思った。

が、隣の若い女性2人組は揺れてなかったし、僕みたいに時々「うわっ」とか「ああっ」とかいったりもしなかった。

なんだか僕だけが所詮ツクリモノの映画に踊らされているようで、情けなくなり、驚かされないように身構えた。

その結果、肩が更に凝った。

映画は無心で楽しもう、そう思った。

追伸1:これまでの「気のもちよう」12345

追伸2:ドラキュラの「子孫」が死去=独立宣言などで話題に-独 (時事通信) - goo ニュース

追伸3:鯨の続報(Washingtonpost)

わしづかみ

2007-11-17 22:37:09 | 音楽
ここのところ Robert Johnson を聴かない日がない。

こんなにハマルと思わなかった。

Ace Atkins の Crossroad Blues のなかで、主人公が付き合う女性が、R.J.を聴いたらそれまでに聴いたすべての音楽が色あせた、と述べる箇所があるが、まさにそれだ。

なぜあんなにも素朴なものがこれほどの力を持つのか。

Jazz やClassic が単なる技巧の集積にしかみえない。いきなり(男の)急所をわしづかみにされたような感じだ。

今までこれに気づかなかったとは不覚。

"I love Robert Johnson," she said. "The way he could trn a verse into something so beautiful and tight was wonderful. I really appreciate the man for all that talk about the devil and knowbs turning in the middle of the night. ..."(221 in Crossroad Blues by Ace Atkins).

対米

2007-11-15 21:33:57 | アメリカ
あすの日米首脳会談で首相 テロ指定解除に反対表明 (産経新聞) - goo ニュース

写真見て待つ再会の日=早期救出願う両親-めぐみさん拉致、15日で30年 (時事通信) - goo ニュース

一昨日も書いたが、本当に民主党と自民党が機能するということは、大連立をかけることではなく、日本の民主党は、アメリカの民主党に働きかけてBush 批判としてリベラルサイドから(この問題で日本側のリベラルな運動家は、拉致被害者の会などの市民団体しかない)、与党政府は日本にとってのテロ問題をみつめて利害の不一致を意見し、説明を求めるのが筋。また同時に日本はテロ行為には断固として反対する旨も述べるべきである(対テロに対しては同じスタンスであることを強調)。

アメリカのテロに対する態度が一貫していないという指摘はアメリカには大きな痛手である。アメリカがイラクやアフガニスタンに関わってから4年半。9万4千人のアメリカ人が国家の名目でいろいろな職務につき、彼らの中には、職業軍人ではなく、民間からいっているひとが多数いて、そうした市民サイドの目に訴えることは大打撃ではないか。

追伸1:Bostonglobe によると、アフガンやイラクでの服務を終えた人間がもとの生活に戻っても、以前の職場にすぐ戻れないらしい。1994年にアメリカではthe Uniformed Services Employment and Reemployment Rights Actができて、そうした国事に服務したひとの雇用は保証されているはずだったが、反故にされるケースが多く報告されている。2006年の調査では、兵役を終えて帰ってきたひとの23%が、兵役前の給料どころか雇用も覚束ない状況らしい。もちろんこの23%という数字が大きいか小さいかには議論の余地がある。

追伸2:NY Times によると、FA宣言をした、NY Yankees のPosada捕手が、Major League 最高年俸捕手になる可能性が高いらしい。推定5200万ドル。

室町ふたたび15: Crossroad

2007-11-13 23:23:54 | 時事
読売・渡辺氏から大連立話=鳩山民主幹事長明かす (時事通信) - goo ニュース

毎日新聞の記者のこの記事もみたが、依然としてこの国には、主体としての国を考えて論じるひとがいない。

新聞記者はナベツネ批判のアゲアシトリで、政治は、与党と野党のゲーム対決だけで、あのときもこうやって失敗したんだろうな、とつくづく思った。

ところでPさんがある県で「9条を守る会」を発足させた。

その県にはすでに100近くそうした名前の団体があるのに作ったのは、闇雲に噛み合わない主義主張を唱えるのではなく、自衛と紛争の区別がつかない現実をまず論じようという意図かららしい。

この方は現実味のない思想を嫌うため、アドルノが好きではない(といって認めていないわけではない)。

アドルノは、主観と客観のハザマのどこかでいつも揺れていることを選び、それが現実には実施不能だからで、アドルノ自身もそれが現実に役立つとは考えていなかった。

その彼が学生運動かなんかで壇上に上がったとき、女性が出てきて、胸を露にアドルノにみせつけたことがある。現実を直視せよ、というわけだが、その数ヵ月後にアドルノは亡くなった。

僕はアドルノがいいたかったのは、つまり哲学者としての社会的役割を出ようとしなかったのは、留保する余裕のない状況では、暴力(ここでの「暴力」とは「根拠のない言動」の意)しか生まれない、と考えたからではないだろうか。アドルノが死んだのは、むしろその余裕のなさを憂いたからだと考えたいわけである。

その点、テロ特措法の継続に関する紛糾は面白い。この国はもともとテロや9条問題については、ほかの国々とは全く異なる次元で考えている。そのため世界に合わせようとすると、当然紛糾するわけだが、むしろそれが「素直に」出てきたために、思わぬ角度から物事をみる可能性が与えられた(用意された二択問題を解くだけでは本当に主体的な将来なんか来ない)。

もともと「阿弥」に書いた日本の理は、そうした第3の道を示すことなのである。

Washingtonpost のこの記事をみよ、福田総理の行き当たり場当たり的なコメントを載せたこの記事はそれ自体さえまとまりがなく、日本が実はほかの国とは違うCrossroadにいることをあぶりだしている。

日本が中東の Terrorists と戦うということは、殺し合いを覚悟するということであり、殺されることを覚悟することであるが、なぜそうするのかの因果関係にはいくつか脆弱なところがある(ひとことでいえばアメリカ追従になる)。日本が関係しているテロは、北朝鮮のかつてのテロ行為のオトシマエであり、現在の北朝鮮のテロ(武器で脅して金品を要求する=これをテロといわずして何をテロと呼ぶ?)は、日本を含めた、現在の国際社会の問題である。

この視点から照射すると、アメリカの対テロリスト対策には大きな矛盾がみえてくる(ここ参照)。

ここ最近民主党の支持率が落ちてきたのは、民主党が結局国内のみの議論しかせず、海外に展開することがなかったからだ。本来ならアメリカの民主党との連携が必要だったし、それはそれで建設的に日本の利が得られる道も模索される。

Said のコロンビア大学での講義ノートに、人間は crossroad にいるのではなく、それ自体というのがあった。つまり「最後の四辻」のことである。しかし国の四辻には、最後はあるべきではない。

したがってもっともっと紛糾せよといいたいところだが、いかんせん、国の中での立場でしか勝負が展開していないから、事態が遅々としてその辺がイライラする。

しかしそれがCrossroad。

追伸1:最高のスパイ、George Koval(NY Times)。

追伸2:51年前の今日、最高裁(米)で、Separate but Equal判決(「退行」、「にっちもさっちも2」)に違憲判決(NY Times)!

メイラー寂す

2007-11-11 11:39:15 | 文学

米作家ノーマン・メイラー氏死去(時事通信) - goo ニュース


(NY Timesより)

Mailer が亡くなった。

よくいわれるように、またそれを僕は正しいと思うのだが、人間は矛盾に引き裂かれた状態でいるのがいい。そのうえでそれをみつめる自分がいて、そして自分でAggressive な方を選ぶ(単にAggressive というのではない、その反対が死であるような対立項だ)。

彼は生涯(NY Times 参照)Aggressiveで大胆にみえたと思うが、僕には、人間社会と関わるべきか関わらざるべきかで揺れ、そのたびに、関わる方を選んだ人間だと思う。

彼が若い頃から Opinion Leader になろうとし、晩年は、テレビでコメンテーターのような仕事をしている一方で、同時代のBellow と違って僕にしっくりきたのは、都市生活者として疎外されたと感じるのではなく、個人のなかに閉じこもろうとする「根源的な無垢」的性質があった。

この性質は、60年代文学に共通するもので、本当に純な人間は適応できないとするFaulkner のコメントを思い起こさせるが、そうした回帰がいつも彼に本当のことをいわせようと駆り立てたのだとと思う。

そうした傾向は、彼が16歳で入ったHarvard 時代から顕著で、自分の性体験をセキララに告白したり、「White Negro」を称賛したのは、まさに社会生活と個人生活の一致を夢見たからではなかったか。

ただMailer の場合、「夢」といっても観念のなかで終わらない。よりリアルに事実をみつめて、社会生活と個人生活を一致させようとするからこそ、地位と名誉を得た男の夢は、自分のWifeを殺すことだった、といった「いびつ(=本当にいびつなのか)」な『アメリカの夢』が描かれるのではなかろうか。

そんなことを音楽で表わしているのが、カザルスのMozart の交響曲40番。これは、師が僕に勧めくれたものだが、ずっと理解できなかった。しかし何がきっかけだったかわからないが、昨今仕事に駆り立てる自分がカザルスの40番を選ぶようになった。

Mailer の言葉で好きなのは、

"There are times when I like to think I still have my card in the intellectual guild, but I seem to be joining company with that horde of the mediocre and the mad who listen to popular songs and act upon conincidence."

Mailer の最新作今日注文しよう。

追伸1:Bostonglobe(メイラーについて)

追伸2:1千万円当たりくじ持ち主判明…6万円当選うれしくて帰る(読売新聞) - goo ニュース
19人が名乗り出たそうですね。その嘘つき18名の名前を公表しようっ!

追伸3:Vietnam 25周年(Washingtonpost)。

追伸4:湯斗の秋の逸品、栗の渋皮煮ケーキ登場。