録画しておいたTV番組をみた。
NHKのもので、チェルノブイリ法が制定されてから23年をたどったものだ。
ウクライナでは、年間の被ばく量が1mSV以上のひとが補償対象で、気になる補償の内容は、給与の一割増額(現金)、旅行券(リフレッシュのための)、ユティリティ料減額、医療費無料、大学優先入学、安全な食料購入金額などと、現金で受け摂る学はそれほどではないが、全体として包括的な支援にみえる。
ここまで被害者側に立った補償ができたのは、対ロシア(当時はソ連)を意識していたものでもあるようだが、現在その補償額は、国の予算の40%近くに当たり、当然無理なため支払額が減額されているという。
ただ支払わないわけではなく、分割するなどして最終的には支払う方針らしいから、政府を全面的に責めるというところまではいきにくい。
問題は、番組内の登場人物たちが再三口にする、ウクライナ23年の経緯を日本に参考にしてほしい、というところだ。
どう参考にせよというのだろう。
番組全体としては、手厚い補償を約束するのも考えものだといっている印象だが、画面に出てくるウクライナの要人たちが強調していたのは、ethics (倫理)だった。
大変な補償額ではあるが、これを行わずして政府と言えるのか(これは国が引き起こした問題で国民に責任はないのだから)と。
しかしこれはとても日本にそのままあてはめられない。
なぜなら日本は金だけは出せるからだ。
先日発表された放射性廃棄物などの中間貯蔵庫候補地に打診された850億円という金額は、ウクライナで支払いが困難だと言っている800億円を上回る。
もちろん物価の違いなどがあるから金額の比較はそのままではおかしいのだが、いずれにしても倫理は金の問題ではない。
倫理というのは何が正しくて間違っているかを真剣に考えることだが、日本の場合、金で判断停止状態を作っているようにしかみえない。
例えば福島の郡山では、地価が上がっているらしい。
一人10万円補償額を受ける避難民(家族が四人なら四十万円)が、郡山に引っ越して土地を買い、御殿を建てるからだという。
郡山ではちょっとした騒動で、カレラは朝からどこぞのカフェで朝食をとっているそうな。
これでいいのだろうか。
約百年前に出会った放射線との奇遇や未来への負担、放射線による人体への影響、我々が何をすべきかについて考えているのだろうか。
郡山には、年間1mSVの被ばく量を越えそうな場所はいくらでもある。
それとも被害者として疲れてしまったのだろうか。
僕は、汚染された食材を給食に出したり、そうした食材を食べないのは福島人ではないといった発言を非難してきたが、それは被害者の心の痛みに無神経な、所詮傍観者の無責任な発言なのか。
しかしそうした声にカレラは、「ねたむな」と答えたそうだ。
ここのところ原子力発電所の再稼働が次々と報告されているが、結局目の前にぶら下げられた生活と金の問題になっている。
以前ある大臣が「結局金だ」といった発言をしたが、全くその通りだといわざるをえない。
もちろんこうした流れは、「常識」かもしれない。
しかしここのところ各政権が踏襲している「公共の精神」に矛盾しないのだろうか。
「公共の精神」とは現在の社会の風潮への反省から自律心ある個人を育成しようという教育目標の主要な柱で、要は、倫理的な、自身で立ち止まって何が正しいか考える個人の育成である。
これは、19世紀末には議論されていて、つまり資本主義及び西洋的な考え方の成れの果てに懸念される不安材料に対する処方箋だった(トクビルなどは1835年にはすでに警鐘を鳴らしていた)。つまり西洋の礎である言葉という二項対立的思考への対策で、common, open といった二項対立を解消する含意を有する。
この解消が二十世紀のテーマで、共産主義やマイノリティ重視といった19世紀に提案されていた考え方を進めたわけだが、残念ながら、政治においても音楽も文学もそれ以上にはならなかったように思う。そして期待の星だったのが経済であった。なぜなら地中にミミズがトンネルを掘るように組み合わせが自由だったからだ。
話がとめどなくなっているので元に戻すと、公共の精神は確かに18世紀のロマン派詩人のように、音楽でのJAZZのように、量子力学のように、正答を保留したもので、決定的な回答は用意しないし、将来的でさえない。しかし立ち止まってじわじわと模索することは重要であろう。そこに国家公務員総合職に女性を増やすといった20世紀型、金で蓋をするという19世紀的処方箋は如何と思う。
金での解決を望むなら廃炉に23兆円かかることも念頭においてほしい。
NHKのもので、チェルノブイリ法が制定されてから23年をたどったものだ。
ウクライナでは、年間の被ばく量が1mSV以上のひとが補償対象で、気になる補償の内容は、給与の一割増額(現金)、旅行券(リフレッシュのための)、ユティリティ料減額、医療費無料、大学優先入学、安全な食料購入金額などと、現金で受け摂る学はそれほどではないが、全体として包括的な支援にみえる。
ここまで被害者側に立った補償ができたのは、対ロシア(当時はソ連)を意識していたものでもあるようだが、現在その補償額は、国の予算の40%近くに当たり、当然無理なため支払額が減額されているという。
ただ支払わないわけではなく、分割するなどして最終的には支払う方針らしいから、政府を全面的に責めるというところまではいきにくい。
問題は、番組内の登場人物たちが再三口にする、ウクライナ23年の経緯を日本に参考にしてほしい、というところだ。
どう参考にせよというのだろう。
番組全体としては、手厚い補償を約束するのも考えものだといっている印象だが、画面に出てくるウクライナの要人たちが強調していたのは、ethics (倫理)だった。
大変な補償額ではあるが、これを行わずして政府と言えるのか(これは国が引き起こした問題で国民に責任はないのだから)と。
しかしこれはとても日本にそのままあてはめられない。
なぜなら日本は金だけは出せるからだ。
先日発表された放射性廃棄物などの中間貯蔵庫候補地に打診された850億円という金額は、ウクライナで支払いが困難だと言っている800億円を上回る。
もちろん物価の違いなどがあるから金額の比較はそのままではおかしいのだが、いずれにしても倫理は金の問題ではない。
倫理というのは何が正しくて間違っているかを真剣に考えることだが、日本の場合、金で判断停止状態を作っているようにしかみえない。
例えば福島の郡山では、地価が上がっているらしい。
一人10万円補償額を受ける避難民(家族が四人なら四十万円)が、郡山に引っ越して土地を買い、御殿を建てるからだという。
郡山ではちょっとした騒動で、カレラは朝からどこぞのカフェで朝食をとっているそうな。
これでいいのだろうか。
約百年前に出会った放射線との奇遇や未来への負担、放射線による人体への影響、我々が何をすべきかについて考えているのだろうか。
郡山には、年間1mSVの被ばく量を越えそうな場所はいくらでもある。
それとも被害者として疲れてしまったのだろうか。
僕は、汚染された食材を給食に出したり、そうした食材を食べないのは福島人ではないといった発言を非難してきたが、それは被害者の心の痛みに無神経な、所詮傍観者の無責任な発言なのか。
しかしそうした声にカレラは、「ねたむな」と答えたそうだ。
ここのところ原子力発電所の再稼働が次々と報告されているが、結局目の前にぶら下げられた生活と金の問題になっている。
以前ある大臣が「結局金だ」といった発言をしたが、全くその通りだといわざるをえない。
もちろんこうした流れは、「常識」かもしれない。
しかしここのところ各政権が踏襲している「公共の精神」に矛盾しないのだろうか。
「公共の精神」とは現在の社会の風潮への反省から自律心ある個人を育成しようという教育目標の主要な柱で、要は、倫理的な、自身で立ち止まって何が正しいか考える個人の育成である。
これは、19世紀末には議論されていて、つまり資本主義及び西洋的な考え方の成れの果てに懸念される不安材料に対する処方箋だった(トクビルなどは1835年にはすでに警鐘を鳴らしていた)。つまり西洋の礎である言葉という二項対立的思考への対策で、common, open といった二項対立を解消する含意を有する。
この解消が二十世紀のテーマで、共産主義やマイノリティ重視といった19世紀に提案されていた考え方を進めたわけだが、残念ながら、政治においても音楽も文学もそれ以上にはならなかったように思う。そして期待の星だったのが経済であった。なぜなら地中にミミズがトンネルを掘るように組み合わせが自由だったからだ。
話がとめどなくなっているので元に戻すと、公共の精神は確かに18世紀のロマン派詩人のように、音楽でのJAZZのように、量子力学のように、正答を保留したもので、決定的な回答は用意しないし、将来的でさえない。しかし立ち止まってじわじわと模索することは重要であろう。そこに国家公務員総合職に女性を増やすといった20世紀型、金で蓋をするという19世紀的処方箋は如何と思う。
金での解決を望むなら廃炉に23兆円かかることも念頭においてほしい。