雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

トムとジェリー

2009-02-27 17:05:46 | 将棋・スポーツ
人間は追われると、逃げるものらしい。

高校生だった頃、土曜の午後、友人たちと野球をしていた(僕はピッチャーだった)。

そこを通りかかった警官がなぜか僕らをみて自転車を停め、僕らに近づいてこようとした。

それをみた僕らはなぜか知らないが逃げた。

逃げるのをみて警官は本格的に自転車で追い始めた。

僕らは街なかに蜘蛛の子のように散った。

今思うと、なぜ逃げ追われたのかわからない、何も悪いことはしていなかったのだから。

確かにそのメンバーは中学時代古い言葉でいうと「番長」および「副番長」で名前と顔は売れてはいたが、土曜の午後河原で野球なんて健全な高校生の見本のはずだった。

なぜ追いかけられ、そして逃げたんだろう。

そんな疑問が娘を追いかけているときによぎった。

二週間前くらいから歩行器にのる彼女を追うと逃げるようになった。

そして一昨日何気なくリビングで本を読んでいたら、僕に追うことを要求するようになった。

はじめは僕に近づいて「パパ」と呼び僕が気づくと逃げるだけだったが、僕が追わないため僕が組んでいた足先にタッチして逃げた。

そこで合点した。彼女が追いかけっこがしたいのだということを。追いかけて来い、という顔をしていた。

一生懸命急いでいるのはわかるのだが、全然進んでいないところが面白かった。

それから約一時間半、インターバルを置いて、目があうと、追いかけっこになった。

はっきりいってふたりともくたくたになった。

もちろん僕の方が体力はあるはずだが、彼女にスリル感を与えるために一回の追いかけっこで僕は彼女の2倍から4倍は走らなければならなかったからだ。

やがて娘も思うように足が動かなくなり、イライラして泣き始めたが、それでも追いかけっこは終わらなかった。

そしてあまりに執拗に追いかけっこが続くので、ついに妻がいった。

あなたたち、もう普通の関係に戻れないの?

なんで追いかけっこが終わりにできないのだろう、僕にもわからなかった。 

Aso Taro

2009-02-26 10:04:48 | 時事
先日東名を走行中「麻生」という会社名のついたトラックがいた。

妻はそれを「あさなま」と読んだが、いくら漢字がいろいろ読み方があってもそれはないだろ、と笑った。

政局はどうやら与謝野に向かっているようだが、僕からいわせればここにも書いたように当然の帰結である(といってこれはスタートであってしかもthe start ではなく、a start だ)。

しかし現在の総理大臣は麻生(12)さんであって、Washingtonpostから訪米中インタビューを受けていた。

要点は、以下。

1)メドベージェフ大統領の印象は、軍人ぽいプーチンと違って、弁護士タイプのような感じだった。

2)ドルの基軸通貨としての価値が下がりそうだが、中国でさえそれを望んでいないと思う。

3)忘れては困るのは、ドルに対抗し得るというか互角以上にやっているのが円であることをChartを使って説明(Washingtonpost記者はこれをObamaに知らせたかと訊いていた)。

4)Obama日本の90年代を失敗といっていたが、そんなことはない。それなりに機能していた、でなければ。。。

5)拉致問題については、6ヵ国協議のバランスが変わった。日米韓 対 露中北朝鮮 の3対3になったから。。。

6)北朝鮮は核がなければただの貧困国、これを忘れてはいけない

漢字の読み違えといえば、中学の時、「電信柱」を「でんしんちゅう」と読んだことがあるが、リーダーに問われる資質は漢字を正しく読めるとか読めないということではない(もちろん間違えないにこしたことはないが)。

以前も書いたけれど、かつてのリーダーは、有力な集団の利益を分配するという単なる役職だったが、最近の数人のリーダーは、既存の枠組みから新しい枠組みのなかでの利益確保・分配を要求され、これがなかなか難しい。

おそらく加筆します。


明暗

2009-02-20 20:30:10 | 文学
日本語は奇跡の言葉:水村美苗(小説家)(5)(Voice) - goo ニュース

水村さんのことはあまりよく知らなかった。

はじめて『続・明暗』を読んだときもタイトルや著者名が崩した字で書かれていたため、「水村」か「木村」か迷ったが、あまり気にも留めず、漱石のコピーをしようというのだから、コテコテの国文出身者だろうくらいに profile してそのままにした。

だから英仏から日本をみつめてきたひと、という事実は新鮮だった。

なぜ当時なおざりにしたかといえば、水村さんより問題が漱石だったからだ。

『続・明暗』は確かに漱石が書いたかのようにみえたが、各パラグラフにひとつ、漱石らしい文が欠けていると感じ、かつ漱石が『明暗』で到達するはずの境地が描かれていないと思った。

ではいったい漱石の文章のポイントは何か、どんな境地に達していたのか、これらふたつの問いかけの方が僕にとって重要で、水村さんの作品の重要性はむしろそうした問いかけをみつけさせてくれたことで終わっていた。

今思えば、学生の僕には過大な問題で、もう1度読んでみたら全く違う感慨が出てくるだろうが、とにかく僕にとって水村さんより漱石の方がはるかに重要だった。

その背景には、当時大学生だった僕にとっては埴谷雄高や金芝河の言葉が気になっていたということがある。

現実問題に真剣に関わる場合政治問題を避けることができず、しかしその問題に関わるとあるところで矛盾点にぶつかる。それを何とかするのが文学、という結論をふたりは導いていた。

もちろん太郎さんがいうようにそれが政治でなくてもよい。

個人がぶつかる問題には相容れないふたつの対立項の間で引き裂かれるときほど、作品は輝くのだろう。

John Milton が「キリスト降誕の朝によせて」という詩を書いたが、その詩にも同じ結論が載っている。

彼は、Christianity と ギリシャ・ローマの古典というふたつの大黒柱が共存しなくて悩んでいた。最後の一連で、彼はそれを文学で超える、つまり言葉を操作することで整合性を得るわけだ。

そしてこれは文学の場合スタート地点でここからがいろいろ始まり、漱石もそうだったように思う(今の時点で確信はない)。ただしこの「超える」もしくは「ススム」ことにこそ、文学の推進力があるという認識は全く変わっていない。

そこで水村さんの上記インタビューの内容にいきたい。

「日本語を守る」とはどういうことか。

この標語を口にする方は水村さんだけではないと思うが、そのメカニズムはどのようなものなのか。

水村さんが言うには、いい文章を読むようにすることだ、というが、本人も認めているようにあまりにおおざっぱだ。

水村さんのように、英語、フランス語がわかる方は、日本語と合わせて、3カ国語がわかるということだが、「愛している」と「Je t'aim」と I love you. の3つがあって「愛している」の言い方で愛の告白をしましょう、ということなのか。

そうではないでしょう。

『神曲』の各界の最後に用いられる、日本語だと「素晴らしい」にしかならない「光」というか「後光」みたいなものを描写する西洋語だと複数あるように、日本語の場合も西洋語にしてしまうとひとつしか訳語がないなんていう単語がある。

そうした単語が存在するのは、まさにその文化圏に生きる人間がその区分けを重視してきた証であり、まさにそうした単語が生きてくるような人間関係なり葛藤が描かれる作品が読まれるだけでなく論じられ更にそれぞれのひとによって考えられていないからではないか。

先日触れておきながらきちんと説明していない「優しい」は、kind とか gentle に置き換えられるようなものではないのだ。

「優」は、「ひとが憂う」と書いて「憂うひと」と解し、更に「わざおぎ:役者」と解釈する。

人前で悲しむことを生業にしているひとだ。「人の悲しみを悲しむことを演じる」ことが「優しい」といっているのだ。

Globarization が問題だというなら、それによってコミュニケーションをする言葉が単純化してそうした各文化圏固有の単語が切り捨てられることが問題じゃないのか。

それを浮かび上がらせることができるのは水村さんのような背景を持つ人間じゃないのか。

マンモスと子犬

2009-02-15 17:29:07 | 雑談(ジョーク)
昨日は世間ではバレンタインらしかった。

それを思い出させてくれたのは、昨日夜半に届いたからのビデオ・メール。

姪は振り付けつきで、「ピンクのハートは愛あるしるし、もぎたてフレッシュ、キュアピーチ!」といっていた。

意味は全然わからなかったが、とにかく癒されたように思う。

そこでに訊いてみた。

「昨日バレンタインみたいだったけど。。。」

「だって甘いもの食べちゃいけないでしょ、体調悪いんだから」

「じゃ、準備はしてあったの?」

「・・・ないわよ、そんなの」

ブが悪いときは沈黙はつくらずに間髪いれずに開き直りの回答をするのがいいということを僕はから学んだ。

こういうときの彼女はマンモスのようにふてぶてしい。

といって僕と論戦を交えようという意志はない。

僕が真剣になると一刀両断で秒殺されると知っているからだ。

だから僕が仕事をしている脇で、仕事を中断させないようなレベルでブーブーいうにとどめる。

しかし彼女も失敗することがある。

ブーブー言い過ぎて、僕が勝負する気になり、仕事を中断しかける。

と、いきなり子犬のようにキャンキャン吠えながら逃げ、安全な距離を保ったところにある草むらの陰からこちらをうかがう。

近づこうとすると、ウーっとうなる。

仕方なく僕が仕事に戻ると、草むらから出てきて、キャンキャン吠え立てる。ケンカをうるクレームをつけたのは自分なのに「私とケンカしようとするなんてひどいっ」とクレームをつけるのである。

それに対して、「お前がオレにケンカ売ったんだろ」と勝負しようとすると、また草むらに逃げて繰り返しになるので、今回は僕がエサを用意しておいた。

オーガニックのショコラ・ケーキとドイツ直輸入のチョコレートである。

「わかった、わかった」といいながら取り出すと、尻尾を振り始め、はいよ、と渡すと、すかさず草むらに持ち帰ってひとりでムシャムシャ食べていた。

彼女にマンモスと子犬を重ねながら、「どうしてオレがチョコレートやるハメになったんだろ」と思った。。。

追伸:さっき今日のブログの内容は君のこと書くよ、と妻に話したら、出演料を要求された。今度はアンパンがいいらしい。

Adolf

2009-02-14 16:39:33 | 文学
データで斬る経済危機 どのくらい進むか、雇用削減 失業率に含まれない「不完全な失業者」の存在(日経ビジネスオンライン) - goo ニュース

手塚治虫作品に用いられた音楽の特集(NHK)をみた(録画)。

漫画界での手塚さんは、野球界の王・長嶋以上の神だから仕方ないが、手塚崇拝で終わっていて物足りなかった。

『仏陀』や『アドルフ』の歴史的な考証の杜撰さを指摘すべきだといっているのではない(フィクションなんだから細かいことに目くじらを立てる必要はない)。

もっと手塚さんの内面に踏み入ってほしかった(それをBSの方の番組でやるらしいが僕は契約してない:残念)。

太郎さんがよくいっていたように、崇拝からは何も生まれない(「何もない」といったらケイン・コスギ、いやイイスギか。。)。

批判して、更に自分なりの通史的視点で肯定的に組み入れていかれなければ、そのひとを appreciate したことにならないと思う。

僕は世代的には赤塚さんでさえよく知らないんだから、手塚さんとは更に世代的な乖離があるからか、彼を侮辱さえ出来る(笑)。

が、侮辱する気は全然ない。

Updike のところでも書いたが、クリエイターの書く作品の主人公は、引き受ける(あるいは背負う)ヒーローである(その点でアメリカ文学のアンチ・ヒーローも役割は変わらない。「引き受けないこと」を引き受けたのがアメリカのアンチ・ヒーローである)。

手塚さんの著名な作品はまさしくその典型でそれがどれだけ多くの希望をもたらしたことか考えると絶賛せざるをえない。

一方気に入らないのは、『火の鳥』だ。

ライフワークはその反対になるのか、顕教のように作品全体に「否定」があってその意義がわからない(未完成ではあるが)。

ちなみに「~批判」という解釈が僕は嫌いだ。

批判をする対象の背後にある原理は往々にして無記であるのに、そこにまで達しない批判が多く、表層的に思われるからだ。

もし坂本龍一がいっていたような単に戦争反対であるなら、やはり時代の限界といわざるを得ず浅薄感を拭えない。

「坂本龍一」なんて坂本龍馬の長男みたいな名前をしてるわりに全然革新的に思われない(音楽は別だろうが)。

一方『アドルフに告ぐ』は僕は英訳でしか読んでないのだが、単なる戦争批判ではなく、その背後にあると思しき一原理に言及している気がする。

その原理とは、人間社会を秩序付けるはずのカテゴリーが戦争を導いた、とするものだ。

ヒットラーがユダヤ人かも、という説が歴史的にどうのではなく、それを浮き彫りにするためのもの、つまりアドルフという名のついた3人は、簡単にカテゴリーにくくれない人物のジレンマを抱えているからこそ浮かびあがるのではないか。

そして手塚さんらしく、正義を引き受けるTogeを絡ませることで、ひとつの物語になっていく。

僕はいつの時代も、「不完全な失業者」のような、カテゴリーにくくられない人間にこそ焦点を当てなければその時代はみえないと思う。

異学の禁2

2009-02-13 23:15:47 | 宗教
先日の休日の夜僕は倒れた。

転んだのではない。

その後熱にうなされながら、一昼夜寝て、その後も回復せず、毎日死ぬかも、と思いつつ今日に到った。

病院に行けばいいのに、と思うかもしれないが、約十年前大学院で修論かなんかやってるときにも同じ状況になり、病院に担ぎ込まれたが、原因がわからず、釈放(?)された。

ただ原因がわからないのに薬が出て、検査代もとられて、大学病院に行って更にわからないといわれて返された(もちろん検査代から何からいろいろとられた)。

だから行かなかった。

そして一日のなかで調子のいいときを見計らってこうしてブログを書いた(死ぬかもと思ったら何か書かずにはいられなかったのかもしれない)。

僕は、医者を信用するな、といいたいのではない。

社会自体が医者に依存しきっていることが問題だといいたい。

あの方々は時に我々を救うこともあれば死なせることもあるし、片足一本奪うこともあるといったのはルソーである。

自分の健康は自分で守るべきであり、医学を必要とすると思われるときに医者に行けばいい。

もちろんいったって治るかどうかはわからないことを覚悟していく。

昨年妊婦のたらいまわしがよく報道されたが、出産というのは、医師がいれば無事に通過できるなどという簡単なことではない。

産婦人科の知人はひとりしかいないが、そのひとに訊いたこともないが、僕は産婦人科になり手がいない原因はそれだと思っている。

だから以前も異学の禁で書いたように、医者が患者に「どうしますか?」なんて訊いてくることになる。

ちなみに妻が注射されようとした薬の副作用は、腸に出て、なぜかそれを打った妊婦の子供は小さく生まれる。

なぜそうなるか、普通に考えればわかるだろう。

あのときあの薬(名前忘れた)を打つのをやめてもらって本当によかった。

ちなみに今日ついに危機的な状況から脱したように思うし、倒れた原因もわかった(漢方や医学書をみながら病人をやるというのもこうなってしまえば乙なものだ)。

明日から仕事だ(汗)。

よしっ!

2009-02-12 09:03:53 | 将棋・スポーツ
【2010年W杯予選 アジア最終予選】日本、決定力なく…課題ズシリ(産経新聞) - goo ニュース

上記記事にある通り、素人目にみても、特に後半は日本が圧倒しているようにみえた。

以前と何が違うといって、バックラインでの左から右、右から左という大きな転換ができたために相手が中央に集まってそなえざるをえず、それが更にボールを支配する構図を作らせたのだと思う。

攻撃が通るたびに僕は「よしっ」と連呼するので、娘はまた「ヨシ」という言葉を覚えた。

更に娘が覚えたことといえば、つい喜んで、ホッペタにキスをし、首筋にもキスをしたら、気持ちよかったらしく、今朝は起きるなり、首筋を露にして僕にキスを求めた。

しかも左右交互にやれ、という。

何かいけないことを教えてしまった気がする。。。

文化と文明8

2009-02-11 21:37:23 | 時事
「見切り発車」に落胆=下値探る展開も-米市場(時事通信) - goo ニュース

フルヴェンがベートーベンを振るときの注意事項として、有機体として再現することだといっていた(ように思う)。

古典主義作品の場合まるで他とは切り離されたかのように、つまり「無記のペ」として存在してしまうからそれは避けたい、ということだ。

フルヴェンは作曲家ではなく表現者だから、聴衆との間に過去の作品であるベートーベンとの繋がりを見出させるような演奏を試みた、ということだろう。ベートーベンを殺してはいけない、と。

こうした有機体をつくることは音楽だけの話ではないことは、サルトルの『8月の光』評や、密教をみてもわかる。

同様に政体もそのようにあらねばならず、随時改変が余儀なくされ、毎日のように国会が開かれるのはそのためである。

近代国家の場合この集団を有機体にする血液が金であり、枝葉末端までがその集団内に取り込まれなくてはならない。

だから今回の政策は、投資を促し雇用を創出・促進して、なおかつ減税をする、という、動脈と静脈の両方にてこ入れする、これまでの考え方でいけば、とても常識的で妥当なものだ。

しかし上記記事にもあるようにこれ以上を期待するのは能力や権限を超えたものだと思う。

その果てに気づくはずなのは、金銭によって国民の生活を根こそぎ引っこ抜くのが近代国家だとすれば、それは世界とのかかわりと、その世界経済のなかでの価値の幅や差(これからつけることも含む)を前提にしていた。

アリストテレス風にいえば「奴隷は仕方ない」だったわけである。

Obama に期待していたわけではなかったが、いわゆるMinority 出身の大統領だったから、New Era of Responsibilityがrefer していたのは、フロイトのいう「文明の敵は女性」を超える、超えなくてもそれに言及するような政策が用意される、いや用意しようという目論見くらい垣間見えるのではと過大とは知りながら期待していた(投資家の期待とは全く別物だろうが)。

一種の反文明的文明行為を。

無記

2009-02-10 17:39:19 | 宗教
赤ん坊が食べもの以外のものを口にいれた場合打つ手がなかった。

が、「ペ」というと、我が娘が舌を出して、その異物を出してくれるようになった。

我ら夫婦は涙がチョチョギレンばかりに感動した。

その喜びが伝わったのだろう、我が娘は異物が入っていなくても「ペ」と舌を出すようになった。

しかも妻はそれに思いっきりウケルから余計娘は得意になって「ペ」をする。

となると、娘は何を勘違いしたか、誰が来ても「ペ」をするようになった。

しかしそれは「アッカンベー」でもあるから非常にお行儀が悪い。

「無記」という言葉が仏教にあると数日前書いたが、これは今回の「ペ」のようによくも悪くも使えるが、もともとのペには良悪の含意はない、ということである。

もちろん娘の「ペ」は、まさしく無記の「ペ」でどちらの含意もない、純粋な「ペ」だった。