雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

report 33

2011-08-30 00:16:45 | 震災
静岡茶セシウム被害、東電に9千万円賠償請求へ(読売新聞) - goo ニュース

始まったね。

こうした賠償問題を一体どのように収めるのだろう。

ちなみに静岡の汚染はお茶だけではない。

僕が感知する限りでは、田畑や森のなかに行くととたんにセシウム反応が出る。

前回のポストでも書いたようにここ数週間ちょっと強めの反応が出ているが、こうなってくると、その源泉は、福島の原発からなのか、放射性プルームなのか、木々からなのかが特定しにくい。

というのもヨウ素も相変わらず感じるからだ。

ご存じのとおりヨウ素の半減期は短いから、本当に原発から出ていないのなら、ヨウ素は感じる可能性がかなり低いはずである。

しかし特に一昨日からその数日前は、僕も妻も、ヨウ素による典型的な反応が出ていた。

僕の身体もオーラどころかずっと蒸気みたいに悪いものが出続けている。

だからどこに放射性物質の源泉があるのか特定しにくいのである。

もちろん近くに行けばわかる。

数日前も久しく車をとばして静岡のある自然公園に行ったら、森林がセシウムが強くて、わが家族は入れなかった。

むろん僕らにとっての危険値は、国どころか良心的な科学者が設定する値よりはるかに低いから、みなさんが行っても問題はないかもしれない。

が、娘は、ずっと歯が痛いといっている。

気功がらみのレポートもしておこう。

放射性物質による症状は個人差がある。が、傾向としては、呼吸器、腸、歯、高血圧などの経絡が多い。

そして今回のように線量は多くはなくても一定期間以上続くと、気功の効果も低い。

とにかく免疫力が落ちる上に、放射性物質から解放されないから、回復する時間がないのだ。

ただし肝臓、胃腸、ヨウ素の場合は抜き方がみえてきたように思う。

別に僕の発見ではなく、整体で内臓の障害の出方は決まっているとされているが、まさにそこが出口になる。

中国医学のすさまじさを感じないではいられなかった(整体は日本?)。

そんなわけで少しでもリラックスしようと、先週は、ミシュラン認定会席料理店と岩茶を数種類試してみた。

驚いたことに、会席料理店ではあまり放射性物質を感じなかった。

気持ちが入っていたからだろうか。

ただ料理としては面白みに欠けた。

それから魚は、太平洋側のものではあったが、なぜかほとんど放射性物質を感じなかった。

おそらく種類によって異なる。

野菜もそうだが、種類別に線量は全然違う。

気功での邪気の抜き方もそうだが、これからは、各種類別の対応が必要になってくる。

それもかなり細かい対応が必要になる。


report 32

2011-08-23 11:18:36 | 震災
我が家の食卓にのぼる食材は、ここのところそれなり変化を余儀なくされている。

昨日いいと思った野菜がダメになり、悪かったはずの魚が食べられる。

海外の品々ならいいかというと、そうでもなく、最近ヨーロッパで大手の豆乳を買ったら、日本のものよりはるかに線量が高かった。

以前(4月とか5月)に頼んだときは気にならなかったのに、である。

どうりで最近娘がほしがらないわけだと思った。

とにかくこれまで選びに選び抜いたつもりのお店の食材が汚染されている。

お気に入りのパン屋がダメ、契約農家の野菜がダメ、今までのつきあいを考えると、心苦しかった。

何しろ僕らが付き合ってるお店は、以前も書いたが、あまり売れていない数寄の店だからだ(といって広告をだしたら僕らの分がなくなってしまう程度の数しか作れないのでこれ以上の利益もまた望めない、これが誠意ある店じゃないのか)。

そこで妙案を思いついた。

もちろん気功である。

5分ほどやってみると、例えば、一口で歯が半分くらい溶けたんじゃないかと思わせるほどの放射線量のキュウリは、概算で約10分の1程度に減った。

そこで段ボールに入ったままの野菜を丸ごとやってみることにした。

するとモクモクと煙があがるではないか。

ちなみに放射線を感じなかった野菜はいくら気功をかけても煙はでない。

我々同様野菜も有機物なんだなぁとあらためて感じた。

それからもうひとつ、発酵食品は、いわゆる放射線量が高い地域で作られていても線量が少ない。

例えばひいきにしている店の梅干しは、ホットスポット近くだが、ほとんど出なかった(蜃気楼のようなものは出た)。

妻曰く、これからは一家に一台気功師の時代だね。

report 31

2011-08-18 01:03:55 | 震災
福島の子ども、半数近くが甲状腺被曝 政府調査で判明(朝日新聞) - goo ニュース

0.1マイクロ・シーベルトは多い。

と断ずる根拠は、自分の経験値であり、説得力はないかもしれない。

とにかく放射線の障害について考えるとき困るのは、みな感知しないから、数字というか実験結果に頼るしかない点にある。

しかし実験結果だと数値にはかなり幅が生まれる。

例えば放射線障害によるガン発生の確率は、学者や研究所によっては1%から40%くらいまで様々だ。

ほとんどゼロから半分近くまであるのでは、どちらも信じられまい。

逆に言えば、陽性の児童の割合として明示されている45%という数字も何らかの介入ができるということである。

繰り返し書いていることだが、被曝したかどうかという問いはもうナンセンスだ。

むしろ日本人は現在世界中の学者たちにとって良き実験材料なのだから、いろいろなところと契約して、もらえるところから金をもらい、復興にあてた方がいい。

ところで今日夕方娘と運動公園にトレーニングに行くとひとが少なかった。

今日武田さんの『子供を放射線から守る云々』という本が届いてみて、みなこの本を読んだからかなと思った。

公園はひどく汚染されているとあるからだ。

僕はこのひとは所詮「想定内」のひとだから常識的なことしか言わないため、評価まではしていないのだが、ただ今日は公園に行くべきか迷った。

ここ4、5日、線量が高かったからだ。

僕の基準だと昨日、一昨日は、最大0.04ミリ・マイクロ・シーベルトで、6月以降では二番目に高い。

一昨日普段は0.03程度のプールも0.07はあったろう。

しかし今日のこの辺りの風向きからいけると決断した。

案の定少なくとも0.01はなかったと思う。

report 30

2011-08-11 23:03:05 | 震災
今日の『ニュースにだまされるな』(http://youtu.be/W7hPK9E-lC0)、よかったね。

最終処理場がどんなものになるべきか具体的に提示され、内部被曝を防ぐ方法として食品の線量を確認できるようなシステム構築案も提示されていた。、

特に児玉龍彦さんという方、先日国会で抗議をしてとても有名らしいひとのことも初めて知ったが、初めて話ができる科学者に会った感じ。

もちろん内部被曝の実態は複雑な人体との関係からとても把捉できないといっていたのだから、役立たないといえば役立たないが、専門家がきちんとわからないことを具体的に聴けたのはリアリティがあった。

結局彼らはガイガーカウンターに依存しなければならないが、彼らのトークのなかからなぜホウレンソウなどの野菜の気が強いのかもわかった。

彼らのなかに気功師を入れれば、もっとrealityが増すだろう。

Picky 6

2011-08-07 22:35:22 | 音楽
汚染水処理システム、7時間半停止…装置に異常(読売新聞) - goo ニュース

先日と異なり、温水プールに行った。

おむつがとれている子供なら入れるプールだ。

前回行った幼児用プールは、水泳用おむつをしてる子がたくさんいて、今思うとあの水はかなりの「汚水」だったはずだ(もちろん放射性物質がその辺にゴロゴロしてる今となってはかわいいもんだが)。

娘は何度も潜っていたから化学的にはかなり人類みな兄弟的になったことだろう。

そういえば小学校が一緒だった友人が同窓会の時いっていた。

「低学年のときはトイレはいつもプールのなかでやってた」

聞いたときは愕然としたが、いずれにしても今となってはかわいい汚水だ(発癌性には関係あるまい)。

こういう自虐ネタが出てくるほど、久しぶりにビシビシ泳いで心地よかった。

話は娘のこと。

先月からピアノ教室に通わせ始めた。

決め手は、先生が時々横浜のプロムナードで演奏するというJazz pianistだったからだ。

もちろんJazzが好きな方に悪い人はいないからというのではない。

Pluralismを教えたかったからだ。

物事の回答はひとつではない、James のPragmatismのいう、unity ではなくtotality をまず仕込みたかった。

先日Pragmatismは否定していたはずでは?という問いにはきちんとした言い分がある。

例えば同じ「天ぷら」でもいろいろな揚げ方があるが、技術的にきちんと習うと、70点、つまり既製品が作れるようになる。

しかしそこから先は個々のケースに応じて多様さが要求される。その多様さを温存し、100点を目指す備えをすることをPluralismという。

僕の教育方針は、はっきりいえばこれだけである。

結果、幸か不幸か、娘は、たったひとつの回答や70点を嫌うようになった。

嫌うというよりは、つまらない、と感じるのだ。

その結果習い事にいっても2度までは我慢するものの3度同じことを繰り返すと、露骨に先生に反旗を翻す。

3歳のくせして岩倉具視のようにこれみよがしに先生を無視して、妨害じみたことまでするので、妥協ばかりの社会生活にこれから耐えてゆけるのかと妻は心配しきりだった。

そんななかピアノ教室に通わせ始めたのである。

しかし所詮仕事としてのピアノ教室。初回、二回目ともに授業内容は同じで、三回目にこれをやったら、また…ということになった。

そして三回目予想通り同じことをやってくれたのである。

娘は無視を始め、先生も明らかに娘の「怒り」を感じたらしい。

そこで先生はおなじみの曲をJazz風に演奏して見せた。

ほかの生徒は何やってんだこの先生という顔をして特に聴いてもいなかったが、うちの娘は違った。

先生のすぐ隣までスタスタと歩いていき指の動きをずっと追っかけていた。

僕はこのときのためにJazz pianistの先生のいる教室を選んだのだ。

先生が追いつめられて秘儀を出す時を。

子供に限らず教える場合に重要なのは動機である。

やる気にならなければ何も始まらない。

やれといわれてただやるようなやつにはなってほしくなかったから、面白くないなら先生を困らせるぐらいなんだと妻にはいってきた。やる気を出してから、何かことにあたってほしいと思っていた。

そのときに重要なのが、Pluralismが可能な教員である。

普通のピアノの先生は70点できるようになると資格があるようだが、それでは娘にやる気を出させることができない。

やる気がでてはじめて、基礎訓練も意味が出てくるのだ。

その点Jazzの自由さは目を見張るものがある。

例えばBill Evansの伝説のトリオは、以前も書いたように、3拍子と4拍子が同居したり、余韻の和音を新たに付け足したりしてのける。

もちろん見方にはよるが、Jazzの自由さが傑出しているのは、反則までが取りこんだために生じる、わかりやすさだと思うお。

娘は帰宅後ピアノの弾き方をはじめて妻に訊いてきた。

もちろんその程度で娘をピアノに駆り立てるまでには至らなかったが、こうした体験を繰り返すしか方法がないと思っていた。

だから競技者が現れる温水プールも選んだ(目の保養のためではない)。

クロールの美しさをみせるためだ。

僕は水泳は競技者としては県大会2位が最高だが、事故にあって水泳でリハビリをしているときに素晴らしい師に出会えた。

僕のクロールはいつもこの方のクロールのマネと言っていい。

自由形をそれなりにやったひとはわかると思うが、腕の動かし方はかなり細かく「技術的」になる。

しかし全日本で何度か優勝し、シニアでも当時優勝しつづけていたそのひとは、そんな細かいことはなにひとついわず(僕は競技者じゃなかったし、僕に教えても無駄だったからだろうが)、僕にみせるだけだった。

大迫力の、美しいクロールをである。

僕は習ったそのクロールを娘にみせた。

娘の印象はどうだったか気になったが、娘には訊かなかった。

娘は僕をライバルだと思っているので、特に負けていると感じる分野についての感想は僕には言わないからだ。

しかし帰宅後妻にそっと訊いてみると、娘が妻に、「どうやったら浮ける?」と訊いたとのことだった。

report 29

2011-08-06 23:04:18 | 料理
何年ぶりだろう、回転寿司に行った。

気がのらなかったが、魚は日本海から九州、お米も有機農法のものだというので、試してみたい気になった。

しかし一番大事なものが欠けていた。

心である(回転寿司にもともとこれを求めるのは無理があるが)。

喰い物は製品ではない。

誰に対しても同じものを出せばいいわけではない。

出てきた寿司はみな、PCのように、既製品だった。

最近日本は安心して喰えるものが減っている。

が、それは科学でそう断じられたからというのでは長い食文化の伝統を持つ国としては寂しいと思う。

農作物など確かに心配だが、福島産は試してないが、茨城、千葉辺りであっても有機農産物ならいい「気」を発している。

食品は基本的に有機物だから全体の統合機関として「気」があって、手をかざせばその力は感じられる。

スーパーにある食品は、ほとんどこちらから気を奪うような食べ物だが、ホットスポットといわれる地域の農作物であっても、有機農産物で旬であれば、かなり気力は高い。

茨城、千葉だからといって一様に避けるのは、しきい値を設定して、危険か安全かを断ずるのと同じである。

みなさんには今こそ潜在的に眠る有機体としての力をみつめてほしい。

といいつつ、去年の夏のことだが、ひどい目にあった。

ある山間部をドライブ中、「無農薬」と大々的に書いたスイカを農家の方が売っていて、買ってみた。

路上駐車だったため発される気の量や種類を確認しなかったのがいけなかったのだが、帰宅後早速食してみると、背筋に冷たいものが走り、真夏なのにその後寒気が引かなかった。

手をかざしてみると思いっきり僕から気を吸っていた。

気の英才教育をしている娘は一口でやめた(今日の寿司も一皿目の一口目を食べるともう口にしなかった)。農薬を使ったかどうかなんてわからないと思っているのか、それとも無農薬だが化学肥料は使っていたのかわからないが、住所も電話番号もないため、問いただすこともできなかった。

放射性物質を軽んじたいわけではないのだが、有機物には有機物の力があって、放射性物質の量次第ではあるが、放射性物質に細胞が破壊されても力のある食材であれば、それを上回ることもあるといいたい。

その証拠ってわけじゃないが、一考というか記憶にとどめておいてもらいたいエピソードをひとつ。

前回のポストに登場したロシア通の方のことだが、このひととの付き合いも気功がらみだった。

この方は、1991年だったか、混乱期にモスクワにいて、ある日暴漢に襲われた。

正面から脳天に鉄パイプを喰らって気を失い、いろいろ暴漢が彼の荷物などを物色中に目が覚めたために再び赤レンガで後頭部を割られた。

気が付いたときどうやら自分は水たまりのなかにいるのだと思ったら、自分の血だまりで、そのまま病院に搬送されて一命を取り留めた(なぜか外務省か大使館はこの事件を報道しなかった、ただし現地ではそうした事件が二度と起きないようにブロックごとに警官がそれから立つことになった)。

もちろんそれだけが原因というわけではないが、彼は視力というか視覚がよくなかった。

数メートル先は、カメラのレンズの背景のようにゆがみ、二次元にしかみえないのだ。

そこで気功の視力回復を求めて僕のところにいらした。

実践してもらった結果、二次元だった視界が三次元になり、カメラではなく肉眼の見え方、つまりおぼろげだった部分がすべて研ぎ澄まされてみえるようになった。

彼は吃驚仰天で、その気功による視力回復の手引きには、数年もやれば視力は2.0以上になるとあるが、彼は全く疑わず、現在気功の修行に励むようになった。

これが我々有機物の潜在力ではないだろうか。

科学を捨てろとはいわないが、そこまで信頼することはない。科学は所詮諸刃の剣しか作れないのだから。

Common Sense

2011-08-02 09:22:54 | アメリカ
中国メディア規制に「くそったれ」…有力紙罵倒(読売新聞) - goo ニュース

世界はアメリカ的になりつつあると思った。

以前も書いたが、理念上アメリカの民主主義は、国家という組織と国民一人一人のバランスをどこでとるかということに焦点を置くものだが、中国はそれには程遠い国だと思っていた。

これは中国が遅れていることを意味するわけではない。

考え方の違いで、もともと国家という組織を維持することはある種の暴力や権力を容認することだから、国という組織に属すことによってある程度以上の人間が生を確保されるなら致し方ない、と考える。

20年前中国にいたカナダ人は、彼と話す中国人がすべて尋問を受けていたことより、中国人自身がそうした窮屈さを問題視するのではなく、むしろその「窮屈さ」によって「安全」が確保されると肯定的にとらえていたことに驚きを感じていた。

僕自身もそれがかつての西側諸国にしか共有されないCommon Senseでしかないのかと驚いたものだ。

結果そうした国々では、国の決定事項に盲従する選択をする。

国の権力は、風邪か雨のように、致し方ないものだと受け入れる。

拉致問題にしてもそうした国々では解釈が異なる。

知人にロシア(正教)通がいるのだが、彼が会ったロシア人は、例えば横田夫妻が涙ながらに訴えるさまをみると、「怒る」。

「教育がなっていない」というのだ。

もともと国家はそうした暴力を行使するものなのだから親が子供にしてやれる教育は、そうした暴力下でも生き抜く力である。

横田夫妻がいうように、北朝鮮で娘が泣いてくらしているなら、それはそれまでの育て方がなっていない、というのだ(もちろん横田めぐみさんはたくましく北朝鮮で生きていると思うが)。

と今回もCommon Senseがないことに驚かされた。

だからこそアメリカは10年前の9.11のテロ以降方針を変更した。本当に怖いのは、価値観を共有する国ではなく、違う国であると。その100年前にピカソやゴッホが植民地文化に感じた驚嘆が、脅威になったわけだ。

そこでアメリカはいろいろな組織の組み換えをやったはずだった。

だから以下のような記事をみると失望を禁じ得ない。

英誌、欧米「日本化」をやゆ…決断嫌がる政治家(読売新聞) - goo ニュース

結局アメリカのObamaという選択は20世紀的だった。

つまり20世紀という100年のテーマは、Minoritiesだった。

彼らの adopt, adapt, adept という生き様を哀れみ、讃嘆した。

しかしFeminists やPostcolonialismを待つまでもなく確認されたことは、世界にはMinoritiesの方が多い、一般大衆はみなMinoritiesであり、Silent Majorityだった。

憐れむ余裕がないことがわかったのだ。

そうした状況下で、Control が重要になってくる。

中国は19世紀的、アメリカは20世紀的、日本が21世紀的だとすると、21世紀的とは核分裂的とでもいおうか。大戦時のようにただただ放射線状に力を無駄に拡散している。

追伸1:以下の記事をみて、最近の線量の多さの意味が合点された。

過去最高10シーベルトを計測 福島第一の配管外側(朝日新聞) - goo ニュース

前回も書いたが、収束には程遠いのでは。

追伸2:なかなか時間がとれずPost時刻と内容にタイム・ラグが出来ています。また乱文乱筆になっています。ご容赦ください。