雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

阿弥

2007-09-22 16:18:18 | 歴史
安倍内閣メルマガ「身を引くことが最善」で配信終了(読売新聞) - goo ニュース

安倍総理の最後の言葉をみてつくづく思うのは、現実問題打開の難しさ、事実を理に置き換える難しさである。

先日北村薫の小説『ターン』を読んだ。

主人公は、30歳前後の版画をなりわいにする女性で、7月のある日交通事故に遭い、5ヵ月間意識を失っているが、当人はその事故に遭うまでの24時間に閉じ込められている。事故に遭ったのが15:15で、その前日の15:15から事故に遭う直前の15:14までを生きるとまたその15:15に戻るから「ターン」というわけである。

物語は、そんな迷宮に陥った彼女が、唯一電話でコンタクトがとれる現実世界の男性Aの協力によって無事意識を取り戻すという話で面白かったが、小説のあとがきによると、読者からクレームがついたらしい。

この小説にはもうひとり男Bが登場するが、アクドイ奴で、主人公の存在を知るや襲おうとする。主人公と同日のほぼ同時刻(15:20)に事故に遭ったため、ターンする時間の幅が重なり、彼女を肉体的にとらえることができるためだ。

主人公は逃げようとするが、ターンをすると決まった時刻(15:15)に決まった場所に戻ってしまうので、そこをつかまえられてしまうのである。

ただし男もターンして場所が移るので、彼女を襲える時間はターンする15:20までのたった5分しかない。

小説を読んでいるときはハラハラドキドキで面白かったのだが、そのクレームによると、この待ち伏せは起こりえないという。

なぜなら彼女と男が事故に遭った日を2日とすると、彼らの24時間は、

女:15:15(1日) ⇒ 15:14(2日)
男:15:20(1日) ⇒ 15:19(2日)

となるから、2日にいる男にはどうやっても1日の女を待ち伏せできないというわけだ。

この間違いは、読んでるときは気にならなかったが、男Bの存在が、主人公が最終的に意識を取り戻すきっかけに少なからずなっているために、少し興醒めした。

ある事実に対して同じ認識を得ようと思ったらそれなりの「理」が必要といいたいのである。

安倍さんの話に戻る。

安倍総理が処理を求められたのは、テロ(拉致)問題を中心とする対外政策と、国内の財政収支の健全化だったが、両方ともが難題で押しつぶされた格好になった。

それぞれに理をみつけることができなかったからである。

前者については、拉致問題と、中東のテロ対策を同列にする理がみつからないことが問題だった。自国民の安全が侵されているのに、中東に自衛隊派遣もあったもんじゃない。

野党や小沢さんがいう憲法ほか法規上の訴追や、単なるアメリカ批判という国際良識では、日本が抱えるちぐはぐ感は拭えない。相変わらず「ニホンのデントー」でいろいろな問題が雑居しているだけで、それらに統一感を与える主体であるはずの「日本」が不在なのである。

「小沢さんに一言」にも書いたように、拉致問題はテロであり、北朝鮮が「テロ(支援)国家」指定解除されるなら、アメリカとの共闘は出来かねるという主張こそ日本の理であり利ではなかったか。

福祉・財政問題については、改革者の選抜がすべてである。なぜなら旧態のシステムで、旧態の不備を解決するにはその旧態のシステム自体の否定を伴うため、首尾よくいっても殊の外時間がかかる。内政の変革は外部にまかせるのがいい。

つまり「阿弥」である。観阿弥・世阿弥らが将軍に会えたのは外道だったからで、学者や芸人こそが旧態改革に適任である(舛添大臣や東国原知事をみよ)。

したがって安倍総理の最初の税調会長人事は図らずも(?)適切だった。間違えたのは、「室町ふたたび 14」にも書いたが、彼が辞任することになったのに、それ以降の大臣が残ったことだ(野党からの責任追及をかわすためだったが)。

昨日福田・麻生自民党次期総裁候補の公開討論をみた。

福田は、総理という役職が廻ってきた長老であり、麻生は、パフォーマンス色の濃い出世欲旺盛な職業政治家に過ぎず、どちらにも理は光ってなかった。

先日そろそろ定年を迎える年寄りたちと話をしたのだが、じいさんたちは、自分が年金いくら減って隣のじいさんより高いとか低いでやんやいっていた。

福田は彼ら同様の可視範囲しかない。もしかしたらここ1年くらいのことしか考えていず、場当たり的且つ事なかれ主義的な対応に終始するだろう。

麻生は自分の色を出せば、右よりになって、ただ摩擦は起こすがあまり実のない成果ということになるだろう。

ちなみにじいさんたちに、僕らが年金をもらう30年後には、この年金制度が破綻してもらえてるのかないのかわからなくなってますよ、といったら、しばらく沈黙した後、「でも君らは今頑張れるから、私らもう頑張れないから」といった。

つくづく安倍総理をやめさせたのは、自民党としては痛手だった。少なくとも彼には改革の第2ステージにいる意識はあった。ただ「美しい日本」を実現する「理」が具体的にみつかってなかったし、国民の人気だけが支持基盤だったのにそこに対する注意を怠った。

さて、こうして批判してるだけでは僕も同じ穴のムジナである。

理はなかなかみつからないもので、まず現状をみつめる必要がある。都合の悪い事実を除いて、よいものだけを張り合わせても本当の事実に対する「理」は出来上がらない。ないものねだりもよくない。今あるものできちんと対応しなければならない。

今僕がいる隣の部屋にはさっき取り入れた洗濯物があり、テーブルの上には、電気代や水道代の請求書がある。また燃えない粗大ごみの申請書があり、これをちゃんとやらないと、ここぞとばかり「若者はしょうがない」が口癖のばあさんがやってくるし、よくいくスーパーに行けば、リストラされてしょげているおじさんもいる。それからすごく前向きに生きていて、他人を疑わない彼らをみてると自分が恥ずかしくなることもある。こういうことが全部現実で、それを全部受けとめるほどに対峙しなければ、次の一手に繋がる「理」はみつからない。

というわけで、しばらくブログ休止します。一部仕事がかわり、時間がとれないことが直接の原因ですが、もっともっと「直接的に」現実に「阿弥」として関わってみたいと考えるようになりました。いつもみていただいていた数十人のみなさんありがとうございました。とても励みになりました。

では再開まで(たまには覗いてみて下さい)。

追伸:安倍首相53歳の誕生日(産経新聞) - goo ニュース

復元に失敗した女の復讐

2007-09-20 12:18:33 | 雑談(ジョーク)
僕は幽霊の存在を信じない。

いたら怖いからである。

その恐怖を僕にしみこませたのが女優市毛良枝である。

そのTVドラマの副タイトルが『復元に失敗した女の復讐』で、僕が小学校低学年のとき、土曜日の午後だと思うが、ふたつ下の弟と並んでそれをみた。

いまだにその副題を忘れていないことがいかに衝撃的だったか察していただけると思う(本タイトルは忘れているが)。

僕と弟は、体育座りをして、両腕をバリケードのようにしてその腕の隙間からテレビをみていたが、その後しばらくテレビ画面に市毛良枝が映った瞬間に、そのテレビの電源をコンセントを引き抜いて消した。

話の内容は、ある男がある女(市毛良枝)と交際し、結婚を約束していた。

しかしその男には逆玉の輿で若い女性が上司からあてがわれる。

そこで市毛が邪魔になったその男は、市毛が心臓かなにかの発作が起きたとき薬を多めに飲ませて殺す。

その故意に市毛良枝は気づく。

気づくがすでに遅く、「あなた、私を殺そうとしたわねぇ~」と足元にすがりつきながら死ぬ。

男は市毛の死体を隠し、数年後白骨死体が発見されたところから物語が始まる。

すでに白骨化している死体は身元がさっぱりわからない。

そこで復元をしようということになるのだが、復元を担当する医師が悩んでいるところにある女性がやってきて、いきなり男女の関係になる。

うだつのあがらない医師はなんで自分のところにこんな若くてきれいなひと(=市毛)がといぶかるが彼女と逢瀬を重ねる。

そしてその白骨化死体と市毛の類似に気づき、白骨化死体が復元され、ついに身元が分かり、その医師は愕然とする。

その頃市毛を捨てて殺した男は、逆玉の輿でうまくいき、結婚を間近に控えていた。

そして結婚式は文金高島田でやることになった。

式の途中、女は、カツラに頭をしめつけられて痛い、と言い出す。が、式はそんなに長い時間じゃないから我慢することになる。

ケーキ入刀のときそのカツラは頭を更にしめつけ、ふらついた拍子に男を刺してしまう。

そのカツラは役目を果たしたかのように新妻の頭からこぼれおち、男の目の前に落ちる。

男は息絶える前に、そのカツラのメーカー名をみて、愕然とする。

市毛は亡くなる前、自分の髪の毛をカツラ屋に売っていたのだが、その売った先の名だった。

「お前、最後まで」とかなんとかいって息絶える。


最近は市毛良枝は普通にみられるが、潜在的な恐怖はなくなっていない。

その証拠に、昔付き合って別れた女に追い回され(オレが振ったわけじゃないしひどいことをしたわけでもないのに)、最後に追い詰められて、ひぃぃぃっ、という夢を定期的にみる。

オレは今も復讐されている。

追伸:上述したようにこのドラマの正式なタイトルはわかりません。市毛良枝さんのウェブにも載ってませんでしたので。

ライオン

2007-09-19 19:37:29 | 将棋・スポーツ

数日前黒龍の「龍」を買いに新幹線に乗って出かけた。

「♪新幹線(カローラ)に乗ってぇ~♪」と歌いながら駅を降りると、お店まではスキップで行った。

が、その店につくと「龍」がなかったっ!

愕然とする僕に、店長は、「いるならいるって電話くれればよかったのに」という。

そうだった ソウダッタ、ソウダッタ、ソウダッタ (小さいカタカナは頭の中で反響する言葉)

なんのために ナンノタメニ、ナンノタメニ、ナンノタメニ

携帯持ってんだ モッテンダ、モッテンダ、モッテンダ。。。

といってもこのお店は素晴らしいお酒ばかりが売っている店!!

気を取り直して、黒龍の「ひやおろし」と、「久保田萬寿」、「喜久酔大吟醸」を買った。

いうまでもなくその晩は素晴らしい宴を催すことができた。

そして翌朝快適に目覚めた僕は、ヤンキースレッドソックスの最終戦をみようとスウィッチをいれた。

先発は、クレメンス(45歳)とシリング(40歳)だったが、クレメンスが試合前芝の上をゆっくり歩く姿はライオンのように美しかった。

強者中の強者はこんなにも美しいのか、と感動した。

もちろん昨夜久しぶりに呑んだのにきちんと朝早く起きて、お酒も頭に残らずこの試合に備えられたのが嬉しい、やっぱりいい酒は、、、

!!!

ふとみると、昨日買った3本が全部空になっていた!

「なんでないんだよっ!みんなで呑んだなっ!」

と叫ぶと、

「なにいってんの、全部自分で飲んだんじゃない」

そうだった ソウダッタ、ソウダッタ、ソウダッタ(反響)

昨晩の記憶がよみがえってくる。

確か「ひやおろし」から呑み始めみんなが日本酒のまないのをいいことに次から次へとあけていった。

最後に残ったのが萬寿だったが、少し残そうと思っていたのに知らないうちにカラになっていた。

僕は酒瓶を手にとって残ってないかみてみた。



なかった ナカッタ、ナカッタ、ナカッタ。。。

なんで ナンデ、ナンデ、ナンデ

一気に イッキニ、イッキニ、イッキニ

飲み干しちまったんだ マッタンダ、マッタンダ、マッタンダ。。。

悲しくなった僕は上記久保田の写真を撮り、ついでに以下の写真も撮った。



クレメンスがライオンにみえたので、愛靴のDriving Shoes、Lion も撮りたくなったのだ(なんのこっちゃ ナンノコッチャ、ナンノコッチャ、ナンノコッチャ)。

その日の親族将棋チャンピオンズ・グランプリは4勝1敗で優勝した(7年連続7度目)。

追伸:言葉にならない喜び=谷らメダリストが帰国会見-柔道日本選手団 (時事通信) - goo ニュース 見事っ!!強いっ!!


絵心 4: なかひがし

2007-09-15 10:34:01 | 雑談(ジョーク)

今回の京都旅行のテーマは「共存」。共存といっても一緒にいやすいものが共にあるのではなくて、「真如の月」のように、有無といった全く正反対というか、ピカソの言葉でいえば、自分と自分以外の物(=ピカソの言葉でいうと「自然」)のようなどうやってもその境界がなくならないものの共存。

それを妥協なく模索してくれそうなところといえば、「草食なかひがし」。「草食(そうじき)」の「食」は本当は「口」を頂いた「食」という字で、中東さんにうかがったところ、口を一番上に持ってきたのは、「横に口があると寝転んでいるみたいだから、一番上に据えて姿勢を正して食材と向い会うといういうことです」と、日本料理の妙である取り合わせと真っ向勝負をうたっている京都一といわれる店。

季節感たっぷりの最初の料理が下。


きな粉酢で無花果と豆が中央にあり、左奥からナスと魚(種類わからず)を焼いた物、その手前がサトイモ、その右が黄身の味噌漬け、右端が栗。どれもこれもが今まで食べた仕方ではないものばかりだった。

とにかくそれぞれがまずきちんとしている(特に僕が好きな黄身の味噌漬けなんてどうやったらこんな味がでるようになるのかわからない)。

だからちょっと映りが悪いが、下のようなごく一般的なやり方で、蓼酢の子持ち鮎なんかの焼き加減もこの鮎自体が破裂しそうに膨らんでいて「焼きもの」としてまず確立されている(中の卵もびっしりつまっていてこれ以上の要求が浮かばない)。


そうして置いて、連続で以下のような鮎も出す。


鮎が半身で切られていて、ピーマンみたいなものとトマトと合わせて食べる。「草食」であるだけに、季節の草が主人公で鮎は脇役で、また、織部ともよく合って、味が渾然としてうならされた。

渾然さ(=取り合わせ)を更に複雑にしたのが鯉の刺身。


夏草ほか、鯉の皮、菊の花びら、おくらと茗荷の花、ゴーヤの熟れた実、乾燥させた醤油を刺身で全部くるんで頂く。

今回の取り合わせで一番気に入ったのが、以下。



甘鯛(グジ)のオレンジソースみたいなものと和えたもの。西洋料理ではよくありそうな取り合わせだが、好きだな、この相性は!

ほかに取り合わせの妙としては、

 

左が松茸を脇役にした椀物でフタをあけると、月がみえるという趣向もいいが、汁の緊張度が高いというかこの澄み切った透明度は何だっ!

また右のデザートは、左下のなんとかトマトも右側のなんとかブドウも人間の手にかかっていない野趣溢れる味だったが、取り合わせとして感心したのは上の温州みかんのゼリーにバジルのアイスクリームとゴーヤの種、大人のデザートとはまさにこういうもん。

それから今回初めて写真をとらせてもらって、いざ並べてみると絵心というか見た目の美しさは僕の顔に比肩すべき程ほどである。以下が、器との映えの例。

  
左は蓮に小豆の入った焚物の上にサツマイモを揚げたもの、右の料理のうえにあるのはオクラの花(はじめてみた)。

さて、草食なかひがしも二回目なので、そろそろ対決させていただこうと思い、いろいろ伺った。

そういえばピカソをみるにあたって『青春ピカソ』を読み返したのが、その対決しようという姿勢について言及があった。素晴らしいとか敬意を表したいものなんだから対決なんかしなくても、と思われるかもしれないが、僕はそうは思わないからだ。

「太陽の如き存在であればこそ、かえって神棚から引き摺り下ろし、堂々と挑まなければならない」

と思う。結局のところは弁証法というか今自分が最も対峙したいものと衝突してこそその次のステージが来る。それを忌避しては次のステージはない。岡本の言葉でいえば、

「『とても及びもつきません』と頭を下げ、まったく己の立場などないようにしてみせるのが、かえってもっとも効果的な方法だとさえかんがえられているようだ。自身の力で己を権威とするのではなく、公認された権威をかつぎまわり、その威光をかさにきて権威面をする、このうんざりする気分の上に日本現代文化ののっぴきならない変態性が表れている(20)。」

さすがに僕は「変態」とまでは思わないが、面白いと思った自分の「太陽」とは対決したい。でなければ当の僕にその先がないからだ。

もちろん対決にはこちらにも準備が必要で、その対決する相手を知らなければならない。だからプロである中東さんと真の意味で対決するには、中東さんのことを知るための言葉を吐く。

というわけで、「草食」の意味から詳しくお話いただいたが、途中から中東さんの好きな分野、ダジャレでの勝負となった(なんでやねん)。

そして最後にお出しいただいたのが水出しコーヒーで、中東さんいわく、「ちょっと(ホット)コーヒー」。


ダジャレでもまだかなわないと思った。。。でも中東さんに最後に「これからもよろしく」といってもらえて嬉しかった。

これまでの「絵心」123


絵心 3:ピカソを読む

2007-09-14 23:12:59 | 文学
ピカソ展(JR伊勢丹京都)に行った。

ピカソといえば、絵画も推敲(ピカソのことばでいえば「否定」)であることを教えてくれた画家。

自分のやり方だけで、ひとつのテーマを描ききろうとする。

「絵を描き始めると、よく美しいものを発見する。人はそれを警戒すべきである。絵を打ち壊し、何度でもやり直すのだ。美しい発見を破壊するたびに、芸術家はそれをなくしてしまいはしない。実際は彼はそれを変化させ、緻密にし、より実質的にさせる。成功は発見を否定した結果である。そうしなかったら、ひとは己自身のファンになってしまう。私は私自身を売らない(『青春ピカソ』から抜粋)。」

この展覧会に集められた作品は、晩年のものが多かったが、大きく分けてテーマは「女」と「闘牛士」。

ピカソには一体何人の女性がいたのかわからないが、妻がいてもほかの女性を好きになり最後の結婚も72歳である。

つまりどんなに好きになっても飽きるがまた好きになる。妻があるのに好きになった女性に子供をふたりほど生ませるが、その女性さえ、飽きがきたとみえる風のものがある。

なんなんだ、この女というものは男にとって!肉体か、肉体にそんなに惹かれるのかッ!

という叫びが聞こえてくる(オレだけ?)

最後の奥さんの結婚式のときの絵は20stateあるが、僕は、解説にあったようなどんなに彼女を愛していたかを表わすとはとても思えなかった。オレがこんなにも好きになった「女」というのはどんなやつなんだッ!?を模索している気がした。

僕の場合は…、と、とてもそんなこと考えたくない(恐ろしい結末が待っているような…)。

きっとその問いに対する答えは好きなときにはみえてくるかもしれないが、違う女性を好きになれば「なぜオレは…?」という気になるだろう。

という意味で現実認識というのは必ずズレが出てくる。

人間はいつもよりよい未来を模索する(価値観や置かれている状況によって「よい」状態は異なる)。

だからできるだけ現在に近い過去を勉強しようというのがフロイトだったが、ピカソとか岡本の場合は、その過去を勉強した上で完全に自分のなかから消す(=否定する、あるいは現在にしてしまう)。そのうえで現実と素っ裸で向き合い肉迫しようとする。

そのうえでみえてくる現在に生きる人間の象徴が「闘牛士」である。

ピカソは父親かなんかにはじめて闘牛をみにつれてもらって、最初の作品も闘牛士であるが、闘牛士に必要なのはなんといっても「コルト・イ・デレチョ」である。

こんな風に単純すぎるほど単純化した顔が彼の自画像にみられる。

自画像の解釈もいろいろあるんだろうが、泰然自若な彼自身が描かれているのだと思う。

彼にしてみれば、ビビルことなんかないっ、他者なんか自分と対峙するものではあるがそれ以上ではないのだから怖れることもない、あとは気持ちの問題だといっているが如くだ。

太郎さんの言葉でいえば、

「おのれをのりこえるということは、極端におのれ自身になりきること以外にありません。過去が全て受けた遺産として、自由に所有することができるひらかれた世界だとしても、この狭い出口において強力に濾過する。過去が何らかのスジをもって意味づけられる、伝統があらわれるのはその瞬間なのです。過去をどんらんに無限大にまでひらいて、現在のパティキュラリティーは逆に極限までちぢめて考えるべきだと思うのです」

という感じ。

しかし僕のような凡人になってくると、そうはいっても…というときがある(そっちの方が多い)。

そんな顔がこれでもかと描かれているのが、ジョルジュ・ルオーの「薔薇を持ったピエロ」(自画像)。

一目でこいつはオレだと思った。

絵の下の解説に、「ルオーは自分が社会に認められていないと考えていた」とあったが、その通りだったろう。少なくともそういう気持ちに打ちひしがれているときに書いたのは間違いない。

ピカソとルオーの自画像が同時に見られるのが、フィラデルフィア美術館展《印象派と20世紀の美術》。

なんだか広告してるみたいだが、ルノワールからドガ、ピサロら印象派からピカソの代表作、プランクーシの「接吻」やロダンの「考える人」まで美術の教科書みたいな配列で僕みたいのにはちょうどよかった。。。


追伸1:伊勢丹のピカソ展は誰が作品選んだのかは知らないが、いい選抜だと思った。ピカソの意図はともかく、選抜者の意図はわかる。

追伸2:フィラデルフィア美術館展にはPaul Klee もあってこれもよかった。

追伸3:これまでの「絵心」12

室町ふたたび 14

2007-09-13 00:52:12 | 歴史
安倍首相が辞意表明=「求心力ない」と伝達、麻生幹事長に-政権浮揚図れず (時事通信) - goo ニュース

ふと安倍さんは足利義政の心境だったかもしれない、と思った。結局現在の政局は、リーダーシップを必要としない、まさにニホンのデントー状態だから、それなりにしていればいいのなら、自分がいる必要はない。

しかも自分の責任というよりは、時代が変革期を迎え、閣僚の不祥事に足下をすくわれ、小泉さんのときとは要求されることが全く違っていた。

小泉さんがやったのは、日本的改革に過ぎず、改革ののファーストステージみたいなもので、ドラスチックなメスをいれたのは自民党内部だけだった(これだけでもヨシとするべきなのだろう)。

安倍さんが担当するセカンド・ステージは、これからの道筋という大きなドラフトを描く時期だった。そのために憲法と教育の改正をしようとしたのは正道ではあったが、それ以上に重要な福祉税制問題が本格化できなかった。

当の税調会長の愛人スキャンダル(官僚のリークによる?)と、その後も柳沢大臣の失言問題だったりでその対応にばかり追われた。

歴史をみると、明治以前の幕府の変わり目は、役人、すなわち中央と民衆をつなぐひとたちの横暴ぶりに、民衆と中央の絆が失われて始まったわけだから、やっとそれが曝されるようになって、こうした動きは世論を動かして本来安倍さんを後押しするはずだった。

しかしそうした暴露が、閣僚の不祥事と重なり、それに対する安倍さんの処置のもたもた感が政府自体も同じ穴のムジナというイメージにした。

しかもドラフトでいいはずの教育も憲法も説明が甘く、すぐ反論が出るような一方的な説明では勢いがつかない。

ただセカンド・ステージの担い手として小泉さんの指名自体は間違っていなかったと思う。本当の改革は若い人が中心にならなければできないからである。

結局俯瞰してみると、安倍政権はことごとく役人に先回りされたのではと勘ぐりたくなる。これから民主党や地方の公務員の問題になったらなかなか役人改革は始まらないし。

自分の現実に対する無力さに。。。

追伸1:WashingtonpostNY Timesの安倍総理辞任の報。

追伸2:これまでの「室町ふたたび」12345678910111213

6年後の9/11

2007-09-12 00:00:00 | アメリカ
9/11のテロについてのアメリカ国民のGallup世論調査結果

Q1.その記念日をどのように過ごしますか?
A) きちんとした集会などに出る(6)
B) きちんとやるわけではないがなんかやる(71)
C) 関係ない(23)

Q2. あのテロからアメリカ人の生活は変わったか?
 Yes(50)  No(49)

《年齢と性別》
 18-49歳までの女性のうち42%
 18-49歳までの男性のうち21%
 55歳以上の女性のうち27%
 55歳以上の男性のうち22%

Q3. あのテロは、あなたの人生で最も記憶に残りましたか?
A) 最も記憶に残る 71
B) いいえ     29

Q4. あなたはアメリカ人がこのテロの記念日をどのように受けとめていると思いますか?
A) 過重なほど(6)
B) 適切な程度に(51)
C) 少なすぎ(29)

9・11テロから6年 NYの追悼式で犠牲者に黙祷(朝日新聞) - goo ニュース

千人を超える犠牲者、いまだ「帰れず」 テロから6年(朝日新聞) - goo ニュース

ブルースを読む

2007-09-11 21:54:02 | 文学
ある乙女との出会いを契機に、ここ数ヶ月小説を月10作品をノルマにしていた。

といっても僕みたいに怠け者だと長篇はおろか、中篇でもきついので、短篇も1と数えることにしてたのだが、花村萬月の処女短編集『ヘヴィ・ケージ』を読んだ。

以前も書いたが、花村の作品には、『ゲルマニウム~』をはじめとして暴力が鼻について、読み続けようという気にならなかった。

しかし本作品の裏にある解説の引用に魅かれた。

「ブルースに否定されながら、それでもブルースにしか癒しを求められない人間たちのあがき。。。」とか「萬月文学の原点」とか。。。

キーワードは、「ブルース」と「原点」で、花村の『ブルース』はよかったと思ったし、何となくみえそうでみえない花村の原点なるものを探ってみたくなった。

そしたらうまい具合になぜ花村の暴力が鼻についたのかがわかった。

僕にとってブルースは、矛盾というより同居しづらいものが共存してImpasse に陥ることであり、はけ口のないその状態に居つづけることだ(「Big Night Blues」参照)。

そしてその状態に居続けるうちに憤懣というか力がたまっていって時に暴発する(経験がある、「寂のブルース」参照)。

だからその暴発した力としての暴力は「鼻につく」というよりもともと突拍子がなくて関係がないものなのであり、その「突拍子がなくて関係のない」ところが嫌だったのである。

『ヘビィ・ゲージ』最後の「Nothing But the Blues 」だけでなく、この短篇を読みすすめるうちに、糸のほつれがとれてくるようにそれがみえてきた。

これまで不必要と思えるほど言葉が重ねられていた部分がこの短編集にはなく、ある種のシンプルな力強さになっていて、作家は処女作に帰るとはよくいったものだ。

追伸:今日はテロのあった日:Blood of Heroes(「攻撃は最大の防御」参照)。

World Gallup によると、Muslim World にDemocracy をという動きはどういった影響を与えるかについて、54%が政治的に過激化にさせる、30%が穏健にさせる、という結果だった。

喧騒という娯楽

2007-09-08 07:59:28 | 音楽
20世紀後半の大きな変化のひとつは(って後半からしか生きてないが)、音楽が各個人の手元にしかも個々の嗜好にあわせて供給されるようになったことだと思う。

僕も、星の数ほどの選択肢からあれがいいこれがいいといって曲を選択し、Digital Audio Player の中身を絶えず入れ換えて聴いている。

しかしなぜその曲を選んだのかを説明することは、何故僕が「がんもどき」が好きなのかを説明するのと同じくらい難しい。

したがって音楽は、社会や歴史の一ステージを瞥見する窓になるとは思うが、一方音楽自体の理解はあくまで断片的でしかないはずである。

と、なんだかアドルノみたいになってきたがその通りで、アドルノの『音楽社会学序説』を読んだとき、彼のリスナー分類が面白かった。

ドイツだし時代も時代だから、その分類をそのまま21世紀の僕らにあてはめることはできないが(ジャズが反逆者の音楽に分類されてたりする)、僕はそのなかの3つめに紹介されている「教養的~」というのにあてはまるのではないかと思った。

その「教養的~」は、音楽に「音」のみを求めるというステージである(ほかにいろいろ条件があるのだがあてはまるのもあればあてはまらないものもあり、そのなかで僕が最も特徴的だと思ったのがこれ)。

その箇所を引用しよう。

「このタイプが第1に要求する唯一のものは、常軌を逸した、いわゆる測定可能な成果、つまりショーの理想どおりの、いわば命がけの巨匠性であり、彼を感嘆させるのは自己目的と化した手段、つまり技術である。この限りにおいては彼は今日の平凡な大衆型聴取者からさほど遠くない(21)。」

ほかに重要な属性として、このタイプのひとがコンサートに行ったりして、音楽が商売として成り立つということだ(僕は商業音楽には貢献していると思う、自分の部屋を見渡せばわかる!)。

少なくとも初めてこれを読んだときの僕は、「命がけの巨匠性」とか「自己目的と化した手段、技術」だけで十分だと思っていた。このレベルで十分芸術はわかるのだと思っていたからだ。

ここでの芸術とは、以下の引用句のなかの「芸術作品自体の自律性」を持ったものだ。

「芸術作品自体の自律性が導き出されるのは、社会の連関し合っている諸作用のなかにあってその連関に従属していない芸術作品の人為的な即自(an sich)が自然というものを、つまり普遍的な利益などに歪められていない存在を、約束してくれるからである」(74)。

なんだか難しそうだが、日本の借景式の庭園を思い浮かべるといい。岡本太郎が『日本の伝統』か『美の呪力』かなんかでいっていたことだが、実と虚が対決しているにもかかわらず同居しうる器とか枠のようなもの(これを「調和」とは呼んでいないところがアドルノと重なる)が「芸術」である(ほかに定義はいくらでもある)。

この状態は、「自己目的と化した手段、技術」が「命がけの巨匠性」というレベルにまで達せられても「感じ」られるのである。

今日はなんでこんなことを書き始めたかというと、NY Times のこの記事を読んだから。

同記事によると、コロラド・スプリングスのヒップ・ホップのクラブで最近若者による暴力事件が多発し、その原因がその音楽にあると警察が発表したらしい。

根拠は、Memorial Day のコンサートの2時間後に拳銃による発砲事件が起きたからで、音楽と発砲の間に因果関係があるとされた。

当然のことながらそうした見解に反発があり、実際に事件を起こさないパーティをしてみせたりという抗議活動もあった。

しかし実際にそうした取り締まりをする方々によると、音楽と暴力事件の因果関係は確かにある、という。

若者が大勢集まってヒップホップみたいな音楽があれば当然盛り上がって、やたらにはしゃぐ奴が出てくる可能性大だからというわけである。

同記事は更にある大学の教授の説明を載せている。

コロラド・スプリングスは1990年代から10万も人口が増えたが、その多くはMinorities で、そのMinorities の文化や不平に対して、benign negligence、簡単にいえば無視してきた、その降り積もった鬱屈としたものを抱え込んだ若者と、街とが対峙しているのだという。

こういうリベラル系の解釈は「いかがなものかな」(宗男風:旧いな)と思い、また音楽と暴力事件の関係を説明するために、つまりアドルノなら、発砲事件と音楽の関係を「幸福感」と結びつけるのではないかと思いつつ上記本を探した。

アドルノによれば、完全に分業化された仕事をする個人は、まさしく個のなかに閉じ込められており、にぎやかな音楽があるだけでそこに他者の生を感じ幸せになる。つまり集団性を感じさせるというのである。

その箇所を引用しよう。

「この喧騒はさらに詳しくは勝利と規定される。つまり強さ、力、栄光といったものがそれによって暗示される。そしてそれらと自己を同一視することによって、個々人の生活の掟となってしまっている全般的屈辱に対して償いがなされる。よく貧しい老婆たちが赤の他人の結婚式でもらいなきしているが、消費音楽なるものは万人にとって永遠の赤の他人の結婚式である」(81)。

アドルノも説明されていないものを説明しようとしたひとという印象だが、音楽が与えるこの一体感は、本来(といっていいかわからないが)「退屈」な人間、自分のなかを飽くことなく探求しても何もみつからない人間にとって、世界が一瞬音楽によって彩られたから(=気晴らし・娯楽)、ということになる。

室町ふたたび 13

2007-09-05 22:52:31 | 歴史
万引き?客が死亡 殴った店長を容疑で逮捕 千葉(朝日新聞) - goo ニュース

「殺されると思った」と少女、男性死因は出血で窒息…静岡(読売新聞) - goo ニュース

このふたつの事件は、本来被害者である人間が加害者を殺してしまった事件である。

両ケースとも当事者が亡くなっているので真偽は分からないわけだが、生き残っている人間の言い分が正しいとして、万引きと暴行が結果として死であがなわれたことになる。

暴行に対する暴行はともかく、万引きに対して、結果として死に到った暴力は適切だったろうか。

僕は適切だったと思う。

「盗む」ということは、あなたが所有しているものを無断で持っていくことであり、社会生活の基本をすでにないがしろにしている。

ないがしろにした奴は、すでになにをするかわからない人間である。

そうした人間とふたりっきりで対峙した場合、相手の行動に誠意や慎みや悔恨を期待する選択肢はもちろんあっていいが、その選択肢が成立するにはいくつかの条件が必要である(僕が毎日体力トレーニングをするのはその選択肢を確立するためだが、なかなかそこまでには到っていないので、僕は自分に対する加害者にはいかに後悔させるかしか考えていない)。

なにせ実際に多くのひとが襲われる毎日である。

そうした Outlaw を law で本当に取り締まれると思っているのだろうか。もともと law を無視している人間に law を適用できると思う人間の方が僕には怪奇にみえる。

ひとは誰でも過ちは犯す。law は過ちとみなされうるものに適用されるのであって、それを初めから犯すつもりの人間に適用する余裕は僕にはない。

まして国民から預かった金を横領した奴に人権も何もない。

国の秩序を維持する側の人間が、何のためにつぶれる心配がない公務員という地位に置かれているかわかってない。秩序を安定させるためだ。

Outlaw が当たり前の社会なら室町。。。

追伸:これまでの「室町ふたたび」123456789101112