安倍総理の最後の言葉をみてつくづく思うのは、現実問題打開の難しさ、事実を理に置き換える難しさである。
先日北村薫の小説『ターン』を読んだ。
主人公は、30歳前後の版画をなりわいにする女性で、7月のある日交通事故に遭い、5ヵ月間意識を失っているが、当人はその事故に遭うまでの24時間に閉じ込められている。事故に遭ったのが15:15で、その前日の15:15から事故に遭う直前の15:14までを生きるとまたその15:15に戻るから「ターン」というわけである。
物語は、そんな迷宮に陥った彼女が、唯一電話でコンタクトがとれる現実世界の男性Aの協力によって無事意識を取り戻すという話で面白かったが、小説のあとがきによると、読者からクレームがついたらしい。
この小説にはもうひとり男Bが登場するが、アクドイ奴で、主人公の存在を知るや襲おうとする。主人公と同日のほぼ同時刻(15:20)に事故に遭ったため、ターンする時間の幅が重なり、彼女を肉体的にとらえることができるためだ。
主人公は逃げようとするが、ターンをすると決まった時刻(15:15)に決まった場所に戻ってしまうので、そこをつかまえられてしまうのである。
ただし男もターンして場所が移るので、彼女を襲える時間はターンする15:20までのたった5分しかない。
小説を読んでいるときはハラハラドキドキで面白かったのだが、そのクレームによると、この待ち伏せは起こりえないという。
なぜなら彼女と男が事故に遭った日を2日とすると、彼らの24時間は、
女:15:15(1日) ⇒ 15:14(2日)
男:15:20(1日) ⇒ 15:19(2日)
となるから、2日にいる男にはどうやっても1日の女を待ち伏せできないというわけだ。
この間違いは、読んでるときは気にならなかったが、男Bの存在が、主人公が最終的に意識を取り戻すきっかけに少なからずなっているために、少し興醒めした。
ある事実に対して同じ認識を得ようと思ったらそれなりの「理」が必要といいたいのである。
安倍さんの話に戻る。
安倍総理が処理を求められたのは、テロ(拉致)問題を中心とする対外政策と、国内の財政収支の健全化だったが、両方ともが難題で押しつぶされた格好になった。
それぞれに理をみつけることができなかったからである。
前者については、拉致問題と、中東のテロ対策を同列にする理がみつからないことが問題だった。自国民の安全が侵されているのに、中東に自衛隊派遣もあったもんじゃない。
野党や小沢さんがいう憲法ほか法規上の訴追や、単なるアメリカ批判という国際良識では、日本が抱えるちぐはぐ感は拭えない。相変わらず「ニホンのデントー」でいろいろな問題が雑居しているだけで、それらに統一感を与える主体であるはずの「日本」が不在なのである。
「小沢さんに一言」にも書いたように、拉致問題はテロであり、北朝鮮が「テロ(支援)国家」指定解除されるなら、アメリカとの共闘は出来かねるという主張こそ日本の理であり利ではなかったか。
福祉・財政問題については、改革者の選抜がすべてである。なぜなら旧態のシステムで、旧態の不備を解決するにはその旧態のシステム自体の否定を伴うため、首尾よくいっても殊の外時間がかかる。内政の変革は外部にまかせるのがいい。
つまり「阿弥」である。観阿弥・世阿弥らが将軍に会えたのは外道だったからで、学者や芸人こそが旧態改革に適任である(舛添大臣や東国原知事をみよ)。
したがって安倍総理の最初の税調会長人事は図らずも(?)適切だった。間違えたのは、「室町ふたたび 14」にも書いたが、彼が辞任することになったのに、それ以降の大臣が残ったことだ(野党からの責任追及をかわすためだったが)。
昨日福田・麻生自民党次期総裁候補の公開討論をみた。
福田は、総理という役職が廻ってきた長老であり、麻生は、パフォーマンス色の濃い出世欲旺盛な職業政治家に過ぎず、どちらにも理は光ってなかった。
先日そろそろ定年を迎える年寄りたちと話をしたのだが、じいさんたちは、自分が年金いくら減って隣のじいさんより高いとか低いでやんやいっていた。
福田は彼ら同様の可視範囲しかない。もしかしたらここ1年くらいのことしか考えていず、場当たり的且つ事なかれ主義的な対応に終始するだろう。
麻生は自分の色を出せば、右よりになって、ただ摩擦は起こすがあまり実のない成果ということになるだろう。
ちなみにじいさんたちに、僕らが年金をもらう30年後には、この年金制度が破綻してもらえてるのかないのかわからなくなってますよ、といったら、しばらく沈黙した後、「でも君らは今頑張れるから、私らもう頑張れないから」といった。
つくづく安倍総理をやめさせたのは、自民党としては痛手だった。少なくとも彼には改革の第2ステージにいる意識はあった。ただ「美しい日本」を実現する「理」が具体的にみつかってなかったし、国民の人気だけが支持基盤だったのにそこに対する注意を怠った。
さて、こうして批判してるだけでは僕も同じ穴のムジナである。
理はなかなかみつからないもので、まず現状をみつめる必要がある。都合の悪い事実を除いて、よいものだけを張り合わせても本当の事実に対する「理」は出来上がらない。ないものねだりもよくない。今あるものできちんと対応しなければならない。
今僕がいる隣の部屋にはさっき取り入れた洗濯物があり、テーブルの上には、電気代や水道代の請求書がある。また燃えない粗大ごみの申請書があり、これをちゃんとやらないと、ここぞとばかり「若者はしょうがない」が口癖のばあさんがやってくるし、よくいくスーパーに行けば、リストラされてしょげているおじさんもいる。それからすごく前向きに生きていて、他人を疑わない彼らをみてると自分が恥ずかしくなることもある。こういうことが全部現実で、それを全部受けとめるほどに対峙しなければ、次の一手に繋がる「理」はみつからない。
というわけで、しばらくブログ休止します。一部仕事がかわり、時間がとれないことが直接の原因ですが、もっともっと「直接的に」現実に「阿弥」として関わってみたいと考えるようになりました。いつもみていただいていた数十人のみなさんありがとうございました。とても励みになりました。
では再開まで(たまには覗いてみて下さい)。
追伸:安倍首相53歳の誕生日(産経新聞) - goo ニュース