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歳末に,祈る意味を

2013年12月24日 | 雑記帳
 大判の日めくり暦を職場で使っている。今朝もめくってみて、改めてあと8枚しかないのかあと思う。子どもにとっては楽しみなイブの日であるが、暦をみると「納めの地蔵」と記されている。このジャンルは全く疎くて、初めて聞いたような気がする。検索してみたら結構多くあることに驚く。こちらがわかりやすい。


 自分の家がそもそも仏教徒でないので、縁がないのかもしれないが、「地蔵」が何のためにあるのか深く考えたことはなかった。しかし、いたる所に置かれている地蔵様を思うと、ああここはやはり「祈りの国」であることに気づく。そういえば一昨日『人は何のために「祈る」のか』という文庫をかったばかりだ。


 まだページを開いていないが、本の内容とは別に、もし自分がそう問われたらどう答えるのか、思い浮かべてみた。まず私の場合、常道として「祈る」の意味調べから始める。電子辞書に入っている広辞苑と明鏡では、後者がすっきりしている。「①よいことが起こるようにと神や仏に願う ②他人の幸せを切に望む


 「祈願」や「祈祷」という面、また古くは「のろう」の意味も含まれるだろう。しかしここでは少し横に置いておく。辞書の解釈をもとにすれば「人は、自他の幸せのために祈る」とごく当然のことを答えていい気がする。ただ、この場合の「何のため」はそういう対象を超えた、その行為の意味づけのような気がする。


 仮に「祈る」行為を、決意表明と自己暗示のために神仏への信仰に類する形式によってなぞる、とでも意味づけする。自己の利益を得る行為であれば、大きく外れてはいないだろう。他者のためにとなれば少し複雑になるが、実はそれも自己満足の域を出るのは難しい…待て、こういう論理展開は後ろ向きだと気づく。


 邪まな考えなしに、人が祈る姿は美しい。それは神仏の前で個が一心になっている様子を見るからだ。そう考えると「祈る姿」の持つ心をどう維持していくかが問題である。頻度を高くし、継続していくこと以外にない。祈る行為は一心と結び付くし、一心が生み出す具体的な収穫や幸福感の醸成を疑う人はいまい。

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